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2010/12/07

『街場のメディア論』

『街場のメディア論』(内田樹:著 光文社新書)読了。
おなじみの内田樹の「街場」シリーズ。この「街場」シリーズは内田樹の大学でのゼミを元にした本らしいです。ただ、講義録としての面影はほとんど残っていず、評論系エッセイという感じに仕上がってるのですが。

今回内田樹が取り上げたのはメディア論。しかし、メディア論に留まらず、内田樹の指摘はいろいろ眼からウロコの内容になってます、今回も。
なぜなら、本書のの根幹的なテーまは、腰巻にもありますが、
「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である。」(5p「まえがき」より)
ということであるからです。メディアに向けられただけの書物ではない、それはまた我々自身にも向けられた本であるからです。

本書の目次は
まえがき
第一講 キャリアは他人のためのもの
第二講 マスメディアの嘘と演技
第三講 メディアと「クレイマー」
第四講 「正義」の暴走
第五講 メディアと「変えないほうがよいもの」
第六講 読者はどこにいるか
第七講 贈与経済と読書
第八講 わけのわからない未来へ
あとがき
となっています。

第一講あたりは本題のメディア論にすらほとんど入っていません。逆に言えばその前提となる者ですから、重要かもしれません。そして、取り上げている内容において、本書が、近々社会人となる大学生に向けられた講義録が元になってるなと感じさせてくれる部分です。

今時の通常の価値観、あるいは一般的な認識というものによれば、現代は“個”がまずコアになる考え方をするものと思います。

今の行政のキャリア教育の大枠というのができたのは、少し前の中教審答申からですけれど、基本のスキームは「自己決定・自己責任」論と、「自分探し」論です。
(中略)
これは要するに「競争に勝ち抜く人間になれ」ということに尽きたわけです。もっと自己教育しろ、もっと知識や技術を身につけろ、資格や免状を手に入れろ。自己利益を安定的に確保したいと思ったら、もっとまじめに勉強して、がつがつ就活して、ばりばり働け。そういうふうに言う人がたくさんいました(残念ながら、うちの大学にも)。
(中略)
いま支配的な教育観は「自分ひとりのため」に努力する人間のほうが「人のため」に働く人よりも、競争的環境では勝ち抜くチャンスが高いという判断の上に成り立っています。私利私欲を追及するとき人間はその資質を最大化する。隣人に配慮したり、「公共の福祉」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する(嫌々やらされているから)。これが現代日本において支配的な人間観です。
(中略)
でも、やってみたら、そうはならなかった。なるはずがないんです。繰り返し言うように人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適正」に合うことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。
「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。そのことをどうぞまず最初にお覚え願いたいと思います。(27-31p「キャリアは他人のためのもの」)

ここらへんで内田節躍如というところ。まず、“個”が何よりも優先され、「オレがオレが」で着た現代社会にある意味逆行する物言いですが。でもそっちの方が“ただしい”と最近思うようになってきました。
ただ、こういう態度は、それを逆手に利用とたくらむ者がいれば、かんたんに「やりがいの搾取」に持ってこられるのではないかとも思うのですが。

そして今の人々の「被害者面」が基調になってしまった社会。

おのれの無知や無能を言い立てて、まず「免責特権」を確保し、その上で、「被害者」の立場から、出来事について勝手なコメントをする。この「被害者面」が特に目につくようになったのは、この数年です。
(中略)
社会的な資源の分配において、あきらかにフェアでないかたちで差別されている人々が「被害者性」を前面に立てて、「被害補償」を「正義の実現」として主張するのは合理的なふるまいです。でも、自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、「資源分配のときに有利になるかもしれないから」とりあえず被害者のような顔をしてみせるというマナーが「ふつうの市民」にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆる「クレイマー」というものです。
自分の能力や権限の範囲内で十分に処理できるし、処理すべきトラブルについて、「無知・無能」を言い立てて、誰かに補償させようとする人々がそれです。
(中略)
公的な措置によって、私人がその利益を守られたことについては「当然の権利」であるとして無視し、多くの人々の利益を守った公的措置によって生じた「コラテラル・ダメージ」については、被害者の立場から補償を要求する。これが「クレイマー」たちに共通する発想法です。
(中略)
市民社会の基本的なサービスのほとんどは、もとから自然物のようにそこにあるのではなく、市民たちの集団的な努力の成果として維持されているという、ごくごく当たり前のことです。現に身銭を切って、額に汗して支えている人たちがいるからこそ、そこにある。
でも、それを忘れて、「そういうもの」はそこにあって当然と考える人たちが出てきた。「そういうもの」が存在し続けるためには、自分がその身銭を切って、自分の「持ち出し」で市民としての「割り当て」分の努力をしなければならないということをわかっていない人たちが出てきた。それが「クレイマー」になった。
彼らのような未成熟な市民たちが大量に生み出されたことによって、日本の市民社会のインフラの一部は短期間に急速に劣化しました。特に、医療と教育がそうです。どちらも制度的な崩壊の寸前まで来ています。
それは医療と教育という、人間が育ち、生きていく上で最も重要な制度について、市民の側に「身銭を切って、それを支える責任が自分たちにはある」という意識がなくなったからです。市民の仕事はただ「文句をつける」だけでよい、と。制度の瑕疵をうるさく言い立て、容赦ない批判を向けることが市民の責務なのである、と。批判さえしていれば医療も教育もどんどん改善されていくのである、と。そういう考え方が社会全体に蔓延したことによって、医療も教育も今、崩れかけています。
そして、この医療崩壊、教育崩壊という事実にマスメディアは深くコミットしていました。メディアはその制度劣化について重大な責任を追っていると僕は思います。(62-72p「メディアと「クレイマー」」)

