『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
先日、やっとこさ重い腰を上げて『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を見てきました。
なんか、見たい気持ちと、見たくない気持ちがせめぎあっていました。
見ると決めて、席をネット予約して、その当日は朝からドキドキしていました。そのドキドキは、単純に「楽しみ」だけではない感覚でした。その感覚、何かに似ているような気がしてならなかったんですが、ふと気がついて「ああそういう感じだなぁ」と膝を叩きました。
それは、つまり、大好きな女の子をやっとデートに誘えた、そのデートの日の気持ちですな。
その子とデートする、やっとデートできる、それが楽しみな反面、大失敗してしまうんじゃないか、思っていたのとは違う子でがっかりするんじゃないか、あるいは思いっきり振られるんじゃないか、そういう怖い気持ちもありました。(つかおにゃのこには全員振られたけど)
旧テレビ版から『エヴァンゲリオン』シリーズの魅力というか、「人々を捕らえて放さない」最大の原因は、(もちろんお話の面白さとか散りばめられた謎とか、そういうのも大いにありますが)、それは、「オタク」が抱いていがちな「心の傷」を絶妙に刺激してくるからだと思っています。(「オタク」と限定されるものか「現代の人々」などと敷衍できるものかはわからないのだけど)
強烈に惹かれると同時に、痛みにのた打ち回らせる作品。痛いのだけど、逃げる事もできない、その痛みに見る者を捉えてしまう、そういう作品だったのではないかと。
だから、「エヴァ語り」が大流行したのではないかと。たくさん本も出ましたし。サイトもたくさん。ある作品について謎解きしたり熱く語ったりするサイトを見て回るのも「エヴァ」が初めてじゃなかったかしら。
いや、まぁ、そういう感じで、「ヱヴァQ」もきっちり観る者をシメてくるんじゃないかなぁと。
というわけで、楽しみと同時におっかなびっくりドキドキしながらヱヴァQ、見に行ってきました。
ま、結果からいえば、好きな女の子との初デートに例えれば、恋に落ちる事もなかったし、手ひどく振られる、傷つけられた気持ちもしませんでした。
いや、disるつもりはありません。面白かったです。私のちんけな予想をはるかに上回る凄いおはなしでしたし。
次の完結篇も見に行くだろうと思います。
(以下、ある程度ストーリーに触れつつ書いていきますので、ネタバレ注意)
本編上映前、「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」で上映された『巨神兵東京に現わる』が上映されましたが。ま、せっかく作ったんだから上映しようって事だと思っていましたが。まさに本編の序曲としてふさわしいものであったかと。こんな事が起きたのだろうなと。つかこれ出して本編での描写ははしょったのかしら?
特撮博物館は行って、『巨神兵~』も見たのだけど、もういちど見たいと思っていたので見られて嬉しかったです。
『巨神兵~』を見たあとメイキングの展示があって、「いくらなんでもこれCGだろ」ってシーンも特撮だったのを知って驚いたので、見直せてよかったと思います。(特撮博物館の順路上、メイキング見てから『巨神兵~』を見直すことはできなかったので)
ただ本作は、CGは使ってないけれど、コンピュータフリーじゃなくて、映像の合成とかにコンピューターを大いに使っているという作品。コストをいくらでもかけるつもりがあれば、フィルム合成でも作れる作品かどうかは分らないのだけど。
冒頭、少しお話が進んだあたり、なんか違うアニメを見ているような気がしました。
なんつーか「ヤマト」とか「マクロス」とか「エウレカセブン」とか、そのあたり、フライホイールネタでヤマトを思い出したんでしょうか。クルーにギャル系がいたので「エウレカセブン」思い出したのかなぁ。
なんていうのか、面々、ミサトさんたち、なんて例えればいいか、「マッチョ」になりましたな。
たぶん、先述した「心の傷」の根っ子には、現代における「マッチョ」の問題があると思うのですが。
まぁしかし、ほんとシンジ君の扱いは酷いと思いましたわ。いかに彼が人類全体にとって厄介者になってしまったにしろ。少なくとも何が起きたかくらいは教えてあげればよかったのにと。何が起きたにせよ、シンジ君はあくまでも善意だったのだし。自身の守るべきものを見つけ、戦う事ができたあとなのに。
シンジ君には世話係がひとりついてたみたいだから、話す暇が無かったとはいえないし。
何が起きたかもわからないまま、周りの人全てに嫌悪をぶつけられていたから、あんな事をしたのではないかと。
そこらへん、たとえ内心では人類全体の大厄介者になってしまった彼のことを嫌っていても、懐柔策としてある程度は親身に接するべきだったのではと。そこらへんマネジメントが下手糞やなぁと。彼が「鍵」であったならなおさら。
