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2013/04/15

大野左紀子『アート・ヒステリー』

『アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン』(大野左紀子:著 河出書房新社:刊)読了。
前作『アーティスト症候群』(河出文庫)も面白く拝読した著者さん、私が読んだ2冊目の本です。

少し前に読了していて、感想も書きたいと思っていたのですが、ずっと書きあぐねていました。
自分のなかの課題に示唆を与えてくれる部分がたくさんあって、それをうまくすっきりと、なおかつブログ程度の分量の文章でどう書いたらいいか、書きあぐねていました。
だから、ほんとは、こんなところでグダグダ私が拙い感想を書くより、多くの人に「(できたら前作『アーティスト症候群』とセットで)読んで!」と伝えたい本でありますが。ま、とりあえずのところで感想を書いてみます。本書の内容紹介というより、本書を読んで考えた事、をメインにします。(ホントに読んでみて下さいな)

まず最初に自分のスタンスから書かなきゃいけないかと。私は「アーティスト」ではありません、ただ、インディーズバンドのライブ行ったり、知人関係の展覧会に行ったり、ややアート界隈には身を置いていると思います。こうやってブログを書いているのも、「表現欲」の表れでしょう。

私は美術史にはまったく疎いです。そして、あまりそっち方面についての知識欲はないのですが。
ただ、私は現代人のメンタリティの変容といったものに興味を持っています。そして、残念だけど、私は私を取り巻く現世に対して、少し「生き辛いなぁ」と感じています。そして、どうしてそうなってしまったか、知りたいと思っています。

ま、ひとことで言えば「自意識こじらせ系」ですかね?あたしって。

著者の前作『アーティスト症候群』もそういった動機で手に取りましたし、本書も同じ動機で手にしました。そして色々面白かったです。

本書の構成は以下のようになってます。

はじめに-アート島から漕ぎ出して
第一章 アートがわからなくても当たり前
1.ピカソって本当にいいですか?
2.疎外される「わからない人」
3.アートの受容格差
4.「美術」はどこから来たのか
第二章 図工の時間はたのしかったですか
1.芸術という「糸巻き」
2.日本の美術教育
3.夢見る大人と現実的な子ども
4.問い直される理想
第三章 アートは底の抜けた器
1.液状化するアート
2.空想と現実の距離
3.村上隆の「父殺し」
4.アートの終わるところ
おわりに
あとがき

『アート・ヒステリー』と「アート」している人たちにはずいぶん挑発的な、ケンカを売ってるようなタイトルがついていますが。

なんでもかんでもアートとして持ち上げてみたり、判で押したようなアートへの賞賛、期待が共有されている場面などを目にすると、アート(集団)ヒステリーとでも呼びたくなる。が、私がこの言葉に込めたい意味はそれだけではありません。
(中略)ラカンは、ヒステリー者とは「私はあなたにとって何なのか?」「<女>とは何か?」という問いを発し続ける者であるとしました。(中略)つまり大きく捉えればヒステリー者とは、他者との関係において自らの位置を問うことを止められない者の総称です。
そこからすると、「アートとは何か?」「社会(あるいは人間)にとってアートは何なのか?」という問いを延々と発し、それによって、アートを「社会から欲望されるもの」「謎めいたもの」として維持し続けようとする姿勢は、アート(についての)ヒステリーと言ってよいのではないか。(本書9p「はじめに」より)

という事であるようです。(なんか本書の文章って、一部を抜き出そうとすると、意味がするりと抜け落ちそうな感じがするなぁ)
『はじめに』の副題に「アート島から漕ぎ出して」とあるように、近現代のアートシーンを少し遠くから眺めてみようという試みであるようです。

前著『アーティスト症候群』にあったような、「芸能人アーティスト」を皮肉たっぷりに分析して見せる、というような、解りやすい“毒”は本書では影を潜めています。そのぶん、もっと深いところ、そして何より他者ではなく、“私・たち”に、その毒はボディブローのように効いてくる心地がしました。

