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2017/12/03

映画『あしたはどっちだ 寺山修司』

渋谷のシアター・イメージフォーラムさんで映画『あしたはどっちだ 寺山修司』を観てきました。寺山修司に関してのドキュメンタリー映画です。
簡単に感想など。あと、ネタバレ注意です。

映画は冒頭、列車で三沢に向かう女の子のナレーションで始まります。小雨模様のもやった三沢の風景。緑の風景。この夏に私が行った市街劇『田園に死す』でも、朝はもやった三沢だったので、その思い出がよみがえってきます。昔のある雑誌の記事がきっかけで寺山修司に興味を持ち、三沢に向かう少女。

そして、市街劇『ノック』の話。岡本和樹さんの天井棧敷の人々のあの頃と今を語るドキュメンタリー、『世界の涯て』も『ノック』が軸でした。『ノック』は寺山修司の活動歴のキーストーンなのかなぁと。
イメージフォーラムの大将、かわなかのぶひろ先生の撮影した当時の映像もたくさん使われていました。私はその映像をモチーフにしたかわなか先生の映像作品『市街劇ノック』も拝見しています。

『ノック』にまつわる様々な場所をめぐり、関係者へのインタビュー。
そしてロケーションは青森へ向かい。幼少期を過ごした三沢、そして少年時代を過ごした青森市。

寺山修司の母、はつさんは三沢の米軍基地で働いていたそうですが、図書室で働いていたとか。やはり英語ができたのかしら。はつの父親(はつさんは女中に産ませた子ですが)、坂本繁太郎は英語ができたそうですから、はつさんも英語ができたのかなぁと。いや、だいたい、米軍基地で働いていたのだから、ある程度以上に英語ができる人だったのかなと。

青森時代に過ごした大叔父の家は現存してるようです。かなり古びてはいるけれど。保存できないかなぁと。そして「スクリーンの裏」じゃなかったんだなと。

三沢は世界初の太平洋横断飛行を成し遂げた飛行機、ミス・ビードル号が飛び立た場所なんですが。それの紹介もありました。今年の夏、市街劇『田園に死す』を観に三沢へ行きましたが、三沢のミス・ビードル号推しがすごくて、あちこちにオブジェが飾られていました。本作によると三沢の海岸にもミス・ビードル号のオブジェが飾られているそうです。

青森、また行けて、ゆっくりと寺山ゆかりの場所を見て回れたらいいのですが。

そして上京、早稲田大学時代。短歌盗作事件。恩師(直接には生徒ではありませんが)中野トクあての手紙も紹介されていました。これは『青春書簡』として本にまとめられていますね。世に出る寺山、そして天井棧敷の旗揚げ。

天井棧敷公演『邪宗門』の日本刀を持った男の乱入事件。あれをとっさに操るしぐさをしたのは昭和精吾さんだったかしら。私がある方に伺った話ですが、どうもこの事件を起こした人物は、当時悪名高かったある劇団の劇団員だったそうです。
「寺山修司の演劇は、ラスト、劇を壊す物が多い」という指摘、私は天井棧敷は見ていなくて、万有とか寺山系劇団の方しか観てはいないのですが、確かに。万有の『邪宗門』もあの鳥居の柱が崩れていきました。つい先日拝見した月蝕歌劇団の『盲人書簡』も、ラスト、あの鳥居のような柱が倒れてましたし。

私は高校時代に寺山修司と出会って、エッセイを中心に本を読んできました。そして前世紀末も押し詰まったころ、演劇実験室◎天井棧敷直系の演劇実験室◎万有引力に出会い、公演を観に行くようになるとともに、また寺山熱も再開したのですが。

自分の中での寺山修司像ってのはあまり定かではない感触があります。しかし、寺山にまつわるトークショーとか公演を拝見しててとても思うのは、寺山修司の周辺には魅力的な人たちがたくさんいらっしゃるのだなぁということです。そして、そんな方々が、本作にもたくさんご出演です。トークショーや公演を拝見したことがある方も、ない方もいらっしゃるのですが。

寺山修司のいとこ、寺山孝四郎さん。私が寺山修司記念館に行ったときは孝四郎さんが館長さんの時だったと思います。お話があったと思います。今の館長さんは佐々木英明さんとか。映画『書を捨てよ街へ出よう』で主役の少年をなさっていた方。英明さんのトークショーも行ったことがあります。

蘭妖子さん。コンサートとか行ったことあります。とても優しい方という印象。新高けい子(恵子)さん。トークショーを。寺山よりひとつ上になるのかな。とてもエネルギッシュな方という印象。なんかお話を伺っていたら知らないうちに、皆で円陣くんで掛け声かけて、天井桟敷時代の気合の入れ方をやったり。

映像作家の かわなかのぶひろ先生が一番最初に知り合った方。寺山修司に直接な関係はないきっかけでしたが。
天井棧敷に最初は美少年役として参加し、のちに演出をつとめた萩原朔美さん。朔美さんの映像作品も好きです。何か流れてるタイムスケールが常人と違う気がします。

おととし急逝された昭和精吾さん。よくトークショーに行ってました。この映画で久しぶりに昭和さんの舞台を拝見できました。嬉しかったです。
寺山(森崎)偏陸さん。寺山の腹心だった方。寺山修司の母・はつさんが亡くなる前、九條今日子さんとともにはつさんの願いで寺山家の養子となり、「寺山修司の弟」となった方。

