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2015/02/19

『イスラーム国の衝撃』

『イスラーム国の衝撃』(池内恵:著 文春新書 Kindle版)読了。
近年のイスラーム国の台頭を中東情勢の流れを踏まえて解説した本です。

著者の池内恵氏は本書について
「二つの大きく異なるディシプリン(専門分野)の視点や成果を併用して「イスラーム国」という現象を見ていくことになる。一つはイスラーム政治思想史であり、特にジハード論の展開である。(中略)
同時に、思想や運動が現実世界で意味を持つには、有利な環境条件が必要である。現代のアラブ世界には、とくにイラクとシリアの特定の地域には、そのような環境条件が整っている。どのような経緯でそのような環境が整ったのか。(中略)ここでは、各国の政治体制の特質を地域研究の知見を踏まえて把握する比較政治学や、各国政治の展開と地域・国際政治の連関をとらえる国際政治学の視点を主に取り入れる。」(第1章「イスラーム国の衝撃」)
というスタンスでお書きになってるようです。もちろん新書ですから初歩的な、初心者に優しい書き方であると思います。

最近喧しいイスラーム国、「なぜああいう人たちが現れ、“国”を自称できる程度に勃興したのか?」に少し興味が湧きました。ただ私は政治音痴、歴史音痴、であります。あまりよくわからないのだけど。だから簡単そうな本でそういうのを解説した本はないかなと思っていました。
そしてなによりも本書は彼ら、イスラーム社会とそこから現れたイスラム過激派(本稿で私はそう書きます)、テロリストたちのその立場、その思い、その行動原理がわかる様な本という印象を持って、食指が動きました。そういう視点から書かれている部分もあるのではないかと。

もちろん私はテロリズムを一切認める気はありません。ただ、彼らがどのような条理で動いているか知りたいです。理解したいです。
ただ、この世にはよくわからない人たちがいて、どうもそういう人たちは「理解すること=肯定すること」と思ってしまうようです。つまり彼らテロリストたちを理解するという事は、彼らのテロリズムを肯定することだと解釈してしまうような人たちが。そこらへんは誤解なきよう。為念。

以下、ちょっとだけ感想を書いてみます。ただ、どれだけ私は本書を理解できたか自信はありません。錯綜した国際関係とかややこしいのはどうもうまく把握できません。人間関係のそういうのをうまく理解できず、ドジを踏むこともたびたびですので。
だから、本書の要約というより、個人的な感想をメインに。

そして最初に書きますが、本書はとても面白く読めたので、ここで私のグダグダな感想を読むぐらいなら、本書を買ってお読みになることをおススメします。新書でそう高価なものではないし、そう分厚くもないですしね。すぐ読めるかと。
私も感想を書きますが、どこまで理解できたのか、そして誤読してないか、自信はありません。

私は中東情勢に対しては、自分の生活にどのような影響があるかくらいの興味しかないのですが……。でも、「イスラーム国」の台頭もまた、この世界情勢における、それに日本人も影響を受けてる、人々のメンタリティの変容の結果であると思っていますし、そういう意味において「イスラーム国」に興味を持っています。
本書はそういう私が常日頃抱いている、いつも考えている疑問にも、色々なヒントを与えてくれた本でありました。

まず第一の点として興味深かったのは、イスラム過激派の戦い方の変遷。911テロから米欧の追い詰めに対してイスラム過激派がとったドクトリンは、金銭や物資流れや指揮系統を持たず、「グローバル・ジハード」運動を唆すプロパガンダ闘争の軸足を移したこと。いうなれば「フランチャイズ化」。資金や物資の流れ、そして命令系統でトレースできないので、テロ組織を追い難くなったと。
もちろんそれは一方では大規模な組織と潤沢な資金の必要な大掛かりなテロはやり辛くなってるという事なのでしょうが。

また、そのための「プロパガンダ」。イスラム過激派のプロパガンダサイトなんかはとてもよくできてるそうですし、「イスラーム国」の斬首映像も含めたプロパガンダネット動画は高度な演出が伺えるそうです。
そういうのは私は見たことがないし、見る気もないのですが。でも、かつてのソ連が「世界革命」を唆すプロパガンダのために高度なデザイン・演出技能を磨き、今日の目から見ても見事なデザインや映画の表現技術を遺したことを連想させます。

そして何よりもイスラム過激派の人たちがそういうのをネットで公開できるというのは、欧米が多大な犠牲の反省から得た「表現の自由」を利用していると思います。
多大な犠牲、近現代ならそれは共産党員狩り、「赤狩り」とか。その凄惨な記憶の反省として。
そしてまた欧米が共産主義者との闘争において、自分たちを自由主義者と自負し、それをその戦いを支える誇りとしてきた事も絡んできていると思います。
その「自由」にイスラム過激派も乗っかってきて、自分たちの主張を堂々と公開している。彼ら自身は「思想の自由」なんて許すはずはないだろうに。

そして「アラブの春」の皮肉な帰結。それが平和裏な「民主主義」ではなく「武力闘争」へ行ってしまった皮肉な帰結。「アラブの春」の原因にせよ結果にせよ、独裁主義体制の下で押さえつけられていた民族間の抗争のタガを外す結果になってしまった。武力闘争のもととなったと。そして生じたシリア-イラクの空白地帯にイスラーム国は誕生したと。

民主主義を成立させるには、その根幹の“多数決の原理”で運営していくには、「多数者の少数者に対する最大限の配慮」と「少数者の小異を捨てて大同につく態度」のふたつがセットとして必要不可欠ですが。しかし民族対立とかあり、そういうことを求めること自体が不可能な場所では導入ができないのだなぁと。

