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2013/07/23

『「個性」を煽られる子どもたち』

『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(土井隆義:著 岩波ブックレット№633)
読了。

数年前、ある映画監督さんのトークショーに行った事があります。
ちょうどある携帯小説がブームで、それを原作にした映画も大ヒットしたころ。その監督さんがその原作について、「今の若い人はネットとかあるけれど、実際にはとても狭い生活圏で生きているように見える」という事をおっしゃっていました。

そのころ、私はナイーヴに「ネットは人の見聞を、世界を拡げるもの」と信じていました。
だから、その指摘に驚いたのだけど。それからしばらくそのことについて考えてみました。つらつら考えていると、ネットは人の見聞を拡げるというよりもむしろ、自分が快とする狭く閉じた世界にアクセスするためのツールになってきているのかなぁと思うようになりました。

携帯でアクセスするネットなんてまさにそうなってきてるかなと。自分が快とする狭く閉じた世界にいつでもアクセスできる、例えば家族、親戚関係、学校、職場から、同じ電車に乗り合わせているというレベルまで、自分の「身の周り」のコミュニティとなると、自分と意見が違う、不愉快な人間にもアクセスしなきゃいいけない。しかし、ネットではそういう煩わしさはない。自分の快とするものだけにアクセスできる、そういうことではないかしらと。

そういう事に気づき始めると、なんか面白くなってきて、現代における人の意識の変容を扱った本をいろいろ読むようになって来ました。そして、本書が紹介された本を読んだりしたこともあり、これも面白そうで、いろいろヒントをくれそうなので、購入してみた次第。

岩波ブックレットを手にしたのは初めてかなぁ、だいたい教科書ぐらいのサイズで70ページちょっとの薄い本でした。薄い分、内容がぎゅっと詰まってたような気がします。

目次はこんな感じです。
一.親密圏の重さ、公共圏の軽さ-子どもの事件から見えるもの-
1.親密権における過剰な配慮
2.公共圏における他者の不在
3.「つながり」に強迫された日常
二.内閉化する「個性」への憧憬-オンリー・ワンへの強迫観念-
1.生来的な属性としての「個性」
2.内発的衝動を重視する子どもたち
3.「自分らしさ」への焦燥
三.優しい関係のプライオリティ-強まる自己承認欲求のはてに-
1.「自分らしさ」の脆弱な根拠
2.肥大化した自我による共依存
3.純粋な関係がはらむパラドクス
引用文献
という構成になってます。

さて、本書を読んでの感想ですが。
(厚くも高くもない本だから、できたら読んでちょ)

今の子供たちにとって親友関係と云うのはうんと気を使ってその「空気」、不文律的なものを壊さないように配慮しなければならない、「異様に重いもの」だと言います。

“現代の子供たちにとっては、親密な友人といえども、決して気の許せる関係ではないようです。いや、むしろ親密な相手だからこそ、気を許すことができないのでしょう。かつての親友が、自分の率直な想いをストレートにぶつけることのできる相手だったのに対して、昨今の親友とは、むしろそれを押さえ込まねばならない相手となっています。そうしなければ、相手との「良好な関係」の維持が難しいと感じられるようになっているのです。”(本書6p)

う~ん、ほんとうに昔は親友というのが「自分の率直な想いをストレートにぶつけることのできる相手」だったのかなぁと思うのですが。どうも私は「決して気の許せる関係ではない」という方がスタンダードだったような気がします…。いや、私は親友いる人間じゃないけど。
ただ、言えるのは、ほんとうの友達、親友というものは、「自分の率直な想いをストレートにぶつけることのできる」関係で、それを理想だとは信じてはいます。つまり、それは持ってはいなかったけど、憧れてはいたと。それが「ほんとう」だとは思っていたと。
現代の子どもたちにおいて、それはもう「理想」としてすら機能していない、子供たちの間では完全に消えてしまった考え方になってしまっているのかもしれません。
そういう意味であれば頷けます。

そのあいまいな「空気」を必死に読み取り、気を遣いあって維持しなければいけない「関係」。そのあいまいな空気の中で「いじめ」も発生するから、その「いじめーいじめられ」の関係も極めて流動的だそうです。

その「親密圏」での重圧の反動か、子供たちは「公共」の場において、他者を不可視にふるまう、と。それは経験ありますな。現代人の行儀の悪さは敵意や悪意、ずうずうしさから発生するというよりも、他者が「不可視」なせいかなぁと感じられます。電車の中で化粧をする女性、道端に座り込んでパンツを平気で見せている女子高生。そして携帯に没入して、周囲にまったく気配りをしようとしない人たち。居合わせた人々を「人間」として認識できないからこそできる行為かもしれません。

そして、本書を読んで感じたのは、「論理」が摩滅し、「感情」で人が動くようになりつつある時代になってるのかなぁという事。
人は快を求める動物であり、「快」とは感情のひとつであるとは思います。だから、本来的には、「論理」なんかより「感情」としての「快」を求める存在であるとは理解します。

