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2018/05/14

『歴史修正主義とサブカルチャー』

『歴史修正主義とサブカルチャー 90年代保守言説のメディア文化』(倉橋耕平:著 青弓社:刊)。近年勃興している「歴史修正主義」の発生を、90年代のメディアとサブカルチャーの動きと絡めて論じている本です。読了。

まず、本書の目次から紹介します。

序章 なぜ「メディア」を問うのか?

  1. 保守言説の広がり
  2. これまでの調査研究でわかっていること
  3. 本書の対象-歴史修正主義と一九九〇年代
  4. 「何が語られたか」ではなく「どこで/どのようにして語られたか」
  5. 本書のアプローチ-コンバージェンス文化
  6. 本書の構成

第1章 歴史修正主義を取り巻く政治とメディア体制-アマチュアリズムとメディア市場

  1. 歴史修正主義の特徴
  2. 歴史修正主義はどこで/誰が展開しているのか
  3. 教科書をめぐる政治運動と右派メディア知識人
  4. 歴史修正主義をめぐるメディア市場

第2章 「歴史」を「ディベート」する-教育学と自己啓発メディア

  1. 「自由主義史観」と「ディベート」
  2. 「歴史」を「ディベート」する
  3. メディアでのディベート表現の展開

第3章 「保守論壇」の変容と読者の教育-顕在化する論壇への参加者

  1. 「論壇」の輪郭と「論壇」の問い直し
  2. 読者の「教育」-読者コーナーのメディア論

第4章 「慰安婦」問題とマンガ-『新・ゴーマニズム宣言』のメディア論

  1. これまで小林よしのりはどう語られてきたか-先行研究と本書のアプローチの違い
  2. 「慰安婦」問題を否定する保守言説の構築とそのメディア特性
  3. 「読者」の扱いと言説空間の構築

第5章 メディア間対立を作る形式-<性奴隷>と新聞言説をめぐって

  1. <性奴隷>の初出をめぐって
  2. 主要新聞報道で<sex slaves>はどのように用いられたか
  3. 批判の「形式」へのこだわり

私が本書をどれだけ理解できたか自信はないのですが、簡単に感想を書いてみたいと思います。
いや、本書は、できる限りわかりやすいように書かれていると思います。「序章」で本書の構成をあらかじめ紹介していますし、各章の最後にも「おわりに」として簡単なまとめを挿入していますし。
そして、このことは、今は私が最も理解しておきたいと思っている、現在進行形のこの世の動きの一つであります。

なお、本書はサブタイトルにもあるように、主に90年代の動きについて紹介しています。
いわゆる「ネット右翼」。ネット時代に右翼的なものが勃興してきたと思っていて、だからネット普及以前の動きより近年のネット時代からの動きが知りたいと思っていましたが。

本書を読むとその動きの萌芽は90年代にあらかた現れているようです。インターネットの普及はそれをバーストしたに過ぎないようです。また、その、90年代の動きがなかったら、インターネットの普及が起きたとしても、また異質な今日の状況になってたのかもしれません。

第1章 歴史修正主義を取り巻く政治とメディア体制。
執筆数の多い保守論客の特徴のひとつとして、あることが挙げられるようです。

「一目して、彼らの専門との関連を読み取ることができない。」(本書57p)

と指摘されます。そしてそれがこの「歴史修正主義」の勃興に重要な役割を果たします。

「一九九〇年代の保守系メディア市場の特徴は、「アマチュアリズム」の先鋭化にある。先に述べたように、保守論壇で活躍するメディア知識人は、自身の専門から離れた、いわばアマチュアの論者である。本来「アマチュア」はプロよりも劣った存在という意味合いを持つが、彼らは「洗練されたアマチュア」とでも呼べるような存在として権威をまとって君臨している。」(本書71p)

彼らは「論客」として、その論じるものに一定の権威を与えられる。そしてなおかつ、「アマチュア」なので、かなり好き勝手に語ることができる。つまり、重要な事を無視したり、逆に自説に有利な事は、それの真偽に論ずるべき部分があるにせよ「つまみ食い」でピックアップできる。かなり自由に語ることができる。今まで専門家たちが積み上げたものを無視できる。

そして、彼らの目指すものは、その資料から帰納的に得られる「解釈」ではなくて、まずありきなかれら自身の「イデオロギー」の正当化であって。

「歴史修正主義による歴史の扱いは、事実性や客観性を担保としないため、イデオロギー闘争が前景化する。また、「陰謀論」に依拠して「演繹」するため、内部整合性を維持するための論理の組み立てとなる(その演繹に合わない情報は、積極的に捨象される)。そして、その論理は枠組みを共有する者たちの間で強化徹底されるが、枠組みを共有しない者とはコミュニケーションをとることを難しくする。」(本書73p)

「コミュニケーションをとることを難しくする。」。ネット上での「議論」を見ててもそう感じます。哀号…。

そして、歴史修正主義は「売れる」商品であると。「思想」を「商品」にするのはとても危険なような気もしますが。でも、まず商売、というのも理解はできますが。理解はできますけど、なんかアカん物に手を出している感もまた…

