『いのちの食べかた』
昨日は渋谷のシアター・イメージフォーラムに『いのちの食べかた』を観に行きました。
去年の秋ぐらいからロングランになってるドキュメンタリーです。肉、野菜、果物、魚など、さまざまな“食べ物”が生産されている現場を紹介した作品です。ドイツ・オーストリア合作映画のようです。
ずっと観に行こうと思っていたのですが、重い腰がなかなか上がらず、やっと観に行きました。
私はシアター・イメージフォーラムの会員なので、千円で観られる、…と思っていたのですが、気がついたら今月で更新。更新料千円と入場料千円で2千 円になりました。しかし、友の会に入っていれば入場料千八百円のところ、何本でも千円で見られるのでずいぶんとお得です、といいつつ最近ほとんど行ってま せんが。シネマティークのほうで使うぐらいだなぁ…。
(以下ネタばれゾーンにつき)
本作はヨーロッパ各国を巡り、食物生産現場を撮影した作品です。それも、機械化・合理化がいちばん進んだ最先端の現場を紹介しているようです。
ミニマルな作品。音楽なし、テロップなし、ナレーションなし、インタビューなし。カメラワークもシンプルで、ほとんどの場面がフィックス。フォロー
やドリーが少し。パンやズームイン/アウト、つまり、観客の視点を導くようなカメラワークは使われていません。(私はここのところの用語に疎いので、間違
いがあったらすみません)
そういう淡々としたカメラワーク。そして淡々とさまざまな食料の生産場面が映し出されていきます。
最先端の食糧生産現場。機械と共に淡々と働く人たち。工業製品のように淡々と処理される食料となる動植物たち。ヒヨコはコンベアーに乗せられ。孵化 したヒヨコは検品され、ハネられたヒヨコは卵の殻を処理するラインにそのまま乗せられます。成長した鶏は、ゴムの突起のついたローラーにまるで掃除機のよ うに吸い込まれ、ケースに収められていきます。牛舎の牛に、委細構わず吹き付けられる飼葉。横腹に大きな穴があけられる牛の帝王切開。
そこには“いのち”という感傷的なひらがな言葉は入り込む余地がないように見受けられました。
逆にメカ好きにはたまらないシーンが多いかと。折りたたみ式の長大なブームを広げる農薬散布車、ひまわり畑の上を驚くほどゆっくりとかすめるように飛ぶ農薬散布機(ロシア製のアントノフ2型、西側のコードネーム“コルト”のように見受けられますが)、豚の腹を掻っ捌く機械、魚の腹を割いて内臓を吸い取る機械。
そして、ほんとうに、淡々と働く人たち。合間合間に彼ら彼女らが休憩したり食事したりしているシーンが挟みこまれます。
鉱山みたいなシーンがあって、これも食糧生産なのかと思いましたが。岩塩の採掘シーンでした。そこで働くショベルカーがまたかっちょいいです。サンダーバードあたりに出てきそうな感じ。
屠殺シーンもあります。ただ、露悪的な感じじゃなくて、これもまた淡々と。
ただ、がっちりと機械に押さえつけられ、それでも最後の抵抗にい
やいやをする牛の姿。額に屠殺の機械を押し付けられ、何かされて、いのちの抜けていく姿。このシーンが唯一“いのち”という言葉が当てはまるシーンだった
かもしれない。いやそれと、淡々と去勢されていく子豚の悲鳴(このシーンではさすがに私も前を押さえました)のシーンも“いのち”な感じがしましたが。
しかし、ほんと、作品の大部分には“いのち”という言葉が入り込む隙間がないように見受けられました。
かつて、屠殺は、神に祈りを捧げて行うものだったかと。穀物や野菜や果物の収穫も、収穫祭で神に祈りを捧げるものだったかと。しかし最先端の現場では、それが入り込む余地はないように見受けられます。
しかし、そのおかげで、われわれは飽食の時代を生きられてます。人類史上かつてない、「飢餓を恐れずにすむ時代」を生きていると。飢餓よりもメタボが人の命を奪う時代になってると。ま、“先進国”だけですが。
なんかそう思いました。
この作品のミニマルな作り方、実験映画に近いものがあるけど。普通の人はどうご覧になったのでしょうか。音楽やナレーションやテロップやインタ ビューが入ってない、ズームイン/アウトやパンのような視覚的な演出もない、このドキュメンタリーをどうご覧になったのでしょうか。ロングランしているよ うですが。どうなのかなぁ。
しかし、近年封切りで観てきた映画をぼつぼつ思い出してみると、『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』、『ヨコハマメリー』、そしてこの『いのちの食べ方』。なんかドキュメンタリー映画に偏っていますな。
でも、この、食物生産の現場で働く人たち、なんかうらやましく感じました。日がないち日、パソコンの前に座ってぺこぺことキーボードを打つ私と違って、淡々とした現場でも、それでも何か“リアル”な感じがしました。
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