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2021/04/14

エヴァンゲリオンとわたくし

先日『シン・エヴァンゲリオン』を観てきました。
これで四半世紀ちょっと続いたエヴァンゲリオンもおしまいです。
ちょっと何か感想を書いてみたいと思います。ただ、私は謎ときや読むに堪えるエヴァ論を書けるスキルはないので、極私的思い出話と感想って方向で書いてみます。

つかこんな文章、誰が読むのかなってのを書きます。
何よりも自分の中の整理として。

(以下、ネタバレ注意です)

まず、エヴァとの出会いかな。
私が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品を知ったのは、当時よく行ってた酒場の人からでした。その人のおススメはあたりが多くてあてにしていたのだけど。その方から『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメが面白いって話を聞きました。本放送のときになるのかな。
それからレンタルビデオ屋に行って1巻だけ借りてみました。とても面白かったです。ただ、その後エヴァは超人気作品になって、レンタルビデオ屋でもずっと貸し出し中の札が下がったままで、なかなか見れませんでした。けっきょくエヴァをぜんぶ見れたのはだいぶ後、地上波再放送の時だったと思います。

それから旧劇場版を見て。新劇場版が始まった当初は、安直なリメイクと思って、私はそういうのは嫌いだから見ずにいたのですが。新劇の最初、『序』は旧テレビシリーズとあまり変わりないという話も聞いてましたし。
ただ、旧版と話が変わっていくという『破』は見に行きました。そして大感動しました。そして『Q』で愕然としました。そして今回『シン』を見たといいう流れです。

見たのはテレビ版、旧劇場版、新劇場版『破』『Q』『シン』ぐらいです。コミック版はKindleのバーゲンで揃えたのがありますが、まだ手はつけてません。ソフトは『破』のブルーレイは持ってます。
ま、ライトファンというところでしょうか。

エヴァの魅力は。もちろんお話の面白さとかちりばめられた謎とかありますけど。やっぱりいちばんひきつけられたのは、シンジ君が周囲とうまくなじめない、ぼっちタイプの人間として描かれていたという事でしょうか。それはたぶんオタクに多いタイプで、もちろん私もそうなんだけど。
何とはなしに自分が周囲となじめない、どこにいても「ここはお前のいるべき場所じゃない」って思いに悩まされる。そういう部分が。
そして、その「痛み」ゆえにエヴァに惹かれる。エヴァに鷲摑みされる。だからエヴァに惹かれるのは決して快感だけではない、痛みもある、でも目をそらすことができない、そういうアンビバレントな思いを抱くものであると思います。

だから今回『シン・エヴァンゲリオン』はどういう終わらせ方をするかがいちばんの興味でした。シンジ君は幸せになるか?その幸せになる方法は私も夢見られるものか。そういう興味がいちばんでした。
今回確かにシンジ君は幸せになったと思います。でもそれは私が望める幸せじゃないなとも思いました。それがエヴァからの「卒業」なのかもしれません。

まぁ終盤は謎設定のオンパレードで、なんかはぐらかされた気もしますが。そして結局はエヴァは「なかったこと」にされたのかなぁと思います。最近よく見かえる歴史の改変という作劇術を使って今までのエヴァは、TV版、旧劇、新劇(読んでないけどコミック版も?)は「なかったこと」にされたのかな。そしてシンジ君はカノジョと一緒に14歳から14年後の世界にいる、と。

まぁ、それはそれでいいんだろうけど。

シンジ君のように世の中からはぐれてしまった者を描く作品は、その解決策として「私がはぐれてしまったと思っていた『世界』にも、自分にとって大切なものがある、そのために僕は戦う」という展開をして、そしてこの世界に自分の『居場所』を見出す。そうやって解決する作品が多いと思います。旧テレビ版エヴァなら第19話の『男の戦い』そして新劇なら『破』がその回だったかと。綾波を取り戻すために闘うシンジ君。だからこそその時シンジ君はなぜかブチ切れ無双状態になってたと。

ただ、庵野監督はそれに「ノー」を叩きつけたと思うのです。だからテレビ版は19話以降グダグダの展開に流れ、『破』に続く『Q』ではシンジ君はヴィレの人たちから酷い扱いを受ける目に遭った。(『シン』で言い訳がましくその理由が説明されていましたが)
そしてそういう孤立状態のシンジ君に孤立したままの「救い」のルートがあるとすれば、それは私の「救い」になるかもしれないと思っていました。
そのような「自分の大切に思うものを見つけて、そのために闘い、そのことによって救われる」ルートなんて自分にはないなと思っていますから。

でも、そのような、大切なものを見つけるような「救い」を私は希求していたのも本音です。旧テレビ版で19話はベストに好きなエピソードだと言っていいし、アニメのソフトなんてほとんど買わない私も『破』のブルーレイは買いましたし。そういう「救い」を望んではいました。そして、だからこそ逆に、それは私にはないなと痛感してはいるのです。