昔、メガCDの『ノスタルジア1907』というゲームを遊んだことがあります。その終盤、ヒロインの「ロシアは力でしか統治できない国」という台詞があって。それに衝撃を受けました。
そのときまで私はあまり深く考えもせず、「“民主主義”は世界で唯一無二の善なる政治体制で、それを採用していない国はどこかおかしい。」と普通に無邪気に信じていたのだけど。でも、「力による統治」しか通用しない国も世界にはあるのだと。

もちろんこの国も民主主義を標榜していますが、政府のやり方に異議を唱え、デモや、場合によっては暴力を振るっている人たちがいますが。
それは“民主主義”が“多数決”の理論で動いている限りは少数者の抵抗(あるいは「“もうひとつの”正義」が必然的に出てくるのでありましょうが。それはある意味、“民主主義”がきちんと回ってる証左かもしれないなぁと。もし独裁主義体制なら政府のやり方に反抗する人たちは封殺されるでしょうから。

いや、ま、閑話休題。

もうひとつ興味深いと思った点は。

『「イスラーム国」は、独自の独自のイスラーム思想を打ち出しているとは言えない。(中略)過去に多くの思想家によって提起されてきた主張を「イスラーム国」もまた共有しているとみられる。』(第7章「思想とシンボル-メディア戦略」)

という指摘。

ある程度の歴史と信者数を持っている宗教は、そのどこかに過激なもの、排他的なものをを持っていたと思います。歴史を生き残り、ある程度の勢力を獲得するためには、その歴史において、そういうものが必要だった時代もあっただろうと。
しかし、それが現在ある程度の勢力を保って平和裏に他の宗教とも共存していくためには、そういった過激な矛先を収めなければならないと。そして今の宗教はほとんどそうしていると。

でも、やっぱり、「世界は三角だ」と信じている人と「世界は丸い」と信じている人は最終的には共存できないと思います。共存できているのはある程度の「妥協」のおかげであると。(あるいは「世界は三角錐だ」という見方を発明するか)
その妥協を許さない点において「原理主義」と呼ばれるのでしょうか。

しかし、ほんと、どうなっちゃうのかな。

「イスラーム国」自体は武力によって制圧できるかもしれません。でもそれは「憎しみの連鎖」を生み、さらに強化されるでしょう。そして新たな戦法を繰り出してくるイスラム過激派が現れ、第二第三の「イスラーム国」が生まれるかもしれません。
それを断ち切るには、対立している人々を人知では超えられない境界で区切るか米欧がグローバリズムを捨てるか。それとも地下資源が枯渇して、もうグローバリズムも不可能になり、ドンパチもできる余裕もなくなるくらい貧しくなるか。もちろんその時に日本が陥る窮乏は想像するだけでぞっとします。

日本は…。日本は米欧に追従し、その枠組みで生きていく立場であり続けなければその豊かさを維持できないでしょう。独立不羈の体制を持つことは現状、無理でしょう。
そして「イスラーム国」やイスラム過激派の「敵の味方」である限り、彼らからは敵とみなされるでしょう。それが非軍事的援助という言い訳はどこまで通じるのか?たとえ非軍事的援助でも敵が力をつけるのに手を貸しているのなら敵と看做されるんじゃないかしら?軍事的援助と非軍事的援助とことさらに分け、それを別物と看做す物の見方は、70年間戦争をしてこなかったこの国ならではの特殊な感性かもしれません。

先に書いたようにそれをやめて、米欧追従をやめて、それでこの国の独自のスタンスを打ち出せるのか。いや、テロリズムに対抗しなくていいのか。それもまた考えます。
どっちにしろ「自衛」は考えないといけないでしょう。

そしてイスラム過激派が「グローバル・ジハード」を唆すのであれば、この日本にもそれに呼応した人々は現れるのかしら?
共産主義なら、それに呼応した人々が現れ、テロを行いましたが。鬱屈した日々、閉塞感をそれで打破しようとテロリズムに走った人々はいましたが。「日本赤軍」は世界にその悪名を轟かせましたが。イスラム原理主義はどうなんでしょうか。それに“夢”を見て参加しようとする連中はいるのでしょうか。

残念だけど、現代の日本社会は格差が進み、階層が固定化され、人々は孤立し、希望と自尊を得られにくい世の中になっています。そしてその中で鬱屈し、破壊衝動と破滅衝動を抱いている人は増えているかと。その鬱屈を束ね、爆発させる「起爆剤」となる何らかの思想がそういう閉塞状態に対する「希望」として立ち現れてくる危険性があると思うのですが。もちろんそれは「イスラム原理主義」とは違うかもしれないけど。

我々日本人はイスラム過激派と違い、その閉塞状態に対する鬱屈を他者への暴力としてではなく、自分に向けているような気がします。もちろん通り魔事件からネット上での炎上案件まで、他者への暴力として発散される場合も多いのだけど。でも、「草食系」や「若者のxx離れ」といわれる物言い、高い自殺率を見ても。全体としてそういう時代になっているのではと。

ほんと、どうなっちゃうんだろうなぁ、って思うけど。
以上が私が本書を読んで思ったことです。

再度書きますが、これはあくまで私個人の感想です。誤読や誤解もたくさんしてると思います。それはごめんなさい。
そして何よりもこういうグデグデの感想を読む時間があるなら、本書に直接当たってほしいと思ってます。おススメ本でありますよ。

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