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2011/01/29

アニメ『フラクタル』第3話

ノイタミナ枠の深夜アニメ、『フラクタル』第3話「グラニッツの村」の話など。
のっけからストーリーに触れますので、ネタバレ注意。それと、本稿はしょせんアニメ感想に名を借りた自分語りなので、そのへんよろしくお願いします。

前回ラストでエンリたちに捕まった主人公の少年・クレインとドッペル(フラクタルシステム上の幻影)のネッサが連行された場所は都市の廃墟に造られたグラニッツという村でした。
この世界の人間のほとんどは、「フラクタルシステム」と呼ばれるコンピューターネットワークに脳を直接繋いでいるのですが、その村の人々はその「電脳化」を拒否しているようです。だから、ネッサの姿を見るためにはビュワー、つまり、「電脳メガネ」が必要なようです。

また、フラクタルネットワーク統治下では、ベーシックインカム、つまり、人が生きるのに必要な収入は働かなくても与えられる社会制度が存在しているようですが。しかしその村の人々はそれも拒み、みずから畑を耕し、自給自足の生活を営んでいます。フラクタルは高度な医療も提供しているのですが、その村にはそれもなく、お医者さんのもとに患者さんが行列を作っています。

エンリたちは「ロストミレニアム」という運動に身を投じているようです。「ロストミレニアム」運動とは、フラクタルによる支配を否定し、その破壊をもくろむ運動のようです。その運動は一枚岩ではなく、いろんな団体があるようです。エンリはその一団体のメンバーという位置づけみたい。

彼らは「星祭り」の襲撃を行います。「星祭り」とはフラクタルネットワークを構成する「昼の星」(高高度浮遊サーバ)にお祈りを捧げる儀式のようですが。しかしその本質はフラクタルシステムが人々を洗脳する儀式のようです。

フラクタルシステムに仕える「巫女」たちを遠慮なく射殺するエンリたち。しかし、銃撃戦の中、巫女たちの中にネッサそっくりの少女が見つかります。混乱するエンリたちに乗じ?、反撃する巫女側。銃撃戦は乱戦となり、エンリたちの側にも犠牲者が出ます、そして、祭りにやってきた一般人たちも銃撃戦に巻き込まれて次々と殺されていきます。

その混乱の中、ネッサを封じたブローチをクレインに渡した少女、フリュネが巫女のひとりとして現れて…。
というのが3話のあらすじでした。

3話Bパートでいきなり血腥い展開ですな。銃撃戦でエンリの手下だった「ブルースブラザーズ」の片割れ(ベルーシの方)もあっさりと射殺されてしまいます。終盤まで三人組でコミカルに活躍してくれると思っていたのですが。
もちろんエンリたちもフラクタルシステムに仕える「巫女」たちを、おばあさんとかもいるのですが、容赦なく射殺していってます。そして、祭りにやってきた一般人たちも銃撃戦に巻き込まれて大勢死んでしまいます。

少年冒険活劇物としてギリギリ、いや、一線は超えてしまったかな?

もちろんそれは作り手の「ケレン」なのだろうけど。しかし、越えてしまった以上、それなりの道を進まないといけないのではと。「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」ですな。おはなし的にはお手並み拝見と思ってます。

ネッサそっくりの少女。まぁ、ネッサは彼女の「ドッペル」かもしれません。あるいはただの「外見のモデル」かもしれません。性格とかはどれだけコピーされてるかは解りませんが。あるいはもっと密接な関係、洗脳で抑圧されたその少女の「本当の姿」がネッサかもしれませんが。

逃げ出したフリュネがあっさりとフラクタル側に戻って「巫女」をやってますが。ま、ここらへんは洗脳されてしまったのかなと。第2話で巫女の長らしき女性(CV島本須美)が「きついお仕置きをせねば」と言っていましたし。反抗に暴力、例えば処刑とか幽閉とか拷問とか、で応じる世の中じゃなく、「洗脳」をもって応じる世の中なのでしょうか。
ま、もう脳はフラクタルネットワークと直結されていますし、「星祭り」のように洗脳は容易なのでしょう。って言うかゴーストハック?

