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2015/08/18

岡本喜八『日本のいちばん長い日』

キネカ大森で岡本喜八版の『日本のいちばん長い日』と原一男の『ゆきゆきて、神軍』の2本立てを観てきました。『ゆきゆきて~』は稿を改めるとして、『日本のいちばん長い日』の方の感想を書いてみたいと思います。

岡本喜八監督の映画、好きです。

初めて観た岡本喜八監督作は封切りの『大誘拐』でした。ラストの短い数カットの切り返しで、なぜこの資産家のおばあさんがこのような事をしようとしたか、それが鮮やかに、強烈にその短いシーンで語られていて、その妙手に唸らされました。それから岡本喜八監督のファンになり、作品を観るようになりました。
…といってもたくさんは観ていません。フィルモグラフィーを見ても観てる作品より観てない作品のほうがはるかに多いのですが。

岡本喜八監督作の魅力は軽妙でコミカルなエンターティンメント性と強烈な反骨精神の融合にあると思います。

そのバランスを取るのは、両立させるのは、とても難しいと思うのですが。岡本監督作にも『江分利満氏の優雅な生活』のように軽妙洒脱なコメディの終盤、主人公の長い、重い、独白シーンを入れて構成を壊してしまうような作品もあるのですが。これはこれで好きだけど。逆に、これほどの思いを抱えつつ、軽妙に振舞っていらしたのかと。そして終盤、やはりそれをこらえ切れなかったのだなぁと…。

『日本のいちばん長い日』も観たいな観なきゃなと思っていた作品でした。名画座のプログラムに見かけて行こうかなと思ったことも何度かあるのですが、重い腰が上がらず。
そうこうしているうちにリメイク版の『日本のいちばん長い日』が公開され、それを観に行くかどうかは決めてないのですが、それを観ることになるならその前に絶対岡本喜八版のほうを観ておきたいと思いました。で、今回キネカ大森さんにかかると知って観に行った次第です。

本作は8月14日昼の御前会議で日本の降伏を決定してから8月15日正午に玉音放送でそれを国民に伝えるまでの24時間、「日本のいちばん長い日」を日本の中枢にいる人たちを中心に実録タッチで描いた映画です。群像劇。
戦争を終わらせるための「儀式」。当事者としてのけじめを取る人たち。上の決めた降伏を拒絶し、徹底抗戦、本土決戦を叫ぶ者たち。かれらの企図するクーデター。玉音放送の録音を収めた「玉音盤」の争奪。そういったエピソード。
どれだけ史実に基づいているかはよくわからないのですが。そこらへんの知識はないのですが。

映画を観終わっていちばん残った思いはやっぱり「天皇って不思議だなぁ」という感慨です。

ある程度は私の中にも「天皇のタブー」は根強く生きています。それは認めます。だから天皇を巡るあれこれはある程度は心情的に理解できるのですが。ただやっぱり戦前の人よりはずっと薄いのだろうけど。「国体」についてはあまりよくわかりません。だから「国体の護持」と言われてもよくわからないのだけど。

天皇は現人神であった時代。閣議で、自分たちで、最終的な決断は下せず、「陛下の御聖断」を仰ぐ人たち。これは会社とかでも自分たちでは喧々諤々、お互いの意見を譲り合い、すり合わせて物事を決定するスキルが異常に低く、結局は社長の判断を仰ぐしかないのに似てますね。日本的な意思決定システムなのかな(笑)、それとも世界で普通のシステムなのかしら。

そして「天皇」を手中に収めて戦争の継続をしようとする人たち。「天皇」さえ手に入れれば戦い続けられると思う人たち。そのように「天皇」をなんかオールマイティーでなおかつ、自分に都合よく使える「アイテム」のように思う人たち。
玉音盤も争奪も「アイテム」の奪い合い。それさえ手に入れたら「敗戦」を阻止できると思うのはなぜだろうと思ったり。別に終戦の詔勅を伝える手段はいくらでもあるだろうに。

神として畏怖しながら、片方じゃ自分の都合に合わせて使えるアイテム、つまり「道具」として天皇を見ていたような感じ。もやっとしてうまく説明できないけど。

そしてその不思議な「絶対性」。

「天皇」という文化を持たない外国人、あるいは天皇をそう重要視しない時代の日本人がこの映画を観て、この天皇の絶対ぶりと、時としてそれを「アイテム」として使おうとする周囲の人間の不思議なスタンスが理解できるのかしら?
たとえばその歴史に王制を持っていた人々ならそれは解ってもらえる物なのかなぁ。王制共通のものなのかなぁ、それとも日本独自のものなのかなぁ。そう思いました。

