« 詩学校の記事 | トップページ | J・A・シーザーコンサート »

2012/09/12

『ギャルと不思議ちゃん論』

『ギャルと不思議ちゃん論 女の子たちの三十年戦争』(松谷創一郎:著 原書房)
読了。「若い女性たちの(BUFF註:80年代から現在までの)約三十年を描いたものだ。しかもそれを“ギャルと不思議ちゃん”という切り口で描写した。読んでいただければわかるように、それは若い女性たちのコミュニケーションの歴史でもある。」(350p「あとがき」より)という本であります。

そういう本になぜ私が手を出したかというと。

ま、まず、あたしは、若い女性向けの商売をしていたり、若い衆を理解しなきゃいけない職業、例えば教師とかじゃないですし、マーケット関係の仕事をしていたり、そういう人間でもありません。
若い女性には、世間一般的な“オトコ”としての興味はありますが、しかし、まぁ、作中の80年代初頭(いや、それ以前からか)からこっち、おにゃのこには縁がありませぬ。つかそれ以前にコミュニケーション障害気味ではありますが。

そして、現役ギャルなら自分の娘ぐらいの年代になっちゃいますな。いや、もし私が“普通”の人生を辿っていたとしたら、普通に結婚して、所帯を持って、子供を作って、育てていたら。そして私はそれができませんでしたが。

だから、そういった意味での本書を読む動機はあまりないのだけど。

ただ、私は、現代の人々のメンタリティの変容について興味があります。人々と世の中の変化。私はそれにとても違和感を感じるときがあります、その私が感じている「違和感」の正体とは何か。そして、私だけではなく、世の中の人の多くが感じているようである、閉塞感。良かれと思って進んできた世の中がどうしてこうなったか?突破口があるのか?そういったことを知りたいと思ってます。それには本書が役に立つかなと。

結論から先に言えば、とても役立ったし、知的エンターティンメントとしてもとても面白く読めました。また、今までそういった思いで読んできた本たちともリンクする部分もあって、それもまた面白かったです。

本書の目次はこんな感じ。

まえがき
第1章 ギャルと不思議ちゃん前史
第2章 コギャルの誕生
第3章 不思議ちゃんとはなにか
第4章 ギャルと不思議ちゃん
第5章 ギャルと不思議ちゃん、その後
第6章 時をかけるギャルと不思議ちゃん
あとがき

各章の最後にかんたんなまとめ的なパラグラフが置かれています。丁寧な構成。
そして、章末に筆者の思い出話的な短いエッセイ。
思いの丈を入れ込んでいらっしゃるのだなぁと感じました。

以下、本書の内容紹介というより「自分語り」な感想を。

本書は現在に至る約30年間の主に日本における女の子のファッションの歴史について書かれた本ですが。
やっぱり、80年代初頭あたりに日本人のメンタリティに何か決定的な変化があったと、私自身の経験からも今まで読んできた類書からも思います。

例えば若者世代で象徴的なのが、堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社現代新書)に紹介された83年のan an誌の記事。「クリスマスの朝は彼とホテルのルームサービスで朝食を」というような記事。本田透さんのいう「恋愛セックス資本主義」の開始宣言。

かつて、とりあえずは、表向きは、「処女」は嫁入り道具として扱われてきたと思います。たとえ本音や実態はどうであれ、(マスコミ含めた)表向きの認識は。それはまた「少女」の時代だったのだろうけど。

しかし消費社会はそれ自身が無限に拡大していかなきゃならないという強迫において、「恋愛(≒セックス)」をついに取り込んでしまいます。「恋愛(≒セックス)」を巡る若者市場の創出ですな。
若者向けの「恋愛(≒セックス)」をコアとした商売が始まり、その中で生きていかなくてはならなくなったと。それに若い衆が踊らされていく時代が始まったと。

たぶん、本書に描かれた女の子たちの変遷は、その怒涛の中での「生存戦略」だったのではないかと。

そして「恋愛セックス資本主義」は消費社会を大いに進歩させたが、そのあとに残ったものは未婚率・離婚率の上昇、少子高齢化という「焼け野原」。そして時代の閉塞。そうだったのではないかと。

その、男性からの、「性的なまなざし」にうまく乗っかっておいしく行こうというのが「ギャル」で、その反対が「不思議ちゃん」なのかな?しかし、ギャル系も、その性的なまなざしに耐え切れず、それを遮蔽するかのように「ガングロ」や「ヤマンバ」みたいに過剰な方向へ行き、その性的なまなざしをドン引きさせる、と。

しかし、「生存戦略」、ややこしい。昔みたいにもっとのほほんとやっていけないものですかね?

個性志向。社会学者の土井隆義は、他者との比較のなかで社会的に構築される「社会的個性志向」に対し、現代の若者はそうではない「内閉的個性志向」があると論じている。この内閉的個性志向とは、「あたかも実体のように自己の深淵に発見され、大切に研磨されるべきダイヤの原石のようなものとして感受され」、その原石を「本当の自分」だとする「内発的な衝動」の事だ。(本書149p)

ここらへんは速水健朗さんの『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)や大野左紀子『アーティスト症候群』(河出文庫)あたりともリンクして面白かったです。

「自分の中に絶対的な基準が存在する」というぶっちゃけ言えば私には根拠がないって見えてしまう考え方、どこからやって来たのかしら?それがとても不思議なんだけど。でも近年の人の心って、そういう信念を抱え込んでしまっている事が多いように見受けられます。

