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2011/10/15

『アーティスト症候群』

『アーティスト症候群 アートと職人、クリエイターと芸能人』(大野左紀子:著 河出文庫)
読了。現代の「アーティスト」ブームをやや毒混じりに分析・解説した本、になるでしょうか?

たまに若い衆なんかの展覧会に行きます、また、ライブハウスでインディーズミュージシャンさんのライブとか楽しんだりします。わたし自身もこうやってブログを書いたり、ささやかながら「表現活動」をしていると言っていいと思います。私はアーティストではないですが、アーティスト界隈にある程度は身を置いてる部分があるかと。
そういったことを楽しむ一方で、そういう人たちを「オナニーだよ」と斬って捨てる言葉も耳にしたりするし、そういう部分にも、限定的ですが、頷く部分もありもします。

その矛盾する部分、ちょっと居心地の悪さを感じますが、その居心地の悪さもまた、私が私の人生を生きていく上で受け入れなければいけない部分かも知れませんけど。
とまれ、そういう居心地の悪い、モヤモヤ部分を考える上で役に立つかなと思って本書を手に取った次第。

まず、本書の目次を紹介するのがいいでしょうか。
こういう構成になってます。

はじめに-一枚のチラシから
美術家からアーティストへ
アーティストだらけの音楽シーン
芸能人アーティスト
『たけしの誰でもピカソ』と『開運!なんでも鑑定団』
職人とクリエイター
「美」の職人アーティスト達
私もアーティストだった
『アーティストになりたい』というココロ
あとがき
文庫版のための長いあとがき

こんな感じ。

「はじめに」で私がアーティストについて「こういう方向で考えたいな」と思っていたテーマが早々にごろんと呈示されます。

何がアートなのかはよくわからないままにアーティストが名乗られるこの時代、「アーティストになりたい」欲望とは、俗世間から一線を画して芸術に一生を捧げようという孤独な覚悟ではない。作品を作りたいという病のような創作意欲でもない。それはつまるところ、人に「アーティストと呼ばれたい」という「被承認欲」なのである。(11p)

おぉ!いきなりですか。身もフタもない。
そこから始まって、現代のアーティスト模様が様々に語られます。

「美術家からアーティストへ」では、かつて「美術家」と呼ばれた美術関係の作品を作っている人たちが、いかに「アーティスト」と呼ばれるようになったかが、歴史的な流れから解説されています。だいたい80年代ぐらいからの流れだそうです。意外と最近なんですね。

「アーティストだらけの音楽シーン」。「美術家からアーティストへ」では、まぁ、タテのものをヨコにする程度の事だったのでしょうが、さらに「アーティスト」と呼ぶ対象が美術家以外にも拡がっていく様子が音楽業界を例に語られています。80年代のMTVブーム、つまり、音楽を音楽そのものだけではなく、ミュージッククリップのような視覚も含めた作品として楽しむようになって、ミュージシャンという枠からアーティストという呼称に変わっていった、ということでしょうか。

「芸能人アーティスト」。アーティストとしても活躍する芸能人を何人か取り上げています。毒を含めて面白く分析して見せる手腕、楽しみました。これで消しゴムハンコのイラストがついてればナンシー関が書いたもの、と言われても信じちゃうかと。

「『たけしの誰でもピカソ』と『開運!なんでも鑑定団』」。アーティストブームの中の代表的なテレビ番組、『たけしの誰でもピカソ』と『開運!なんでも鑑定団』を取り上げた章です。アートをネタにした「誰ピカ」を取り上げるのは解りますが、「鑑定団」を取り上げたのはなんでかな?と最初は思いましたが。

「職人とクリエイター」。職人と芸術家は出自は同じ、それが分化していった、というおはなし。そして、職人系の人がアーティストっぽくするために、「クリエイター」なる言葉が使われるようになった、と。

「「美」の職人アーティスト達」。また一方で、かつては職人と呼ばれていた人たちも、「アーティスト」という呼称の対象範囲の底が抜けることで、「アーティスト」と呼ばれるようになった、と。フローラルアーティスト、ヘア・アーティスト、メイクアップ・アーティスト。