組織が分裂していた件。「そうだよなぁ。お互いの思惑が明らかになったら当然そうなるよなと」と膝を叩きました。そうだよなぁ。
しかしほんとシンジ君はすべてを失ってしまったなと。何かのために戦うなんて動機はもう持ちようがないと。「彼」が現れるまでは。しかしそれも失われ…。
あと、かすかに残る彼にとっての希望はレイ(そしてユイでもある)のサルベージか。そしてそれはゲンドウとのエディプスコンプレックスな戦いになるのかなぁ。それともアスカがその憎しみの裏側、まさに「愛憎」の「愛」を見せるのか。
『破』公開当時、「たけくまメモ」だったかなぁ、旧エヴァと新ヱヴァを「同じ駅から出発した、違う路線の列車」というたとえ話をしていて。確かに『序』はほぼ旧版のダイジェスト、そして『破』はふたつの列車は離れ始め、しかし『Q』のラスト、ふたつの列車は同じ場所にたどり着いた、と言えるかもしれません。
しかし、完結篇、どうなるんだろ。『Q』は『破』の展開をちゃぶ台返ししたって言えると思うし。そして、『序』『破』での「シンジ君を幸せにする」という台詞は、『Q』であんなになってチャラにされたと言えなくもないし。
ま、こっちのちんけな予想なんてはるかに凌駕する超展開を見せてくれるんだろうなと思います。
ただ、もう、『Q』でもよくわからないくだりはちょくちょくあったけど、謎解きに夢中になるという情熱はもうないかもしれないなぁ…。だいたい、したり顔でこういう感想書いてるけど、どれだけ、話の流れを把握できたのか…。
ま、ある程度『エヴァンゲリオン』の「呪縛」は解けつつあるかも…
しかしほんと、庵野監督は「エヴァに囚われし者たち」をどういう方向に持っていこうとするのか。
う~ん、「エヴァに囚われし者たち」を上手に「卒業」にもって行くのかしらねぇ…。それとも締め上げて叩き落したままその場を立ち去るのかしら?
あとちょっと気がついた事など。
アスカの声、ちょっと変わってました。それは生死の境をさまようような事故に遭っているのだからしょうがないのかなぁ。
最初、シンジの世話係になる女の子ががいっとう可愛かったかな。沢城みゆきさんが声を当てていましたが。
そいや、エンドロール、キャストの項には出演者の名前だけで役名が入っていなかったような記憶があるんですが。クール?
あ、そうそうそれと、スタッフの中に安藤紘平さんのお名前をちらと見かけたような。こういったお仕事もなさっているのだなぁと。寺山修司人脈としてお名前だけは知っている方ですが。
最後に。
『序』は「テレビ版のダイジェストだからなぁ」とセルソフト版は買いませんでした、『破』はブルーレイ版を買いました。たぶん『Q』のセルソフト版は買わないでしょう。自分の中ではそういう位置づけになるかと。
いや、『Q』の方がもともとの庵野監督の方向性という話も読みました。『破』はあまりにも甘々の、「従来型」の決着を志向した作品なんだろうなと。それで収まっては監督的には困るんだろうなと。旧テレビ版も『男の戦い』あたりで「従来型」の、なんて呼べばいいのかな、「マッチョ」な展開に向かうそぶりを見せつつ、また思いっきり裏切りましたものね。それが「庵野スタイル」と呼ぶべき物なんだろうなと。
最初のエヴァブームのころ星の数ほど出たエヴァ論本はほとんど読んでいないので、あまり偉そうな事はいえませんが。
「エヴァンゲリオン」ってのは従来の物語を「オレの『物語』じゃない」と否定したところから始まっていると思うのです。たとえば主人公は人類の命運を決する戦いに巻き込まれ。最初そういうシノプシスが生まれた頃はその使命に燃えて、そして時代が下れば、嫌々ながら戦いに参加していくうちに、「守るべきもの」を見つけ、進んで戦うようになる。それこそ旧テレビ版の『男の戦い』みたいに。また、そういったものが裏切られ、主人公の失意のうちに終わるようなお話もあったかもしれませんが。
しかし、旧エヴァの動機には、「それはオレの『物語』じゃない」という「違和感」があって、それに基づかない、新しい方向性を示そうとしたのではないかと。
旧エヴァってのは、表象的にはかつての作品群のコラージュを取りつつ、その奥では、「もう従来のものはぜんぶ壊れてしまったんだ」という認識から出発し、新たなる着地点を目指そうとしつつ、それはまだ見い出せない、そんな流れだったのではと思うのだけど。だから、終盤、「破綻」していると思うのだけど。だから、『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』ではほんと、「新たなる着地点」に降りてほしいと思ってます。それを示して欲しいと思ってます。それがたぶん新しい時代の「オレの『物語』」になると思うから。
無理かもしれませんが…。
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