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2017/03/11

『寺山修司 青春書簡』

『寺山修司 青春書簡 -恩師・中野トクへの75通-』(九條今日子:監修 小菅麻起子:編著 二玄社:刊)読了。
寺山修司が青春時代、青森の恩師・中野トクへ書き送った手紙を集めたものです。

この手紙の展覧会は拝見してると思います。たしか場所は世田谷文学館だったかと。
このブログを検索しても出てこないので(見たら必ず書いていたと思いますので)、ブログを始めた2005年3月以前のことかと思います。そしてそこで本書も出版されると知ったのかなぁ、そこらへんは憶えてないけど本書の存在も知っていて、いつか読みたいなぁと思っていたのですが、もう10年以上も経ってやっと手にしました。

本書は昭和28年1月、まだ青森高校の生徒だったころから始まり、早稲田大学に入学して上京、そして3年間の長い入院期間を経て退院、そして本格的に活動を始動した、昭和38年5月までの寺山修司からの書簡が収められています。

寺山修司は中野トクの生徒だったのかなぁと思っていましたが、おととし読んだ若き日の寺山修司の評伝、『寺山修司 その知られざる青春』(小川太郎:著)によると、寺山は中野の直接の生徒だったわけではなく、寺山の友人の紹介で中野トクと知り合ったとか。
ここらへんの経緯はもちろん本書にも紹介されています。そして『~知られざる青春』の方が先行書だったので、『~知られざる青春』への言及もあります。

本書は、手紙の一通一通を、モノクロですが、手紙の現物、それを文字起こししたもの、そして解説で紹介しています。この解説が丁寧で凄いです。丹念な考証です。ほんと、資料性が高いです。手紙の中で触れられた人物のこととかもできる限り詳しく書かれています。

手紙は走り書きのようなものもありますが、時間と気持ちに余裕のあるときに書かれたのかなぁと思うものは、レイアウトも工夫され、カットも添えられ、きれいです。ここらへんはあるトークショーで、寺山修司は学級新聞とか同人誌作りでガリ版切りもやってて、読みやすい字を書いたり、カットを描いたりするスキルを身につけていたというお話でした。
ここらへんのスキルは寺山14~5歳のころのノートに書かれた私家版詩集『秋たちぬ』にも生かされていますね。寺山の秘書だった田中未知さんのおかげで出版され、読むことができましたが。

病床で絶対安静だった寺山は、ひとりの時は本を読むか、ベッドから空を見るばかりだったそうですが。あ、それで『空には本』だったんだ!って気がつきました。発見です。
同時期の寺山修司の書簡集としては、去年、これもまた田中未知さんの発掘仕事として、山田太一との書簡集『寺山修司からの手紙』も出てますね。それもまた面白く拝読したのだけど。

ネフローゼで入院している寺山修司、腹水が溜まってぼっこりしたお腹の様子、本書に収められた中野トクへの手紙にも、『寺山修司からの手紙』に収められた山田太一への手紙にも、ユーモアを感じるカットが描かれていますが、ほんと、あのころの寺山修司は大変だったのだなと。いや、だいぶ按配が悪いのか、走り書きのような手紙もあって、痛々しさを感じます。

本書に収められた手紙に当たり前のように出てくる、谷川俊太郎や山田太一の名前。その交友関係、梁山泊。「才能は才能を知る」なのでしょうか。

おねだりの手紙も多いです。お金、そして服。服のおねだりは「こういうのが欲しい」って細かなイラストも添えられて。
お金がないのは大変だったのだろうなと。読みたい本はたくさんあって、おしゃれもしたいと。

そしてレコードプレーヤーがほんと欲しかったようです。聞きたい曲はラジオから聞こえてくるのを待つしかないって状態、想像もつきません。
寺山修司のお芝居と音楽の親和性のお話もトークショーとかでいろいろ聞いたことがあります。なによりもおととし急逝された昭和精吾さんの公演で、台詞と音楽の絶妙なマッチングをたくさん見せていただきましたし。

自分の誕生日に触れた手紙が2通ありました。2通とも自分の誕生日を1月10日としています。本書の解説にもありますが、後年、寺山は自分の誕生日を12月10日と書くようになります。私がその記述に触れたのは寺山の自伝エッセイ『誰か故郷を想わざる』でしたが。確か戸籍上は1月10日だったと思いますが、このときはまだ自分の誕生日をその戸籍上の1月10日としています。

細かく考証していかねばならない研究者にとっては大変だと思いますが、寺山のライトファンの私はひと月ぐらいどうでもいいような気もします。ただしかし、年をまたぐため、「寺山修司生誕xx年」がチトやり辛いそうです。どうなんだろ。

じゃあ逆になんで1月10日を12月10日にした「虚構」の理由が知りたいと思ったりもします。
あたしのちょう乱暴な私論ですけど、12月10日といえばノーベル賞授賞式の日。寺山はそのうちノーベル賞も取るつもりでいて、その授賞式に「本日はたまたま私の誕生日でもあります…」というようなスピーチでもするつもりだったのではと推察したりしてみたりしてます。ちょう妄想ですけど。

自分の同人誌のために他の同人誌の花形を何人か引き抜いて、その同人を潰したって述懐もありました。そういう寺山の「やり手」なところも。若干鼻白みますが、世に出て行くためには必要だったことなのでしょうか。
最近時々自問します。「私があのころの寺山修司と出会ったとして、彼についていこうと思うだろうか」って。もちろん私は才能はないので、もし才能はあったと仮定してですが。寺山のそういう部分、私はカチンと来て、ついて行こうとは思わないかもしれないなぁとも思ったりもします。

中野との手紙のやり取りは昭和33年あたりまで。翌昭和34年のが1通。そこから寺山も超多忙期を迎えるのでしょう。最後の寺山からの書簡は昭和38年の『現代の青春論』(のちの『家出のすすめ』)の印刷された出版案内です。

巻末にも解説がありました。寺山も母はつとふたりきりだったのですが、中野トクも離婚して、母ひとり息子ひとりだったそうで、そこら辺もふたりが親近感を持てた部分のようです。
ただ、ひとり息子さんは寺山と同じく、母親より先に、50代で亡くなられたそうです。

本書も楽しみました。もちっと早く読んでおくんだったとも思いました。でもその一方、いろいろ読んできた寺山修司関連の本から得た知識ともいろいろリンクができて、そういうのもほんとに面白く感じます。

この本は、店じまいしたある書店で、最後の買い物として買いました。
こういう本もまた並んでいる、とてもいい書店だったのですが。残念です。

今度はどんな寺山本を読もうかなぁ、新しいのも出るのかなぁ、それが楽しみです。

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