第三村のエピソード。つまり、「あなたのことを心配して、助けてくれる人は必ずいるから、心を開いて」という事の「教え」なんだろうと思います。
それは今まで生きてきて痛感します。心を開いて、誰かと仲良くなって、助けてもらって、助けてあげて、そうやって生きることができれば。それは痛感します。ただどういうわけかそれが上手くできなかったのも事実です。
女の子とのこともそうなんでしょう。そういう機会はあったんでしょう。でもあたしはレイも、マリも、アスカもいませんですが。

ま、そういう思いに忸怩としますけど。落としどころとしてはそうなるよなぁと。
そういう方向でぼっちがぼっちなまま救われるという超展開はなかったなと。
それがあるならそれを知りたかったのですが。

シンジ君が父親と対話するシーンもまたぐさぐさときました。「父殺し」ってのはよくある物語のパターンでしょうが、シンジ君は父親と闘っても勝てない。だから『対話』に持ちこむと。「父殺し」じゃないってところが大事だと思います。
私も父子関係に問題があったと思っています。いや、DVとかはなかったです。むしろDVするような父親なら「乗り越え」やすかったかもしれないけど(それはそれで大変だとも理解しますが)。むしろ甘い父親だったと思います。しかし、振り返って、父親と『対話』なんてしたことなかったと思い至ります。私にとって父親はある意味、侵すべからざる神聖な『権威』でした。自分と同じ人間だって意識が持てなかったんだと思います。そういう意味で父親を相対化して「ひとりの人間」として捉えることは自分の中でとてもタブーでした。だから父親と『人間』として『対話』はできなかったです。それはたぶん父親がそういう空気を作ってしまったんだろうとは思います(それに文句を言うつもりはありませんが)。近年少しは父親を「ひとりの人間」として捉えなきゃなと思ったりもしますが、そう思った瞬間、それを強く否定する思いが心中にもたげてくるのも事実でした。

この部分が『シン・エヴァンゲリオン』でいちばん痛みを感じた部分かなと。

私は寺山修司のファンなのですが、ゲンドウが目指した世界が「虚構と現実が渾然となった」世界だったという事に興味を惹かれました。寺山修司もまた虚構と現実の境界を紊乱して挑発するタイプの人間だったと理解しています。寺山的には「虚構」と「現実」ではなく、「虚構と呼ばれる虚構」「現実と呼ばれる虚構」という言い方のほうがいいかな。その寺山の挑発が基本にあって、それから岸田秀の『唯幻論』を知り、さらにその「人は脳内に形成された『虚構』を生きている」という思いを深くしました。人間は基本的に幻想を生きる生き物なのだろうと。ただ個人個人が自分の幻想に閉じこもっていては「社会」を構成して生きてはいけないから、「共同幻想」を作って社会を構成して生きているのだろうと。

しかし「人は幻想を生きる」という認識を持ってしまったので、逆に人それぞれにそれぞれの幻想があって、それがかみ合わない事も多いなとと感じるようにもなりました。人は幻想を生きると知って、むしろ幻想に気がつくようになってしまったと思います。「この人の中にある『幻想世界』はどうなっているのかな?」って考えるようになりました。俯瞰的と言えるかな。そう、歴史修正主義とかまさにそうだと思いますし。

ちりばめられた謎設定、テクニカルターム。それについてはもうあまり興味はありません。結局それはかつてのオタクが持っていた、競い合っていた、「マチズモ」の気風だったと思うのです。
オタクと体育会系は不倶戴天の敵と思われがちですが、集団を形成した「オタク」はその気風においては同じだと思います。体育会系ならその序列はその「腕力」によって決定されるのでしょう。それがオタクサークルなら「知識力」によって決定される。だからその知識を全開にしてイキろうとする。エヴァにちりばめられた専門用語や謎設定も結局はそういう事のためのガジェットに過ぎなかったのではと思います。謎が提供され、それを考察し、その解釈を発表する。ちょうどホームページとか、個人が情報発信するツールが整いだした時代ですし。
まぁそういうのはもうどうでもいいですと思いつつ、自分自身もちょう衒学的な人間であるとも自覚はしていますが。(こうしてブログを書いてるのもそういう事だと思います)

そしてエヴァを作ったガイナックスはその前身のゼネラルプロダクツからして、SFにおける「知的マチズモ」を衒う集団ではなかったかと思います。
そして庵野監督は今はガイナックスと手を切っているようですが、そういう部分にお気づきになったせいかもしれないとも思っています。

まぁとにかく26年間続いたエヴァンゲリオンも「ケリがついた」なと思います。「完結した」というより「ケリがついた」と感じます。
そして私はもうケリがつくまで26年もかかる作品と出会う事もないでしょう。つか26年後に生きてるとは思えないし。

わたくし事ですが、自分自身のこと、自分の周囲のこと、ここんとこいろいろ終わっていってます。
その「終わり」のひとつがエヴァンゲリオンだって認識です。
終わるのはしょうがないけど、何か新しいこと、始まってくれないかなと思ってもいます。

どうなるのかなあ。

ワシの人生、レイもアスカもマリもいなかったなぁ……(嘆息)

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