『教養としてのゲーム史』
『教養としてのゲーム史』(多根清史:著 ちくま新書)
読了。文字通りゲーム史の本です。世界初の業務用ビデオゲーム『ポン』から、近年の『ラブプラス』あたりまでを扱った本です。
ゲームを語ることは楽しい。
(中略)
しかし、その楽しさは実際にプレイした人々の間の共犯めいた「仲間がたり」と深く結びついている。
(中略)
では、誰もが共有できる「ゲームの教養」はありえないのか。ハードや体験の壁を越えて、フラットな「ゲーム語り」を可能とする体系は構築できないのか、という問題意識が、本書の出発点にある。
(p9-10「はじめに」より)
という「語り口」で、
著者が一冊を費やして見出そうとしているのは、あくまで「ゲームの文脈における発想の進化」の道のりである。一つのハードウェアが創られ、普及し、その上にソフトウェア=プログラムとアイディアが錬られてゲームが作られる。さらに、その作品を起点として新たな道や分岐が現れ、過去から未来へと続く道が織り成されるプロセスだ。
(p12-13「はじめに」より)
という事を語る本であります。
たぶん、いつか、本書で紹介されているゲームが過去の物となり、人々が知らない時代になっても、ゲーム史を調べたい人が読んでためになる本を目指しているのではと思います。
著者の多根清史さんは「クソゲー本」で存じ上げております。「クソゲー」を面白おかしく紹介した各種書籍によく書いていらっしゃる方。
クソゲー本ってそれこそ「しかし、その楽しさは実際にプレイした人々の間の共犯めいた「仲間がたり」」と思ったりしましたが。でもクソゲーってクソゲーっちゅうくらいだから、売れ行きも悪く、プレイした人も少ないのだろうなと。だから未プレイ者にそのゲームを面白おかしく紹介する、できる、って語り口じゃないとそういう本は売れないですな。私もクソゲー本で紹介されているゲームはほとんど遊んだことがありませんし。
そういう方法論を考えると、本書のスタンスもクソゲー本に通じるのかもしれません。
クソゲー本は「なぜクソゲーか」、本書は「なぜエポックとなったか」と。
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