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2015/03/13

『唯幻論大全』

『唯幻論大全 岸田精神分析40年の集大成』(岸田秀:著 飛鳥新社:刊)読了。
「唯幻論」の岸田秀のアンソロジー本であります。600ページ近い、かなり分厚くて読みでのある本でした。
「あとがき」によると本書に再録された文章は訂正加筆されてるようです。元の文章との比較はしなかったのですが、例えば、岸田秀は一般的には「(ジークムント・)フロイト」を「フロイド」と書いていたと記憶していますが、本書では「フロイト」表記にされています。

「唯幻論」。

唯幻論もまた自意識をこじらせている私にとっては大切な「おくすり」です。生きていて何か違和感を感じる、生き辛さを感じる、そういう人にとってはおススメできるおくすりかと。ただ、副作用も強いし、ほんと“普通”の人にはおススメできないのだけど。そして自分も“普通”の生き方ができたらほんとによかったのにと思っているのだけど。

さて、「唯幻論」を私はこういう風に理解しているってのを書いてみます。間違いかもしれないけど。ま、この程度の理解って事をご理解いただければいいのではないかと思いますし。

「唯幻論」の根底にあるのは「人は本能の壊れた動物である」という前提です。
「本能」というと、ガメつかったり、女たらしだったりする奴を「あいつは本能のままに生きてる酷い奴だ」と決していい意味には使われないのですが。しかし動物にとって「本能」とは先天的に持ってる、それに従って生きていれば大過なく生きられる、素晴らしいプログラムです。しかしそれが人間では壊れてしまっていると。

本能が壊れてしまっている人間はてんでばらばらの「私的幻想」を抱えていると。しかしこれでは人は「社会」を形成して生きていくことはできない。だから「私的幻想」から人々が共有できる物を集めて「共同幻想」を形成し、それによって社会を形成して生きていってると。
しかし、「共同幻想」に取りこぼされ、抑圧された「私的幻想」は各人の中でくすぶり、それが人間社会の不安定さに繋がっている、と。

基本的にはそういう理解の仕方をしています。
ほんと、これでいいのかどうかはわからないのだけど。

以下、そのレベルでの理解の人間が本書を紹介していきます。また、私見を混ぜたりします、だから、本書のダイジェストを求めている方にはちょっとふさわしくない書きようになりそうですが。

でわ。

本書は三部に分かれています。
第一部「自我論」
第二部「歴史論」
第三部「セックス論」
という構成です。

第一部「自我論」。これは岸田秀が「唯幻論」を編み出すに至ったきっかけがメインに書かれています。3部のうちではいちばん短いのですが。
岸田秀は若いころ、神経症的な症状に苦しんだとか。それを治すために自己精神分析を始め。そして、抑圧されていた母親との確執に気がついたと。
表向きは優しい母親、しかしそれは母親が自分を道具として、意のままに操りたいという願望から出たものであったと。
そしてそれに気がつくことによって、自我の安定を取り戻した岸田秀。そして「唯幻論」の発見、と。

第二部「歴史論」は「唯幻論」から導かれた歴史観、「史的唯幻論」中心にしたおはなし。「史的唯幻論」とは本書によると、

「史的唯幻論とは、簡単に言えば、史的唯物論のように経済的要因とかで歴史が決定されるとするのではなく、民族や国家などの集団的自我のぶつかり合い、集団的自我を支えるプライドやアイディンティティ、プライドが傷つけられた屈辱、その屈辱を雪ぐ試み、アイディンティティが揺るがされた不安、その不安からの回復などが歴史の動きを左右する重要な要因であるとする史観である。」(本書227-228p)

ということ。つまり国家は「自尊」を守るためにまったく得にならない、むしろ破滅的な選択をする事もあると。
この論から導かれる考え方として、それぞれの国のふるまい、その軌跡としての「歴史」というのは、その国が抱え込んでしまっている「トラウマ」が原動力となっているということかなと。(トラウマとは、無意識領域に抑圧され、意識化では自覚できないでいる心の傷という意味でここでは使います)

それは例えば近代日本においては「開国」のトラウマです。日本は米国から強姦されるように無理やり国を開かされた、というトラウマ。
こ のトラウマにより日本は米国と適度なスタンスを保ってつきあっていく事ができない。米国べったり期と米国憎し期が交互に現れると。中庸を保てず極端に振れると。そのいちばん悲惨な例が 先の太平洋戦争であると。国力が違い すぎ、冷静に考えたら負け戦になるとわかってる太平洋戦争への道を歩ませてしまったと。「自尊」を守るための破滅的な選択。