「私もアーティストだった」。毒を交えながら「アーティスト」の世界をなで斬りしていった著者さんですが。そろそろ「じゃあ、あなたはどうなのよ?」というツッコミが入る事を予期してか、自らの軌跡について語っていらっしゃいます。(ここに来るまでに自分が元・アーティストだったことは何度か触れてはいますが)

著者さんは東京藝大のご出身とか。かなり優秀な方だと思います。そして美術の流れに沿い、その文脈との関わりを自覚しながら作品を拵えていらしたとか。(なんちゃってアーティストにはその文脈の知識が無い。だからそもそも関わることすらできないってのが決定的な差異でしょうか)

「『アーティストになりたい』というココロ」は、その、「はじめに」にあった「被承認欲」に正面から斬りかかっています。「アーティスト」を志す動機を3つに分類しています。
ひとつ目は「自分流症候群」(基本をスルーさせる根拠のない自信)。
ふたつ目は「自然体症候群」(死なない程度の毒やエロ-女の子の「私」完結ワールド)
みっつ目は「別格症候群」(格差社会の中のオンリーワン幻想)
わぁ!ミもフタもないよぉ!!

「あとがき」の二〇〇七年師走という日付によると、によると本書のハードカバー?版が上梓されたのは2007年末から2008年最初のほうになるでしょうか。で、2011年3月付けで「文庫版のための長いあとがき」が加えられています。単行本上梓から文庫版までの間の「アーティスト」界隈の変化についてざっと加筆されています。

この部分、私見として、ですが。ひとつは「(面白ければ)なんでもアート」の底が抜けた状態かと。つまり、「情理」だけで動き、「論理」が忘れられている状態。それはまた今日の日本の姿でもありましょうが。「空気」で動いてるこの国。だから、彼らの「情理」を理解できない「他者」からの批判を受け止めることができない。だからサブカル展が中止になったり、ビレバンからエロやアングラ系の商品が撤去される。

かつては「理論武装」という言葉もあって。それを武器に表現の地平を開拓していったのでしょうが。なんちゃってアーティストには美術史に対する知識も、その中で「なぜこういう表現をするのか」という「他者」からの問いに答える「論理」を紡ぐ能力がなくなっているのでしょう。また、情理で動くようになってしまったこの国自体にも、そういう「論理」を理解する能力が喪われつつあるのかもしれません。

そして著者さんは藝大に学び、そういう「文脈」まで踏まえて作品を作ってきた方。そういう状況が歯がゆいのだろうかと思います。

さて、次なる私見、つか本書を通読しての「自分語り」ですが。

冒頭に書いたように、私は「アーティスト」さんたちの展覧会とかライブとか行ったりします。こういう風にブログを書いて「表現」したりします。まぁ、アーティストではないかもしれないけど、アーティスト的なものに近い所に身を置いていると言えるかと。だからこの毒気たっぷりの分析にイタタと感じる部分もあります。
そしてまた同時に、「アーティスト気取り」の人間に辟易させられたこともまたあります。だからこの毒気たっぷりの書きように快哉を感じた部分もまたあります。

やっぱ「イタいなぁ」ってのがせんじ詰めた感想かしら?

もし私が「ほんとのアーティストとは?」と訊かれたら、「作品を作ることが好きでやってる人」ってまず答えるかしら?かなりナイーヴなものの見方と思いますが。で、本書で取り上げられている“アーティスト”ってのは、作品を作る事が好きというより、“アーティスト”な自分が好きって事になるのかしら?それが不純っぽい、胡散臭い臭いを発生させる素になるのだろうけど。やっぱ見方がナイーヴすぎるかなぁと。
いや、「作品を作る事が好き」「アーチストやってる“自分”が好き」という部分、配合割合が違うだけで、ほとんどの“表現者”の中に同居していると思うのだけど。