作中ですら天皇の姿、天皇役の役者さんの姿は極力くっきりとは映そうとしていません。後ろ姿とか、列席する人たちの隙間からとか。そういう演出をほんと、天皇制が染み込んでない外国人や違う時代の日本人にはわかってもらえるのかしら。それともただの理解しがたい奇異な演出と感じるのでしょうか。

今回は重いテーマ、そして再現ドラマということでしょうが、岡本喜八監督作にしては軽妙なエンターティンメント性は薄いと感じました。
でもやっぱり岡本喜八映画らしく、登場人物のキャラは立っていました。私は人の顔と名前を憶えるのが大の苦手で、だいたいこういう登場人物がたくさんの作品って誰が誰やらごっちゃになって分からなくなるのでとても苦手なんですが。(それで本作を観に行くのを渋っていた部分であります)今回も少しごっちゃになりましたが、そう大きく混乱するほどではなかったです。そういうキャラを立たせる部分は岡本監督の手腕の真骨頂ではないかと。

継戦派たち。目ン玉ひん剥いて、絶叫して、戦争継続を叫ぶ人たち。その姿もまた印象的でした。

劇中の人々はだいたいは日本は負けると気がついていたとは思うのです。それを打ち消すためのいろんな「ごまかし」を自分や周囲に言い聞かせながら戦い続けていたと思うのです。しかしそうやって逃げてきた敗戦が、不本意な「現実」がいよいよやってくる。それが無慈悲に振り下ろされる。その刹那。そのときの人々の振る舞い。

たとえば、倒産寸前の企業とかも、ね。大なり小なりこのような空気が支配するのだろうなぁと…。

見覚えのある銅像があって、あれっと思いました。井の頭自然文化園で見かけた北村西望の『将軍の孫』という銅像。ぶかぶかの鉄兜をかぶった男の子の銅像です。陸軍省の玄関に飾られていたとか。そのほかにも銅像がなにか意味ありげに映っていました。
北村西望もこういう風に軍に納める銅像も作り、戦後は長崎の平和祈念像も作り、そういう不思議なしたたかさを持ってる方なんだなぁと思います。

戦争を終わらせるための「手続き」「儀式」といったもの。終戦の詔勅の文案を巡る対立。土壇場でやっと譲り合う様子。大特急で清書する担当者、書き上げ間際に変更が入ってあわてたり。どんどん押していく玉音放送の録音時間。そういうドタバタもまた興味深かったです。戦争に負けるってこういうことであるのだなぁと。
ある意味、伊丹十三の『お葬式』を思い出しました。ひとつの手続きと儀式の流れ、その中での人々のドラマを描いているということで。

もう日本は二度とこういう道は行かないで欲しい、戦争しないで欲しい、そう思いますが。
ただ戦争って「相手」がある事だから、国際「関係」の事だから、色恋と同じで相手の状況もあるから、ナイーヴにそう言うだけではどうしようもないかもとも思います。

何よりも太平洋戦争は、冷静に状況分析したら負け戦になるのは開戦前から分かりきった戦争。それに突入してしまったのは日本の自尊が危機的状況にさらされたからと思うのですが。イケイケドンドンで国を大きくして、自尊がブクブクに膨らんでいた日本。だから諸外国の圧力にブチ切れてしまったと。そう理解しているのですが。そして、そういうことだけはもう起こさないようにと思うのです。

人は自我を、「自尊」を、守るために時として破滅的な選択をしてしまうもの。国家もそうでしょう。これからの日本はそういう愚挙を行わず、命の奪い合い、戦争を日本自身の選択としてはできる限り選ばずに、戦争を仕掛けられる状況に進んでいくこともできる限り避けて、恥も外聞も気にせず、のらりくらりとしたたかにずうずうしく、プライドを傷つけられてもヘラヘラと笑っていて、それでも利益はちゃっかりと確保しながら世界情勢を渡っていける国になることを願っています。

人類がある限り永遠の平和なんてない、そう思いますが。
日本も、日本人も、永遠の平和を過ごす事はできないと思いますが。
(日本や日本人が無くなりでもでもしない限り)
でも…

「幸福とは、幸福を求めることである」という言葉があります。その伝で言えば、「平和とは、平和を求めることである」と言えると思います。戦争はなくならないと思いますが、平和を求めることは無意味ではない、それはできる限り戦争を減らすことであると思いますから。

(2016/8/19追記)庵野秀明監督『シン・ゴジラ』を観てきました。『シン・ゴジラ』はこの『日本のいちばん長い日』に大きな影響を受けていて、そしてこの同時上映の『ゆきゆきて、神軍』の原一男監督がご出演でした。だからこのキネカ大森での岡本喜八『日本のいちばん長い日』と原一男『ゆきゆきて、神軍』の2本立てって不思議な巡り合わせになりました。面白い偶然だなぁって思ってます。

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