またアメリカ合衆国においてはその建国期にネイティブ・アメリカンの虐殺を行ったということが米国のトラウマであると指摘されています。だから米国は「正義」に縛られてしまう。「正義」のために戦争を行う、好戦的な国になってしまったのではないかと。
もちろんそれが事実なら「正義」は米国を縛るマジックワードになるのですから、それを駆使すれば米国相手にうまく立ち回れるのでしょうね。ここは私見ですけど。

また、個人の精神分析の手法は集団(例えば国家)の精神分析に通用できるという指摘もあって。
だから、個人史においても、この「史的唯幻論」史観が適用できるのではないかと。つまり、ひとは究極的には、経済的損得なんかより、「自尊」を守るように行動してしまうと。「自尊」を守るために時として破滅的な選択をしてしまうと。
ネットでの炎上騒動なんか見ても、「素直に謝っておきゃいいのになんでわざわざ火に油を注ぐのかな?」なんて事例が枚挙に暇がないのはつまりこういう事なのでしょう。
そしてそれは誰かを理解しようとする時、交渉事とかの時も相手のこの「自尊」を考えて、相手のそれをくすぐり、こちらは利益を得るように考えて交渉すれば有利に立ち回れるかもしれません。

また、面白い指摘もありました。
「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する。」(108p)という指摘です。
私の理解だと、つまり。人は生まれた時は万能感を持っている、と。それは生まれたばかりの人間は周囲をうまく把握できず、体の自由も利かず、まったくの無力という事の裏返しなのだろうけど。
その万能感が毀損させられる経験を人は必ず体験する。その欲望を抑圧しなければいけないときが来る、その抑圧が悔恨となり、その悔恨の引っ掛かりが、時間であり、空間であると。自尊の毀損に端を発しているといえるのかな。

第三部の「セックスについて」は唯幻論を用いた人間の性的行動の分析、つまり「性的唯幻論」について書かれています。
唯幻論によれば「人は本能の壊れた動物」なわけですが。つまり、人間は、その「本能」に基づく性的行動、つまり「生殖」を目的とした性的行動をとれない、と。だから本能に変わるものとしての「共同幻想」、つまり「性文化」を与えてやらなければならないと。そうしなければ「繁殖行為としての性行動」はとれないと。
そしてその性文化は勃起しないと生殖行動できないオスの利便を中心に組まれる事となった、と。

そしてその「性文化」は時として酷く抑圧的になるのでしょう。何しろ社会の存続に関ってくるのだから。だから史観的な部分もあって。性の抑圧と資本主義。
近代、ヴィクトリア朝あたりから、女性の自活能力を奪い、経済的に男性に依存しなければいけないシステムを作り、その上で女性には性欲を無いものと決め付け、つまり、「セックスを楽しむ女」の存在を否定し。だから、男はセックスの相手が欲しかったら、まず一生懸命働き、お金を稼いで女性を養えるだけのカイショを得て妻として娶るか、そうじゃなけりゃ(表向きはタブーだろうけど)娼婦を買うかしろ、という時代を作って。それが結果としてそうなったか、それともそのためかはよくわからないけど、セックスのために一生懸命働くってのがこの資本主義の原動力となったと。
そしてその体制下、女性は妻となって男に養われる存在となりたかったら嫁入りまで処女を守る、そしてごく少数が娼婦となる、そのルートしかほとんどない時代になって。

このかつてのきわめて抑圧的な性モラル。フロイトの時代、フロイトは性的抑圧が心を病ませると喝破したそうだけど、それはその時代いちばん個人を抑圧していたのが性だからという意味あいがあったそうです。物の本によると。

ただ、その性モラルも近年は緩んでいて、未婚でもセックスを楽しむ女性も増えていると岸田秀は書いていますが。
ま、どうなんだろう?例えばこの時代に逆行する「処女厨」なんてオタク界隈にはけっこういるそうだし。また、その旧来の「男は妻を養うべし」のシステムをうまく利用した、高収入亭主に寄生する「専業主婦」願望もまた存在するみたいだし。どうなのかしら…?今でも移行期的な混乱の中にあると思うのですが。

あと、もうひとつの問題として「繁殖」を目指して構築されてきた性文化が現代においては崩壊しつつあるってのもあるかもしれない。まぁそれは人口増のほうが問題となってきてる現代ならではかもしれないけど。
しかし、今の日本が直面している「少子高齢化」はそれが原因の部分もあるのかもしれないし、また一方でLGBTの人たち、性的マイノリティの人たちの権利が認められていってるのもそういう現象のもうひとつの側面かもしれません。
(念のため申し添えますが、私は相手や自分を傷つけるようなものでなければ性は最大限に自由を認められるべきであると思ってます。だからもちろんLGBTの人たちの権利も認められるべきだと思っています。)