しかし、「被承認願望」というのは難しいかと。「自分は特別な存在である」と認めさせたがってる、しかし作品を見ると浅薄で拙い、そういう人たちを嗤うのは簡単ではありますし、私もそうしてしまう時があるかもしれない。しかし、彼らのその欲望が、とても切実なものだったら?と思うと。例えばどっかのお偉いさんとか芸能人でもいいけど、もうアーティストしなくてもじゅうぶんその人が“承認”されている立場の人なら嗤ってればいいかもしれないのだけど。でも、他にそういうものを持ってない、それでも被承認願望がとても強い人に対しては嗤ってはいられないと思います(そして、私もそういう人たちのひとりかもしれない)。

かつて、「私は『何者』であるか?」という問いの答を与えてくれた、「被承認願望」に応えてくれた、地縁血縁といったものは、現代、ほぼ崩壊してしまいました。もちろん地縁血縁は人を縛る、自由に生きることを阻害する「くびき」でもあったのだけど。

血縁において「私は何とか家の家長である。外でいっしょうけんめい働いて、一家を支えなければいけない」「私は何とか家の妻である。私は家事全般をそつなくこなし、家族みんなが快適に暮らせるようにしなければいけない」
地縁において「この町内の奴はみんなウチの店の豆腐を食って育ってきた」「オレは町内いち相撲が強いぞ」
そういった「私は『何者』であるか?」の回答を与えてくれたものが現代社会では崩壊し。

そしてマスコミ、後にはネットの発達により、人の見聞は拡がりました。
かつての町内いちの秀才は、全国模試により、その才能は全国で比べるなら後ろの方、ちっとも凄くない、ってことになって。
地縁血縁といったコミュニティが崩壊したという意味では縮小した、逆に、見聞が広がったという意味では拡大した、その世界。つまり、茫漠としてしたなかに自分がぽつんと居るようなそのパースペクティブのなかで、人は生きていかなくてはならなくなって。

その茫漠とした世界の中で、人が「被承認欲求」を満たすためには、何らかの「特別な自分」でなくてはならなくなって。「『アーティスト』になる」ことは、その「特別な自分」になるための一つの方法として、そういう個々人の目の前に拡がる茫漠とした世界に立ち現れてきて。

「特別な自分」でなくてはいられないこと。その切実さ。それは現代人のブクブクに肥大してしまった自我の帰結かと。それを嗤うことはたやすい、「分際を知れ」と警告することは(たぶん)正しい。しかしそういう自我は意識せず知らずに抱え込んでしまったもの。そして、「分際を知り」その肥大した自我を分際サイズにダウンサイジングさせることは、大きな苦痛を伴うことかもしれない。それは時として「死ね」と言われる事と同じ事かもしれない。

だったらお互い内心その構造に気がつきつつ、相互オナニーをして慰めあう、「アーティスト」とその取り巻き、という小さなコミュニティ内の共犯関係に収まってしまったほうがいいのかもしれない。…とも思ったりもするのだけど。
もちろんそれがそのルールでいっしょに遊んでくれない「他者」と出遭った時、不幸が起きるのかもしれない。「文庫版のための長いあとがき」で紹介されている、近年のアート界隈のトラブルとか、最近あった某ラウンジとか、そういう事だったのかもしれない。

まぁそこから「今後の“アーティスト”はどうあるべきか?」なんていう議論も始められるかと思いますが。ここらへんでやめときます。そこまでのレベルとなると正直いってよくわからないし。
あたしも本音を言えば、著者さんが皮肉を込めて書いているような「アーティスト」になってみたいという部分もありますよ。もちろん勉強とかおケイコとか大嫌い。「自分流」で「自然体」で「別格」の人間になってみたいわぁと内心思っておりますよ。ま、無理だろうけどね。

まぁ毒や皮肉も一杯こめられていて、読んでむかつく人もいるでしょうが、ちょっと状況を俯瞰したりいろいろ考えてみたい人にとってはオススメできる本、でありましょうか。
本書を読んでむかついた「アーティスト」は負けかもなぁ。まだやり直せるって事かもしれないけどね。この状況をいかに乗り越えるか考えることができるでしょうし。いや、乗り越える必要は無いかもしれないけれど……

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