私が本書を読んで、ちょっとして、ぽつりと落ちてきた言葉は「所詮すべては幻想で御座います」というフレーズでした。
そう、岸田秀的に言えば「共同幻想」なのかなぁと、「アート」もまた。

いや、あたしだって、その「幻想」を取り入れて生きてますよ。「幻想」といってもバカにしてはいません、人は「幻想」なくしては生きられないものでしょうし。
岸田秀の「唯幻論」によれば、人は本能の壊れた動物。その本能の壊れた動物が社会を形成して生きていくためには、「共同幻想」が必要。共同幻想を持てない社会は滅びるでしょうし。

ただ、「アート」においては、その「幻想性」が露呈しやすい部分があるかと。その幻想をいかに構築していくかが、「イリュージョン・ゲーム」が、アートの世界(でも)、「生存戦略」じゃないのかなぁと。
いかに「作品」を作っても、「イリュージョン・ゲーム」を戦うことができなければ、ただのガラクタ。「イリュージョン・ゲーム」をうまく立ち回れば、ガラクタも名作となり、高値で売れて、いっぱしの成功者。
そして、いちばん困るのがドヤ顔で「イリュージョン・ゲーム」を仕掛けたつもりでも、まわりの誰も「いっしょに遊んでくれない」場合なのかなぁ。そのゲームを遊んでくれる範囲の問題。

うまく周囲を巻き込みブームとなって、作品も超高額で取引されるアーティストになるか、「なんなのこれ?」どころか、大顰蹙をかって周囲から叩かれる存在となってしまうか。いや、そういうものにすらなれずにただ埋もれていくものが大過なのでしょうが。

第2章の「図工の時間はたのしかったですか」では、近現代、つまり日本が開国してからの美術教育史について語られています。西洋に追いつけ追い越せのもと、美術教育も始まったと。
最初はお手本を写すような「手習い」だったのが、やがてルソーの『エミール』の思想の導入により、「子どもの中にある“個性”を“自由”によって伸ばす」というかたちになっていって、しかし、それが行き過ぎた結果、自分のなかに先天的に何か宝石の原石のようなものがある、という自己認識が生まれ。人々の中に渇えていた「承認欲求」がその考えに飛びつき、それを安直に認めて欲しいという欲望が生まれ。それが著者の前著『アーティスト症候群』にあるような現代のアーティスト志向の人たちの態度に繋がってしまったと。

そう、『アーティスト症候群』でぐさりと来た「承認欲求」も今回はもっと深く掘り下げられています。それもまたほんとに「イテテテテ」と読みました。
そして、もうひとつの、(著者さんが考える“本当”の?)アートの機能とは、

残り滓としての「異物」である「自分の欲望」は、普通は自覚されることなく、深く無意識に押し込められています。ある種の人々はその抑圧の力が弱くなり、押し込められた欲望はしばしば、「世界と自分との不調和」という強い違和の感覚として現れます。自分にとってこの現実世界は見知らぬ世界のようだ。そこで自分は「異物」だ。「異物」である自分を自分で救済するために、もう一つの世界を強固に作り上げねばならない。それは自らが現実世界に押し潰されないための、必要に迫られた行為です。いわゆる「アート活動」ではないのです。
しかしこの「世界と自分との不調和」の感覚こそは、アーティストをはじめ表現者のモチベーションの根底にあるものだったのではないでしょうか。(201-202p「アートは底の抜けた器」)

この指摘にただ涙、であります…。

最近、「才能というのは過剰ではなくて欠落」という言葉の意味が少し解ってきました。
上に引用したような意味において、才能というのは欠落なんだろうなと思うようになっています。
「残り滓としての「異物」である「自分の欲望」」とは、岸田秀の言葉を借りれば、「(社会化された)“共同幻想”に取りこぼされ、各人の内部でくすぶっている、“私的幻想”」なのでしょうか。