近年、若い衆を中心に「上から目線」という言い回しが流行っているようですが。
ま、上の世代、目上に対する反発ってのは、いつの時代でもあるのでしょうが。ただ、「上から目線」というい特異な言い回しってのは気になっていました。たぶん、ここらへんのメンタリティの変化を受けてのものかと。

ただ、「あたかも実体のように自己の深淵に発見され、大切に研磨されるべきダイヤの原石のようなもの」は明治以来の日本人が求めてきた「近代的自我」のグロテスクな最終形態かもとも思います。

自己の裡の行動原理に従い、外部的な、(かつての封建的な)、規律には縛られない、自由な人のあり方。それが近代的自我だと私は解釈しているのですが。例えば日本での「ハードボイルド」の受容は、近代的自我のエンターティンメントでの実現例じゃないかと思ったりしてるんですが。

本当の近代的自我は(あるのか?)、きわめて強固な理性、ストイシズムのもとに実現されるべきなのではないかと思っているのですが、その過程をすっ飛ばして「感性」に礎を置いた状態がそれではないかと思います。

近年言われる「モンスター○×」とかは、その、自分の感性のみに絶対的な根拠を置いてしまったために、生まれてしまったのではないかと思うのですが。
そしてそれは近年の人々の孤立化のためではないかと。

そして…。

それは“島宇宙化”のさらなる浸透を意味する現象でもある。社会学者・宮台真司の用語である島宇宙化とは、大きな共通前提が失われた社会で、共通感覚が通用する狭いコミュニティに個々が安住する状況を指す。それが現象してきたのは八〇年代からだ。
(中略)
こうした状況が、ネットやケータイによって急激に促進されたのが九〇年代後半以降だ。
(中略)
こうしたスクリーニングの簡便さは、ふたつの現象を派生させた。ひとつが、自らの島宇宙外部との接触機会やそれについての情報摂取が減る事によって、“異類(=他者)に対しての想像力が低下してしまうことだ。つまり、視野が狭まってしまう。
(中略)
もうひとつは、その逆の現象だ。島宇宙に属する一方で、ネットによって広範な社会も見渡せることが可能となった。よって、自らの趣味や属性について相対的に意識させられるようにもなったのだ。つまり、“異類(=他者)”に対しての自意識が過剰化してしまった。(本書285p)

「島宇宙化」と呼ぶのか。そう、確かに。電車の中でも携帯デバイスで自分の心地よい世界に浸り、周りに注意を払わない人間も多く見かけます(いや、空席ができるとさっと座ったりするけどw)。

最初の「“異類(=他者)に対しての想像力が低下」の事はなんとなく理解していましたが。
もうひとつの「“異類(=他者)”に対しての自意識が過剰化してしまった。」ははたと膝を叩きました。そういうメカニズムでありましたか。

ここらへんの自意識の過剰化、『アーティスト症候群』の直接の原因でしょうし、「特別なあたし」を自分の裡に求める行為は『自分探しが止まらない』や、同じく速水健朗さんの『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)に描かれた、作務衣系ラーメン店、「ラーメンポエム」の世界、ラーメン屋までアーティストorクリエイター志向、って姿に現れているのかなぁと思います。

とまれ、先にも書いたけど、やっぱりこういう動きは(その下地はずっと前に始まったとしていても)80年代からなのかなぁ。80年代初頭、何らかの“底”が抜けてしまったのでしょうか。
「島宇宙化」はたぶん、「歴史」に対しても起こっていたような気がします。本書でも指摘されている「断絶」。

あちこちで大衆社会が生まれ、消費社会が立ち上がり、新中間大衆がどっとやってきて、やがて焼けたフライパンの上で、歴史が終った、お金儲けはゲームだ、ネアカが一番、グルメが最高、ブランド大好きと浮かれ出す。
(中略)
その先に、私の国がある。薄くスライスされた、いま、ここ、というだけの社会。新しくなることは豊かになることで、豊かになることは過去から自分を切り離すこと。
(中略)
世界の、憂鬱な先端。(吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文春文庫版)45-46p)

だなぁ、と。薄くスライスされた「いま・ここ」というだけの社会。
もちろんそれはこの「消費社会」が発展していくため必要だったのでしょうが。
しかし、残念ながら、そういう生贄を差し出して発展してきた「消費社会」も大きな転換点を迎えているようであります。「失われた20年」とか。

ほんと、どうなるのかしら?消費社会は終わるのか、それとも一息ついただけなのか、あるいは新しい社会の基調(?)が表れてくるのか。このまま人類は衰退するのか、まだまだ繁栄するのか。いや、ワカラナイのだけど。

最後になりますが、あたしはどっちかというと「不思議ちゃん」派かなぁ。いやまったくおにゃのこには縁がありませんが。
ARTiSMさん主催のイベントや、浅草橋の夜想ギャラリー、パラボリカ・ビスさんにちょくちょくお伺いしますし。そこの集まる女の子たちは「不思議ちゃん」系かと思いますので。

いや、どうも『ギャルと不思議ちゃん論』の感想は上手く書けません。
それだけ豊富すぎる内容ですし、ここにまとめる事が出来たのも自分が思うことのごく一部です。とっ散らかってますが。

どうも上手く紹介できなくて、機会がありましたら読んでみてくださいと言うしかできませんな。
おススメ本であります。

|

« 詩学校の記事 | トップページ | J・A・シーザーコンサート »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 詩学校の記事 | トップページ | J・A・シーザーコンサート »