« 2018年5月の蘭妖子さんのコンサート | トップページ | 『戦争は女の顔をしていない』 »

2018/06/08

映画監督◎寺山修司2018 Eプログラム

6月2日から昨日の7日まで、渋谷のユーロスペースで「映画監督◎寺山修司2018」という特集上映をやっていました。寺山修司が監督した劇映画、実験映画。そして去年公開された寺山修司原作の映画『あゝ荒野』(前後篇)が上映されたようです。私としては未見の『あゝ荒野』が見たかったのですが、平日昼間の上映という事でそれは無理でした。で、『ローラ』の上映がある昨日の7時40分からのEプログラムを見てみました。この特集上映の最後のプログラムでもあります。

Eプログラムは「実験映画集1」として
『青少年のための映画入門』(1974年/モノクロ/3分)
『疱瘡譚』(1975年/カラー/31分)
『マルドロールの歌』(1977年/カラー/27分)
『ローラ』(1974年/カラー/9分)
『審判』(1975年/カラー/34分)
の5作品でした。すべてブルーレイ版での上映になります。

私が寺山修司と出会ったのは故郷での高校時代、演劇部の部室に転がっていた角川文庫の寺山の戯曲集でした。それでちょっと興味を惹かれ、角川文庫から出てた「さかさま」シリーズのエッセイを読むようになりました。それから夢中になって寺山修司の本を読みました。閉塞感を感じている毎日、そこに既存の価値観を軽やかにひっくり返す寺山の「さかさま」シリーズの語り口。それに夢中になりました。

そういうことで、寺山修司は私の中ではなによりも「エッセイスト」だったのですが。
寺山没後に私は上京して、渋谷だったと思いますが、寺山修司展で寺山の映像作品を見ました。その寺山修司展に上映コーナーがあり、そこで見ました。ただ、もう、何の作品がかかってたかも思い出せないのですが。

それから世紀の変わり目に寺山修司にふたたび傾倒し、たまに寺山修司の作品の上映も拝見しています。

後年も渋谷パルコで上映会があったそうで、私も渋谷で寺山修司の映像作品を拝見した記憶がありますから、たぶんそれじゃないかと。あとイメージフォーラムでも。イメージフォーラムは現在の渋谷より、四谷三丁目時代に見に行ったかな。あと、単発的なイベントでの上映とか、いろいろありました。

私の寺山修司の映画の経験はそんな感じです。
以下、簡単に感想など書いてみます。

『青少年のための映画入門』
もともとはスクリーンを3面使って同時上映する作品でしたが、今回はひとつのスクリーンに3面上映するという形での上映でした。チラシによると100フィートフィルムフェスティバル用の作品とか。これはイメージフォーラムさんで聞いた話ですが、フィルムって100フィートが最小の寸法で、それ1本で1作品って趣向で映像作品の上映会があったそうです。それに寺山修司が出した作品とか。それを3スクリーン使う上映方式で発表するってのは流石ケレンの天才・寺山修司です。

モノクロームの3スクリーンなのですが、今回、そのモノクロームが赤、緑、青なのに気がつきました。光の三原色。映画でありながら、むしろビデオを意識しているのかなぁと。後述で付記しますが。

『疱瘡譚』
これは映画を壊していく映画といえばいいのかな。映し出される映像の上をカタツムリが這ったり、釘を打たれたり、のこぎりで切られたりしていきます。音楽が中国語か何かの流行歌っぽいのが面白いです。当時としては最先端のセンスだったのかなと。75年というと日中国交正常化が始まっていて、中国ブームもあったかなぁ。故郷でも「中国展」ってのがよく開かれていて、親父に連れて行ってもらった記憶があります。

『マルドロールの歌』
文字の映画。映像に文章が乗っかります。文章が書き付けられていく様子も。万年筆で書いていくあの手は寺山修司なんでしょうか。冒頭の中東風っぽい建物は、当時天井棧敷のイラン公演を何度か行った寺山だからかなぁ。

『ローラ』
そして『ローラ』。『青少年のための映画入門』とか『疱瘡譚』では、映画というシステムをメタに遊んでいたのですが。昔読んだ寺山のエッセイに、『書を捨てよ町へ出よう』のラスト、登場人物が映写技師に「明かりをつけてくれ」と頼むシーンがあると書かれていました。映画は光と影に過ぎず、明かりをつけてしまうと消えてしまうものに過ぎないと。そう書いてあったのですが。

『ローラ』は逆に映画という「虚構」が「現実」を侵食していくという試み。スクリーンから挑発してくる女優陣。そして「観客」の男はスクリーンに飲み込まれ、スクリーンの中の女優たちに裸に剥かれ、ほうほうの態でスクリーンから全裸で抜け出す、と。そういう作品です。

このスクリーンに飲み込まれる男が「寺山修司の弟」、寺山(森崎)偏陸さんです。映画ができた44年前からずっとこの役を続けていらっしゃいます。
上映終了後のトークショーでポスターハリスの笹目さんから「ギネスに申請できるのでは」っておはなしも出ましたが。調べてみるとギネスに乗ってるひとりの俳優が演じた最長の映画シリーズが『男はつらいよ』で30年弱ですから、それをはるかに超えてます。

私がこの『ローラ』を初めて見たのはパルコでの上映会だったかしら。席に着くとき、後ろに派手な格好の人がいて。妙な人がいるなぁ、ぐらいには思ったのですが。それから『ローラ』の上映が始まって。スクリーンから挑発してくる女優陣のシークエンスになると頭の上をなんか飛んでいきます。コガネムシでも入ってきて飛んでるのかなぁと思ったのですが。それが偏陸さんがスクリーンに投げるピーナツでした。そして偏陸さんは立ち上がり、スクリーンに向かっていきます。あたしは正直言ってなんか困った人が上映妨害始めたのかなと思いましたわ、最初は。そして偏陸さんはスクリーンに飲み込まれ、やっとその趣向がわかったと。