ただ、「感情」はあくまで個人的なもの。てんでばらばら。しかし人間は社会を構成して生きていかなければ生きることは難しい。だから、そのてんでばらばらの「感情」を持ってしまっている人類は「論理」という物を発明し、各人が協調して動ける土台を作ったと。そして「論理」を重んじるという態度が生まれたと。そう解釈しているのですが。

ここで、これもまた自分考えで解釈した岸田秀の「唯幻論」をぶち込んでみます。
「唯幻論」によると人は本能の壊れた動物、つまり、人は「社会を構成して生きる」という本能(プログラミング)は施されて生まれてきてはいない。てんでばらばらの「私的幻想」(衝動)を持って生きている。そういう人類が社会を構成して生きていくために、その「私的幻想」から共有できそうな物を選んで「共同幻想」を構成し、人は社会的動物として生きていくようにした、と。

その「共同幻想」のひとつのカタチが「論理」だったのではと。そしてその論理という「共同幻想」が現代社会においては摩滅してきて。そのひとつが「島宇宙化」、つまり、「共同幻想」を共有できる範囲が著しく狭まり、小さなコミュニティでしかそれが通用しなくなってきているのではと。

「島宇宙化」とは『ギャルと不思議ちゃん論』(松谷創一朗:著 原書房)から引きますが。

“社会学者・宮台真司の用語である島宇宙化とは、大きな共通前提が失われた社会で、共通感覚が通用する狭いコミュニティに個々が安住する状況を指す。それが現象してきたのは八〇年代からだ。
(中略)
こうした状況が、ネットやケータイによって急激に促進されたのが九〇年代後半以降だ。
(中略)
こうしたスクリーニングの簡便さは、ふたつの現象を派生させた。ひとつが、自らの島宇宙外部との接触機会やそれについての情報摂取が減る事によって、“異類(=他者)に対しての想像力が低下してしまうことだ。つまり、視野が狭まってしまう。
(中略)
も うひとつは、その逆の現象だ。島宇宙に属する一方で、ネットによって広範な社会も見渡せることが可能となった。よって、自らの趣味や属性について相対的に 意識させられるようにもなったのだ。つまり、“異類(=他者)”に対しての自意識が過剰化してしまった。”(『ギャルと不思議ちゃん論』285p)

もちろんその「島宇宙」を支配しているのは「論理」ではなく、流れが読みにくく、その上うつろいやすい「感情」。だから、島宇宙の人たちは必死になって「空気」を読み取り、それにあわせて振舞おうとせざるをえなくなり、疲弊する、と。

また、もうひとつは、その「論理」の摩滅にともなっているようですが、「歴史感覚」の終焉。連綿とした歴史の流れの上に今があるという感覚の喪失。
これは吉岡忍による宮崎勤事件と酒鬼薔薇事件のルポルタージュ、『M/世界の、憂鬱な先端』に書かれていた。

“西と東のベルリン市民たちが、そして、遅ればせながら私がたしかな手ごたえとして感じとったのは、現実は変わりうるということ、いや、現実は変えられるのだという確信だった。
(中略)
私は日本を思った。私の国のことを思い起こしていた。そいつが言うのが聞こえた。
ここには日本の入り込む隙がない、とそいつが言った。
(中略)
あちこちで大衆社会が生まれ、消費社会が立ち上がり、新中間大衆がどっとやってきて、やがて焼けたフライパンの上で、歴史が終った、お金儲けはゲームだ、ネアカが一番、グルメが最高、ブランド大好きと浮かれ出す。
(中略)
その先に、私の国がある。薄くスライスされた、いま、ここ、というだけの社会。新しくなることは豊かになることで、豊かになることは過去から自分を切り離すこと。
(中略)
世界の、憂鬱な先端。”(吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』 文春文庫版22-46p)

という一節を思い出しました。

そう、現代の人はそのように、論理の力が弱まり、イドの怪物のような私的幻想、つまり衝動につき動かされた「いま・ここ」の刹那的な瞬間瞬間を生きるようになっているのでは、と。
これが東浩紀のいう「動物化」なのかなぁ。よくわからないけど。

そしてタイトルである「『個性』を煽られる子どもたち」ですが。
そういう風に、小さな親密圏で空気を読みあい、必死になってそこから逸脱しないように振舞っている現代の子供たち。それが逆になんで「『個性』を煽られる」のかなぁ、「個性」を主張すれば集団から浮いてしまうのに、いじめられる原因になりそうなのに、とも思うのですが。そこらへんは先に引いた『ギャルと不思議ちゃん論』の一節、「島宇宙に属する一方で、ネットによって広範な社会も見渡せることが可能となった。よって、自らの趣味や属性について相対的に 意識させられるようにもなったのだ。つまり、“異類(=他者)”に対しての自意識が過剰化してしまった。」という事が原因なのかなぁと思いますが、ここんとこはちょっとよくわからないです。