しかし、考えてみれば、どのような社会にも「共同幻想」から「私的幻想」を取りこぼす部分があって。取りこぼされた「私的幻想」は抑圧されるものであり。だからいかなる社会も「個人」を抑圧する部分があるのではないかなぁと思います。そして私の生きてる現代日本のこの社会は、だいぶ「個人」を抑圧する部分が薄れてきた良い社会になってきていると思いますが。

あとそれと、その、取りこぼされた「私的幻想」を再び「共同幻想」に回収するためのツールとして人類は「虚構」、つまり物語とかを生み出したのかもしれません。私は近年そう思ってます。

そして、極論を言えば、「もしこの社会がどうしても抑圧的でなければ存続できないなら、社会の存続を諦めて、個人の自由を最大限に認める社会にしてはどうか?」という質問を自らに問うてみることも面白いかなと思ってます。苦痛に満ちた繁栄よりハッピーな滅亡。そういうルートも人類にはひょっとしてあるかもしれないとも思うのです。

「あとがき」にはっとする指摘もありました。

「もし人間の本能が壊れていなかったなら、バラの種からバラの木が芽生え、バラの木にバラの花が咲くように、個人の人格は本能に基づいた線に沿って発達し、本能に基づいた人格構造が形成されるであろう。発達の過程でさまざまな不幸な事件があり、人格構造がさまざまな傷を受けたとしても、それは本来の本能的人格構造に付加的につけられた傷に過ぎず、その傷が治れば、本来の人格構造が回復するであろう。しかし、人間は本能が壊れているので、本来の人格構造というものはない。個人は、生まれてからの人間関係のなかで周りの人たちからさまざまな観念(なかにはとんでもない観念もある)を受け取り、それらの観念を材料としてそれぞれ個々別々に人格構造を形成する。人格発達の過程でさまざまな不幸な事件、トラウマがあれば、それは、本来の人格構造に付加的につけられた傷ではなく、人格構造を構成する基本的な材料なのである。それ以外に材料はない。それを除こう(治そう)とすれば、人格構造そのものが崩れてしまう。除いたあとに、「本来の人格構造」が現れてくるわけではない。それは幼児期のさまざまな倒錯的衝動を材料としておとなの性欲が構成されるのと同じことである。
個人の人格は、どれだけ歪んだものであろうと、いったん形成されると、なかなか変えられないのはそのためである。」(584-585p)

それは唯幻論の「人間は本能の壊れた動物」というテーゼから自然に導き出される考えでありますが。そこまでの覚悟はなかったです。ハードボイルドだど!
しかし翻って考えれば、心に傷を負った経験のない人間はいないかと。だいたい人間は生まれた時は万能感の中にあるそうですし。それを周囲との軋轢を通して、傷ついていって、人格形成していく部分もあるかと。
そして何よりもだいじなのは、傷ついたことのない人間はいないって事と同時に、人を傷つけた事のない人間もまたいないって事かなと。私だって人を傷つけた記憶はいくつもあるし、また、記憶してないけど人を傷つけたことも沢山あったでしょう。そしてそれが人と人とも交わりってものかも知れないけれど。できたらあまり傷つけずに、傷つけられずに生きたいけど。でもそれが昂じると引きこもりになるのかな。

本書は分厚くて、持ち歩くのが少々難儀でしたが(昔は分厚いハードカヴァー小説上下を平気で持ち歩いていたものですが)。今までのおさらいもできたし、さらに新しい見識も得られ、面白く読みました。
「唯幻論」そのものはたぶん色々反論もされ、否定されている部分も多いかもしれないとも思いますが。本書も「ちょっと飛ばしすぎじゃないかなぁ」と思う部分もありましたが。
でも私にとっては、私の知的レベルと今までの人生経験からすれば、この世界を理解するのにとても頷ける理論です。
まぁ唯幻論という「おくすり」無しで特に苦痛を感じずに生きていられるような人生だったらよかったのですが。そういう思いも少ししてます。

ただ、本書は岸田秀入門、唯幻論入門としてはあまりおススメできないかなぁ。もし岸田秀を読んでみたい、唯幻論について知りたい、というのでしたら『ものぐさ精神分析』あたりから読み始めるのがいいのかな、やっぱり。
そして、本書はアンソロジー本でありますから、CDのベスト盤とかと同じく、岸田秀の著作をほぼ読んでいるような人にはダブリも多いと思いますし。
私程度の中途半端な岸田秀の読者にいちばん向いている本かもしれません。本書は。

そしてやっぱりKindle版で欲しかったというのは少々私が軟弱化してるせいかしら?

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