この「入っていける」スクリーンは、木枠に幅広のゴム紐を張ったもの。トークショーでの偏陸さんのお話によると、5センチ幅のゴム紐を1センチづつ重なるように張っていくそうです。このスクリーン製作の様子は偏陸さんをモチーフにしたドキュメンタリー映画、『へんりっく 寺山修司の弟』に出てきます。

そして『ローラ』の上映終了後、その入っていけるスクリーンを表裏ひっくり返して『審判』の上映です。この『ローラ』用のスクリーンと『審判』のスクリーンが表裏になってるスタイルは昔からで、上映内容を決めるときもこの2作品はだいたいセットになるそうです。『審判』もそれ専用のスクリーンが必要になるので。

『審判』
釘の映画です。『青少年のための映画入門』の音楽はJ・A・シーザーさんのようですが、『審判』も音楽はシーザーさんで、シーザー節とでもいうものがよかったです。どうしてシーザーさんの曲は「あ、シーザーさんだ」ってわかるのかな。分析的に見るとどういう特徴があるのでしょうか。知りたいなぁと思ってます。

あの、全裸の男が背負っている釘のオブジェは、三沢の寺山修司記念館にも展示されていたかと記憶しています。もともとは他のお芝居の小道具でもあったのでしょうか。

そして、『審判』は『ローラ』からさらに先に行って、「観客」が参加する映画です。寺山修司は「虚構」と「現実」、「舞台」と「客席」、そして「観客」と「俳優」の境界を紊乱していくスタイルが魅力なのですが。

映画のラスト、観客も舞台に上がり、スクリーンに釘を打ちつけていきます。私も打ってきました。楽しかったです。
段取り的には釘打ちタイムがしばらくあって、お客さんが途切れたら終映かなと思っていたのですが、釘打ちタイムは固定で、その時間が過ぎると出演者・スタッフのテロップが出るという形でした。こんど『審判』を見るときは気をつけないと。だいぶ時間があるから、たっぷり打ってみたかったなとも。

そして上映終了後はポスターハリスの笹目さんと偏陸さんのトークショーでした。
そして気づかされたのですが、今回の上映作品はクロマキー合成を使ってる作品が多いです。だから、ビデオで画像処理したものをフィルムに焼いたという作品になるかと(今回の上映版はさらにそれをブルーレイにしたもの)。そして冒頭の『青少年のための映画入門』はRGBの光の三原色の3面モノクローム映画。つまり、このプログラムはビデオをかなり意識した「映画」になるのかなぁと。

笹目さんから三沢の温泉のお話。三沢は温泉の街みたいです。去年の夏に三沢の市街劇に行ったのですが、早朝からやってる温泉とかあって驚きました。三沢にはいろんな場所に温泉があるそうで、いつかそういうのも行きたいなと思います。三沢、また行きたいなと。ゆっくり観光もしたいのですが…。

そして「現代」の寺山修司。そのことを最近よく考えるのですが。

寺山修司は「作り変えることのできない過去なんてない」とうそぶきましたが。それが今、この国のトップがまさにそれを行っています。過去の作り変え。歴史修正主義。歴史戦。「過去」という文字列に「ストーリー」とルビを振ること。

寺山修司の、そしてそれからだいぶのちですが、岸田秀の影響で、私は「人は各々めいめいの脳内の『虚構』を生きている」という人間観を持ってます。この世はフィクション。『虚構』と『現実』があるんじゃなくて「『虚構』と呼ばれる『虚構』」と「『現実』と呼ばれる『虚構』」、2種類の『虚構』があるのだと。そう思ってきました。

でも今日、あれよあれよという間に、この国のトップの人々が『虚構』へ急速に傾いていってる。過去を作り変えている。その動きに慨嘆せざるを得ません。

人は自分の『虚構』を、他者の『虚構』、そして動かすことのできない過去の歴史的事実や物理法則とすり合わせ、「軌道修正」しつつ、『現実』とでも呼ぶべき『共同幻想』を構築し、共有し、それなくしては人は生きられない『社会』を築き、維持していると思っています。

しかしその「軌道修正」がどうやら機能不全に陥りつつあると思っています。それぞれの手前勝手な『現実認識』でこの国のトップの人たちはこの国を動かしている。そんな感じがとてもするのです。

それはいったいどうしてなんでしょうか?

私は寺山修司が好きだから、その思想が好きだから、それにかなり気づけたと思います。
そういう寺山の「虚構と現実」の考え方をかつては「寺山修司ってすごいな、かっちょいいこと言うな」って思うだけだったのですが。近年、それは人の心に自然に備わっている機能だと思うようになってきて。そこまでは沿う大きなトラブルにならないのならいいとは思いますが。

しかしさらにこの国の上の方の人たちが自分達の都合のいいように過去や現在を虚構化しようとしていて。自分のために『虚構』に作り変えていってる。そういう態度をとるようになってきていて、大変に困った状態になりつつあるなぁと感じています。

寺山的なものがその突破口になってくれたら嬉しいのですが。

上映会、またあったらいいなと思います。『ローラ』もまた観たいです。
『審判』の釘もこんど観る時はもっとたくさん打ってみたいなと思ってます。
こんど釘を打つ時は自分の手を打って、「イテテ」なんてボケてみようかなとも思ったり。

その日を楽しみにしています。

|

« 2018年5月の蘭妖子さんのコンサート | トップページ | 『戦争は女の顔をしていない』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 2018年5月の蘭妖子さんのコンサート | トップページ | 『戦争は女の顔をしていない』 »