そして、現代人のいうその個性とは、「他者との比較」、つまり自分の「社会性」として発見されるものではなく、つまり「社会的個性」ではなく、「内閉的個性」を志向していると。

“しかし、現代の若者たちにとっての個性とは、他者との比較の中で自らの独自性に気づき、その人間関係の中で培っていくものではありません。あたかも自己の深淵に発見される実態であるかのように、そして大切に研磨されるべきダイヤの原石であるかのように感受されています。その原石こそが「本当の自分」というわけです。「私にだってダイヤの原石が秘められているはずだ」と、さしたる根拠もなく誰もが信じているのです。”(本書27p)

「論理」、そして「社会」の摩滅、それに対する価値を感じない人たち。
しかし、それは、瞬間瞬間に変容する「気分」をベースにしているものだから、あやふやで不安定で。

“「自分らしさ」の確信を得ることができるのは、たとえ錯覚かもしれないにしても、身近な他者からの自己承認によってのみです。(中略)それは、まったく皮肉なことですが、社会化に対してリアリティを見失い、まなざしを内閉化させていった結果なのです。社会的な根拠を見失ってしまったことの必然の帰結なのです。
ところで、社会化に対するリアリティの喪失とそれにともなうまなざしの内閉化は、従来の人間関係から安定性をも奪い去っています。各自の関心が差異化し、それぞれ別の方角を眺めるようになっているからです。(中略)
しかし、それにもかかわらず、依然として彼らが一人になれないのは、むしろ強迫的に群れつづけなければならないのは、自己意識の感覚化とそれにともなう断片化によって、自立的な指針を内面に持ち合わせなくなったために、代わって具体的な他者からの絶えざる承認を求めざるをえなくなっているからです。だから、彼らにとって、友だち関係は異様に重いものと感じられるようになっているのです。関係の安定性を担保してくれるものはもはや消失しているのに、無理をしてでもお互いに関係を保ちつづけなければならないからです。”(本書46-47p)

そう捉えると、もう「島宇宙化」どころじゃないじゃないと。島宇宙さえ実はバラバラで、孤立している個人同士が必死に空気を読みあい成立させている共犯関係であるなぁと。
そしてそれは大野左紀子『アーティスト症候群』に書かれていた「承認欲求」の問題。
また、先日読了した『自己愛過剰社会』(ジーン・M・トウェンギ&W・キース・キャンベル共著 桃井緑美子:訳 河出書房新社:刊)にも通じるのかなぁと。

で、やっぱり、こういった本たちを読んで思うのは「これから、この世の中どうなっちゃうのかなぁ」ということ。もちろんそれはまた自分の中の課題、これからどういう心構えで生きるのか、そしてこの世に感じている「違和感」をどう処理して生きるのかという事も関わってくるのだけど。

こういう時代の流れを決して全面否定したくはありません。「個」が重要視されている世の中の、ある意味、「行き着いた」帰結かもしれません。そして、この国は、ほんの70年くらい前、「社会」のために「個」は犠牲となるべしという考えでやらかして、たくさんの人が殺され、またたくさんの人を殺してしまったのですから。

しかし、「論理」が摩滅し、「情」だけで人が動いている、その社会は危ういものになるでしょう。「情」が通じない相手に対して、どうしてもそういう相手と付き合わなければならない局面は、人対人から国家対国家まで、発生すると思います。そういう局面においては「論理」で共通するものを得て、やっていかないといけないんでしょうが。そういうスキルが失われてしまっている。「情」でなんとなく分かり合えない相手に対する強烈な拒否反応が起きる、と。そういう相手との「共存」が不可能になる、と。

もちろんこういう状態で「社会」がどれだけ維持できるか、少々危なっかしさを感じます。
しかし、あえて突き詰めた考え方をすれば、「それで人類が絶滅するなら、それもいいじゃない」とも思うのです。「苦しみに満ちた繁栄より、ハッピーな滅亡の方がいい」とも思ってしまうのです。たぶん、この、本書で指摘された部分は少子化とも大いに絡んでいるのでしょうが。

そして、本書の最後にもかかれていますが、これにかんしては「子どもたち」の問題だけではない、大人たちにも責任があると大いに思います。車中で傍若無人にふるまってる、マナーの悪いのはむしろ年寄りのほうだと感じていますし。いや、若い衆のほうが「他者を不可視」にするスキルが高くて、周囲の人間と摩擦の起きない振る舞いを自然に身につけているのかもしれませんけど。

そういう風に今まで考え、読んできた本と本書はいろいろリンクしてきて面白かったです。
ほんと、厚くて高価な本じゃないですし、こういうグダグダした拙文を読むより、本書にじかに当たってほしいと思っています。おススメ本であります。

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