イメージフォーラムフェスティバル4
昨日は会社を半ドンしてイメージフォーラムフェスティバルへ。
M、Cプログラム。
また、気になって、なおかつ“書ける”作品について書きます。
Mプログラム、「風景を曲げる」とか。
ありふれた風景。しかし、ありえない風景になって。
『ムービー・マップ』(チップ・ロード/ビデオ/9分/2003/アメリカ)
実験映画の手法として、ファウンド・フッテージというのがあります。
既存の映像を素材として使うこと、かなぁ。あたしもよく解ってないんだけど。
それはメジャーな劇映画だったり、誰かが撮った映像だったり、場合によっては自作だったりするのだけど。それを引用したり、加工したりして新しい作品にこしらえます。
本作は、お店とか劇場かなぁ、それの映像に、既存の映画のシーンを繋げて。
ひとつはスティーブ・マックイーンの『ブリット』。あの、カーチェイスのシーンです。なんかほんと、見ているだけでアドレナリンがドバドバ出るシーンです。
もうひとつは解りませんでした。車を運転している男、運転シーンがしばらくあって、波止場に着いて。波止場では今まさに入水自殺する女の人がいて、男が彼女を助けようと飛び込むシーン。
その、本作品オリジナルの?お店の映像は、ひょっとしたら引用された劇映画に関連しているかもしれないけど。
『微気候の音』(セミコンダクター/ビデオ/9分/2004/イギリス)
不思議な風景。パティオにたちこめて動かない蒸気、帽子のようにビルにかぶさった雲。ここらへんは実写かCGか分からないんですが。たぶん、お名前からしてCGアーティストの方と思いますが。夜景の窓明かりがまるで蛍が一斉に飛び立つように散らばる様子とか、これはもちろんCGか何らかの画像処理を使っていると思いますが、幻想的です。
お次がCプログラム。日本招待部門です。
『Dé-Sign(脱記号)18<Home>』(ビジュアルブレインズ(風間正&大津はつね)/ビデオ/15分/2007)
Dé-Signシリーズはイメージフォーラムフェスティバルにあわせて毎年新作があります。私はいつ頃から見てるかなぁ。イメージフォーラムフェスティバルがパークタワーホールで開催されるようになった頃からと思うのですが。見られなかった年もありますが。
観はじめた頃のDé-Signシリーズは、当時珍しかったCGを抽象的かつ象徴的に使う、サイバークールな作品でした。CGがありふれた物になってから、逆にCGから離れて、本作はCGパートはありません。
そして、Dé-Signシリーズは毎年、社会的かつパーソナルなテーマを取り上げてきたのだけど。今年は<Home>とか。
近年、作者が通っていた小学校や、育ってきたアパートが取り壊されていって。そういう場所がなくなっていってるって事を取り上げた作品です。
吉岡忍の『M/世界の、憂鬱な先端』(文春文庫)を引くまでもなく、“現代”に生きる我々は、「いま・ここ」に薄くスライスされた存在になっていって。横糸の地縁、縦糸の歴史から浮遊していって。それは、何のためなんでしょう?
地縁血縁歴史から“自我”を切り離し。それは“自由”になる事だったかもしれないけど。でも、逆に、それらが与えていた自我の安定を失う事になって。地縁血縁歴史から浮遊した自我はブクブクと膨れ上がり、不安定に苦しむ事になって。
その「自我の渇え」を一時的にも安定させるものがいくつか現代社会にはあるのですが。そのひとつが消費活動で。つまり、人はエコノミカル・コレクトな『経済の奴隷』『消費する家畜』とディシプリンされ、消費活動と生産活動に邁進させられ。
ま、それとも、“来るべき”、“グローバリズム”な社会のために、各国家、各民族、各家族、各個人は、地縁血縁歴史から解き放たれておくべきかもしれないけど。
『多摩川暮らしの手帖』(内村茂太/8ミリ/40分/2007)
内村茂太さんの作品は、なんか、妙に、よく拝見しています。
本作は、名古屋暮らしから7年ぶりに多摩川暮らしに戻ってきた作者の日常的なスケッチ、プライベート・フィルムであります。引越しから多摩川暮らし、そして、函館や長崎への旅行。
その、プライベートフィルムにかぶさる内村茂太さんのナレーション、飄々としていて、なおかつ人を喰ったような語り口、が魅力であります。
ラスト、以前の多摩川暮らしの時代から再会し、長年親しんできた野良猫の死、とか、しんみりとまとめ上げるのはうまいなぁと思いました。
お次のEプログラムは特別に万城目純さんのライブパフォーマンスとかあったのですが、さすがに4日連続10時前帰宅はきついので、パスしてしまいました。ちょっと残念でしたが。
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