第2章 「歴史」を「ディベート」する-教育学と自己啓発メディア。
ここでは歴史修正主義、そしていわゆる「ネット右翼」がよく使う『論破』という言葉の来し方について書かれています。「ディベート」本のブームについて。

ここで大事なことは、彼らが「反知性主義」ではないという事かなと。彼らをそう断じる動きもありますが。

「ある立場からどれほど欺瞞と隠蔽と「無知」に充ちているようにみえようと、ネット上にあふれる排外主義、レイシズム、あらゆる差別の攻撃的な言語が、「出典」と「引用」をあげ、彼らの敵にもそれを要求する、ある種の「知的論戦」のような見かけをとることも見逃せない。
こうした言説のうちには、「論破」への執拗なこだわりがみられ、いわゆる「反知性主義」につきものの知識人の存在そのもの、知性そのものへの懐疑を取ることは少ない。極端にいえば、むしろどこにも知識人しかいなくて、だれもが賢くあることを競い合っているというのが、この現代日本の風景であるように思えてくるのだ。」
(本書84p社会学者・酒井隆史の文章の紹介)

「議論」を吹っかけ、「論破」を宣言する、マウント合戦だなと。

第3章 「保守論壇」の変容と読者の教育-顕在化する論壇への参加者。
一連の動きで大切な部分として「読者参加」があると。
それは80年代からの読者投稿誌の勃興がルーツのようです。VOWとかビックリハウスとか。
その動きが保守系雑誌にも飛び火し、読者参加型の手法を確立していったと。

そういう読者投稿誌のブーム。それはリベラリズムの動きだったのでしょうが。でもそれはまた保守論壇、歴史修正主義にも力を与える結果となったと。「アラブの春」が「イスラム国」を生んでしまったように。

第4章 「慰安婦」問題とマンガ-『新・ゴーマニズム宣言』のメディア論。
ここでは『新・ゴーマニズム宣言』が取り上げた「慰安婦問題」を例に、読者参加型のメディアとしての手法を分析しています。

第5章 メディア間対立を作る形式-<性奴隷>と新聞言説をめぐって。
そういう「歴史修正主義」、あるいは「ネット右翼」にとって、彼らが団結するためには「わかりやすい敵」が必要です。それが彼らにとっては「朝日新聞」で。その、朝日新聞がいかにして彼らの敵として祭り上げるようになったかを取り上げています。

さて、本書を読んでの感想ですが。どれだけ理解できたかは自信がありませんし、まず何よりも本書を読んで!そして自分でもいろいろ考えて!!というのが真っ先の感想ですけど。

この時代の動き。うん、あまりいいものとは思えないけど、そう簡単には覆ることもないでしょう。「なるようにしかならない」と思います。
本書はこの世の中がこうなってしまった、その動きを分析してくれていますが。その先にはさらに現代における人々の心の変容があると思います。その「理由」は何なのか?

歴史修正主義、ネット右翼の勃興は、その「理由」から生じたたくさんの現象の一つ、のような気がします。そしてそれはまた別の動きを示している局面もあるかと。例えば、差別主義者に対するカウンターにもまた、そういうメンタリティの反映があるかもしれません。表向きはまったく逆に見えても。
その根っこにあるものを何とかしない限り、「歴史修正主義」は超克できないと思います。

それについて論じた本に読み進んで行きたいなぁと思ってます。その答えを教えてくれそうな本も何冊か手を出してみたのですが。なんにせよ自分の知性の限界があって。

そしてこの国の上のほうの人たちも「歴史戦」とか言って、歴史修正主義の立場に立とうとしていますが。それはなんだかなぁと思います。それは外交でのしくじりを招きそうな気もします。

ただひとつ言えることは、「人はその『自尊』のために破滅的な選択をする事もある」ということ、それだけは肝に銘じて、世の中の動き見たり、自戒をしたりしなきゃいけないなぁと思ってます。オノレのプライドを取り戻そうとして足掻くあまり、余計悪い結果を招いたり。実際そうなってしまってきてるのではと思います。この、日本にとっての『自尊』を取り戻そうとする「歴史修正主義」が破滅的な結果を招かないように。

私個人としては…。いかなる国家でも、その歴史に汚点は幾つかあるものだと思ってます。完璧な歴史を持ってる国なんかないと思います。その汚点を無かった事にしようと足掻くよりも、その歴史の汚点をきちんと見つめ、反省し、どうしてそうなったか分析し、それをふたたび起こさないと誓うこと、その態度の方が立派だと思いますし、そうありたいと思います。ヒトとしてもね。まぁ、私も私に対してそれを徹底してできる自信はあるか?と問われると、口よどんでしまいますが。

それがこの国の「歴史」に対する私の考えです。

繰り返しますが、『歴史修正主義とサブカルチャー』、面白く拝読しましたし、たくさんの方が読んでほしいと思います。おススメです。

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