偏陸さんは寺山のことを「すぐにばれる嘘をつくのがうまい」とおっしゃっていました。「母殺し」を説いた寺山修司、しかし家出して渋谷の天井棧敷館にやってきた人は、母殺しどころか母親のはつさんが天井棧敷館の喫茶部の店主をやっていて驚いたそうです。
寺山の側近だった偏陸さん。寺山に関して誰も知らないことをいろいろご存知だと思います。でも、偏陸さんご自身は手記本はお出しになっていません。この映画での偏陸さんのお話を伺っていると、何となく出さないわけというのもわかる気もします。

今、ニューヨークで寺山の映像作品の上映会をやってるそうですが。『ローラ』が上映されるのならもちろん偏陸さんもあちらにいらして、40年前のあの衣装を身に着けて、40年前と同じくスクリーンに引っ張り込まれて、全裸でスクリーンから出てきていらっしゃるのでしょう。上映前はあの、木枠に幅広のゴムひもをたくさん張った、『ローラ』用の入っていけるスクリーンを組み立てていらっしゃるかもしれません。

寺山修司の本を出したいと出版社に入り、寺山修司の本を100冊作った白石征さん。月蝕歌劇団主宰の高取英さんに並び、たぶん日本でもトップクラスに寺山修司についてお詳しい方だそうです。
その高取英さんももちろんご出演でした。演劇実験室◎万有引力のJ・A・シーザーさんも。

少年時代の寺山修司の文芸仲間だった京武久美さんもご出演でした。寺山修司関連のトークショーに行き始めたころ、お見えになっていて。その時一緒だった方はとても興奮されていたのですが、そのころはそのことを存じ上げなくて、ぽかんとしていたのですが。

青森時代の寺山修司の幼馴染の方、元・天井桟敷の皆さん。ほんとお話が面白かったです。
そう、ほんとうに、寺山修司の周囲の皆さん、魅力的な方が多いと思います。それは寺山修司が特例なのか、時代に名を遺した人物はだいたいがそうなのか、わからないのだけど。

あの、覗き事件も触れられていました。あれは何かの間違いだとおっしゃる関係者の方もいらっしゃるようですが。私はそれはあったと思います。ただ、愚考するに、それは下卑た動機のものではなかったのではと思うのですが。

あの、想像力の巨人、寺山修司にも、たぶん、わからないことがあって。それは「一般人の一般的な暮らし」だったのではと愚察します。ああいう生い立ちで、一般的な一般家庭のことは知らずに、いや、知らずというか、「よくわからない」という思いとともに育ったのではと。それを知りたくて覗いていたのかなぁと思います。九條今日子さんと結婚しても離婚してしまったのは、そういう部分があるのではと思うのですが。

寺山と親友だった谷川俊太郎の
「おれが結婚して、何となくマイホームでルンルンやってると、彼が「そういうのもいいなぁ」って、おれは極力止めたわけ、「おまえは違う」ってね。だって彼はマイホームなしに育ってきたんだもの。そんなものは必要じゃないんだよ。極言すれば彼は生活してなかったと思う。周りの人が生活させてあげてたんだよ」(小川太郎『寺山修司 その知られざる青春』より)
という証言もあります。

芥川龍之介の『河童』の一節、哲学青年の河童が窓越しにある家族の夕餉を見て、「あの卓上の卵焼きぐらい清潔なものはない」と嘆息したくだりを思い出します。

寺山修司が大事にしてた写真。祖母に抱かれ、両親とともに写っている、赤ん坊時代の寺山修司自身の写真。それが象徴するものが、寺山修司が最も手に入れたいものだったのではと思います。そして、それはよくわからなくて、手に入れることができなかったのではと。たぶん、大過の人は、「自然に」それを手に入れ、その中で「自然に」ふるまうものなのだと私は思うのですが。特に意識しなくて。でも、寺山はそれができなかったのかなと。
寺山は晩年、山田太一に「俺は父親になりたかった」と述懐したそうですが。

ここらへん、「かえる場所」がうまく手に入らず、家庭を持ったり、子供を持ったり、そういうことができずに生きてきた私としても、よく考えることです。年を取るごとにきつくなってもいます。変な言い方ですが、寺山は早死にしてずるいって思うことさえもあります。

本作では寺山が死の直前に書いた『懐かしのわが家』という詩への言及もありました。そして昭和精吾さんの朗読シーンもありました。死を前にして、いや、それだからこそかもしれませんが、むしろこれから人生が開けていくような、明るさ、清明さを感じさせる詩でと思います。

父親になれなかった寺山修司。しかし、寺山は、たくさんの「言葉」という種をまき、それがたくさんの人の中で芽を出し、育っていってるのではと思います。たくさんの人たちの魂の父親となっていると。そして寺山もそれを確信していたのではないかと。
「外に向って育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを」
という一節は、そういう意味じゃないかと思うのですが。だから、そのために、寺山は命を削りながらも創作活動を続けていたのかなぁと思います。そしてその種は私の中でも育っていると思います。

寺山は「すぐばれる嘘をつくのがうまい人」だったとか。でも、ひょっとしたら、寺山修司には「ほんと」はよくわからなくて、「嘘」しかなかったのかもしれません。寺山修司自身に。

寺山修司を知る人によると、寺山は相対する人によって、いろんな貌を見せたそうです。寺山はその人を映す鏡だったのではと。だから、寺山修司について語ることは自分について語ることかもしれません。
そして、だから、今書いているこの文章も、所詮は、私の、「自分語り」かもしれません。お目汚し、失礼であります。

『あしたはどっちだ 寺山修司』、面白かったです。寺山ファンにちょうおススメです。

あ、そういえば、ところどころに、劇画調の「挿し絵」が挟み込まれていたのですが、あれはどなたがお描きになったものなのかしら。

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