ネッサは超高性能アイスブレーカーのようです。つまり、侵入系のハッキングツール。エンリの入ったトイレのコンピューター端末にまで侵入し、エンリをあわてさせます。確かに「世界の鍵」ですな。その気になればフラクタルシステムにも侵入できて、やりたい放題なんでしょう。

フラクタルシステムは築千年を越え、老朽化が著しいようです。フラクタルネットワークを支える「昼の星」(「バルーン」と呼ばれることもある?)も墜落していっていて、たぶん、補充もできてない。「フラクタル」のメンテナンスもまともにできないのは人類が衰退してっているせいもあるようです。

フラクタルシステムによる「洗脳」。他人と深い関わりを持とうとせず、結束した集団を作らず、気ままに生きていく。「無縁社会」の行き着いた、それを人々が受け入れ、エンジョイしている姿。それは穏やかな暮らしを人々に与えていますが、でもそれは滅びへの道のようです。人類も徐々にその数を減じているようですし。そして、フラクタルシステムそのものが維持できないところまでいってる。フラクタルシステムを作った人たちが良かれと思って改変した人々の性格が、逆にフラクタルシステムを終わらせようとしてる。そして人類を終わらせようとしている。

それはたぶん現代日本の似姿なんでしょう。

かつての、昭和40年代あたりまでの「学生運動」の時代。人々が集まってがんばれば世の中は良い方向に変えられると信じていられた時代。
しかし、学生運動は「挫折」し、時代は“個人”の時代へと向かっていって。人々は面倒見てくれる替わりに面倒も見なきゃいけない“縁”を人々は切り捨てていって。個人が自由に思うように生きられるようになった時代。

それは「消費社会」にこの国が“進化”するための“必然”だったのかもしれません。
しかし、それはどこか、若者の“牙”を抜く“体制”側の陰謀だったのかもしれません。
我々はそう仕向けられたのかもしれません。

人々は「“個”の時代」の中、集まって世の中を変えようとする意欲を失ってしまった。
正直に言えば、私も政治活動とかするのダサいって感覚あります。そして、2ちゃんねらとかも集まって市民活動する人々を「プロ市民」とか言って罵ってる。それはただ単に「“個”の時代」への流れというだけでは説明できないんじゃないかな?どこかでそういったものを忌避する気持ちを我々は刷り込まれているのではないかと。

そのおかげさんで。この国の政府はちょうグデグデ状態だけど、それを倒そうという動きもなく、権力にアグラをかいていられる。
ネチズンたちは彼らをミンスミンスと罵っても、彼らは集団化もできず、その替わりになるポリシー、それを実現するための政党を作れずにいる。だから罵る以上のことはできない。

今はとりあえずほとんどの国民が最低限の衣食住は保証されてはいますが。それも現状が続いたらいつまでもつか解らない。
そういう現代日本の写し絵が「フラクタル」世界じゃないかしら?ゆっくりと終わりつつある、でも終わりそうにない「フラクタル」世界。公式サイトのキャッチコピーによると「終われない世界」。それは今の日本の姿どんぴしゃでは?

その今の日本の姿は“権力”の要請だったとして。しかしこの国もゆっくり終わりつつあるのであれば、その上に乗っかってる“権力”もゆっくり終わりつつあるのでしょうが。

しかし、まぁ、このフラクタル社会の“権力”の姿はよく解らないのだけど。“権力”といえば、利権の独占とかあるのでしょうが。権力を握った独裁者がいて、一般人より遥かにいい暮らしを満喫しているとか。そこらへんはよく解らないのですが。「権力のための権力」って自己目的化してるのかしら?

でも、このフラクタルシステムはとりあえず平和な暮らしを人々に約束しています。それはそれでいいんじゃないかと。暴力を振るうのはむしろエンリたち反・フラクタル側です。人々を平然と虐殺していってます。

どっちがいいのかな?

人々が集団化し、ダイナミズムを持っているかわりに、その集団の犠牲になる人も出る社会。
人々がバラバラに暮らし、そのダイナミズムを失い、滅びつつあるけれど、平穏な、誰も犠牲にはならない社会。

私が前に書いた言葉を使えば、「苦痛もある繁栄」と「ハッピーな滅び」。どちらを選ぶか。実は私は後者でももういいんじゃないかとも思っているのですが。

ストーリー原案の東浩紀さんは前者を取るのかな。そういうかたちでストーリーを進めるのかしら。

次回以降、たぶんクレインはフリュネを探しに行くのでしょう。そして、フラクタルシステムが彼女に施した「洗脳」を解こうとするのでしょう。そして、ネッサはその力をもって、フラクタルシステムを破壊するのでしょうか。そのフラクタルシステムを破壊する・しないの究極の選択はクレインの手に委ねられるのでしょう。
そして、実際のおはなしは私のチンケな予想なんて遥かに超えて進むのでしょうが。

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