村上隆について書かれた部分も面白かったです。“外の人”にとっては「あんなアニメフィギュアのぱくりみたいな物がなんで何億円もするんだろ?」って不思議がられますが。ま、けっきょく、「イリュージョン・ゲーム」をうまく戦ってきた、のだろうなと。

また、同様のことが、印象派の台頭期にあったそうです。“作品”のほかに、評論家による“理論武装”そして、画商による“買い支え”、それが大切っぽいですね。特に“買い支え”は部外者にもわかりやすい、有無をも言わせぬ“カネ”でその価値を示す行為でしょうし。ま、“貨幣”なんてのは共同幻想の最たるものでありますが。

印象派あたりが日本での人気が高い理由についての説明も面白かったです。印象派以前の絵画は西欧の歴史や宗教をモチーフにしていて、それの知識が必要であるが、印象派以降は風俗画が多く、そういう知識が無くても楽しめる、日本人好みの題材であると。

そして、近現代のアートの行ってきた「父殺し」の歴史。つまり、既存のアートを否定し、新しいアートの形を示す、その超克行為がアートであった、と。しかしその歴史を繰り返した挙句、殺すべき「父」のいない時代となり。なんか近年の一発芸みたいな「アート」が跋扈する状況はその挙句の果ての結果みたいです。
またさらに、開国後、西欧に追いつけ追い越せというかたちの一環としての西欧アートの輸入は、今までの母性的な時代から、西欧という「父性」をインストールするという行為であったと。
二重の父性、になるのかなぁ。

ま、本書に対して私は理解が足りない、誤読している、部分が多々あると思います。
しかし、ここに書いたものの何倍も何十倍も示唆に富む部分がありました。
そして、「アート」そのものというより、「アート」を通した、現代日本人のメンタリティの変化を概説した本として楽しみ、またそれを通して現代日本の「アートシーン」というものを逆照射してくれる本じゃないかと思います。

本当に、うまく説明できなかったけど、おススメ本でありますよ。

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コメント

自分の生まれ育った環境だと、まず、父親は
アーティストではありませんが画家のパトロン、
母親は物書きで、かつ作詞家、その後に彫刻家と
日本画家のパトロン、そんな関係で、いろんな人が
訪れてくるし、また親に連れられてアトリエを訪れて
いました。

両隣はピアニスト一家とバンドミュージシャン、
教わりにも行きましたし、それなりの感性も
磨けました。小学生の頃から図書館通いや
美術館通いは全くの自由、親戚のカメラマンから
カメラを借りて写真も教わりました。

みんな学校じゃ出来ない事ですけど、相当な広範囲
に対応できる、それでいて個性は失わない、感性の
かたまりみたいなものが育つんです。これ、時期が
重要じゃないかと思います。若い方が効率良いです。

んで、周囲の人たちに共通していて自分に引き
継がれたのは、周囲の評価を気にせず、自分の
やりたいようにやっても、あとから評価がついてくる、
って事です。逆にこれは若いうちだと脱線につながり
そうです。

あとは、自分の実家がそうだった様に、アートサロン
的な場所が出来て、お互いに影響を及ぼしあう様な
関係を作れる様になるかどうかだと思います。

ネットのおかげで仮想の場所は作れる様に
なりましたけど、たまには直接集まれることも
必要と思います。でないと、孤高の似非アーティスト
ばかりが生まれちゃいますよ、きっと。

投稿: telepost | 2013/04/18 00:30

telepost様
十年ちょっと前ぐらいからでしょうか、こういった本を読んで色々考えるようになってます。
もう自分の人生のだいぶ先が見えてきて、一発逆転もないだろうなと分ってきたからかしら。
自意識、自尊心、満たされること、満たされないこと、鬱屈、幸せであること、幸せとは何か。
まだよく解ってないけど、ま、そうやって自分の心が暗黒面に堕ちないよう、できたら心安らかに生きられるよう、そう思ってます。

投稿: BUFF | 2013/04/22 11:18

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