昨日は三軒茶屋のシアタートラムへ。演劇実験室◎万有引力公演『観客席』を観てきました。
ある意味、演劇実験室◎万有引力のエッセンスのぎゅっと凝縮された公演かと。
寺山修司率いる演劇実験室◎天井棧敷、そしてその衣鉢を継ぐ万有引力のお芝居は、その根底に、「この世そのものが虚構、お芝居である」という思想があると理解しているのですが。
だから、お芝居の始まりは定かではない、開演を観客に伝える緞帳は使わない。客入れ時点ですでに俳優さんたちが蠢いている。そして、お芝居の終わりも定かではない。役者さんがはけ、客電が点いて、なんとなく「お芝居」の終わりが判る。っていう感じ。つまり、「ほんとの意味」ではお芝居は始まりも終わりも無い。だってそもそもこの世そのものが虚構、お芝居だから、というコンセプトではないかと。
そしてさらにその考えを進めて、“演劇”を“劇場”から解き放つ「市街劇」もあったのではと。
そして、さらにさらにその考えを進めれば、その根底にあるのは「所詮全ては幻想で御座います」という岸田秀の唱えた『唯幻論』的な考え方であろうと思います。(ここで吉本隆明の『共同幻想論』も出さないといけないのだろうけど、そっちは不調法なので…)
それが寺山修司の思想の根底にあったのではと。
私は高校時代に寺山修司に出会いました。そして『唯幻論』を知ったのは、中年に入ってだいぶ過ぎた近年になりますが。『唯幻論』は、この現世に対する違和感を癒してくれる、私にとってとても大切な「おくすり」になりました。ただし、あまり人に奨める事ができる「おくすり」ではないかと。たぶん、ややこしい自意識を抱え込んでしまった私みたいな人のみに処方できる、普通の人にとっては劇薬みたいな「おくすり」じゃないかなぁと。ただ、必要な人にはとても必要な「おくすり」ではないかと。
そして、寺山修司ファンだったのも『唯幻論』的な考え方と自分が親和性があったのだなぁと改めて気づかされたりしましたが。いや、閑話休題。
そして、その世界観だと、俳優と観客というのも容易に立場が逆転する、入れ子細工になっちゃうんじゃないかと。“虚構”に身を置く俳優、“現実”に身を置く観客、しかし全てが“虚構”なら俳優と観客は容易に立場が入れ替わる。
その観客論と、その実験的なもの、(たぶん、その前身の演劇実験室◎天井棧敷から)受け継いだ、万有引力のお芝居にも通底している思想、そのエッセンスをぎゅっと凝縮したものが今回の演目『観客席』じゃないかと。
そう想像してましたし、理解しているのですが(外していたらごめんなさい)
だから、今回の公演はとてもドキドキしてました。万有のお芝居はいつも少しはそうなんですが、今回はさらに「客席は安全地帯ではない」という方向で行くのではないかと。
この『観客席』公演には昨秋には出演者募集のワークショップがあったそうで、
◎俳優を演じることになる俳優
◎観客を演じることになる俳優
◎観客を演じることになる観客
が募られたそうでありますし。この“俳優”と“観客”の入れ子構造を演出で取り入れられるでしょうし。そしてこのワークショップでは募られない、募ることのできない「俳優を演じることになる観客」もアリでしょうし。(今までの万有公演でもお客さんを舞台に上げることは何度かありはしたけれど)
という方向でいつも以上の緊張感を抱えながら三軒茶屋のシアタートラムへ。
シアタートラムでは万有の『奴婢訓』を見てます。小ぶりですが、きれいで、面白い感じの劇場ですね。客席も傾斜のきつい雛壇形式、そして小ぶりだけど天井の高い舞台もいい感じです。好きです。小ぶりなぶん、肉声で台詞も通しやすいかなぁ。(これ今回気がついたところ)
(現在公演中でありますし、ネタバレはなるべく避けたいと思いつつ、ある程度は内容に触れて書いていきます。ご注意であります。)
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