ここで「まえがき」にあった「メディアの不調はそのままわれわれの知性の不調である。」というテーゼが立ち上がってきます。「メディアの不調」、われわれの「知性の不調」。それが相互にスパイラル的に進行している現在の社会のありよう。

例えば出版について。出版不況が叫ばれてから久しいのですが。そして、メディアの側の「著作権」をまず全面的に言い立てている被害者面。それは相互補完的にスパイラル化していると。

まぁ、私見もだいぶ入れて書きますが。

まず、メディア側の“著作権保護”キャンペーン。それらは自分達が「不正コピー」の被害者であるとのメディア側の言い立てから始まってますね。「感動が盗まれている」とか。頭がカメラになったキャラが映画館で言い立ててますが。まず、自分達を「被害者」としてしか見ていない。つうかメディアの送り手の人々は皆さん、観客を、隙さえあれば「感動を盗もう」とする人たちとしか捉えてない。

私はこういったキャンペーンを打つなら、俳優さんや女優さんや監督さんが、音楽だったらミュージシャンさんが、「皆さんがお金を払って映画館に足を運んで下さったり、CDを買って下さっているから、私たちは生活ができるのです。そして、皆さんによりよいものをお届けしようと頑張れることができるのです」なんて言って貰えばいいじゃないかと思うのですが。

出版危機についてさまざまな議論をこれまで読んできました。そのすべてに共通するのは、読み手に対するレスペクトの欠如です。正直に言ってそうです。これは出版だけに限らず、すべての「危機論」の語り口に共通するものです。
(中略)
図書館の意義もわかる、専業作家に経済的保証が必要であることもわかる、著作権を保護することの大切さもわかる、著作権が時に書物の価値を損なうリスクもわかる、すべてをきちんとわかっていて、出版文化を支えねばならないと本気で思う大人の読書人たちが数百万、数千万単位で存在することが、その国の出版文化の要件です。
そのような集団を確保するために何をすべきなのか、僕たちはそのことから考え始めるべきでしょう。(127-165p「読者はどこにいるのか」)

そういう近年のメディア側の、「人を見たら泥棒と思え」的な感覚。それはやはり「人々の孤立化」が根っ子にあるんじゃないかしら?
人々が孤立し、「経済的関係」のみでつながっている。そこで取引されるものは「商品」。内田樹が『下流志向』で書いている言葉を用いれば、「空間モデル」ですか。何らかの貨幣を出すと、それに見合った「商品」が即座に出てくる。そういう商取引モデルなら、なるべく少ない貨幣をなるべくよい商品と交換することが「エコノミカル・コレクト」なふるまいでしょう。だったらメディアの与えてくれるもの、書籍とか映画とかゲームとか、無料で手に入るにこしたことはない。

しかし、内田樹は、そういう人々のつながり方がおかしい、と言っているのではと思います。

本書では内田樹は「贈与経済」という言葉を使っていますが。その時はその値打ちがわからないもの、『下流志向』によれば『時間モデル』かな?代価を要求せずに「贈与」されるもの、最初は解らなくても時が経てばそれの値打ちに気づくもの、そういうやり取りがヒトとしての本来の経済活動の本質ではなかったのかと。

それはまた“個”が最優先される今の社会のありようが現代の「等価交換」をベースにした商取引システムになってしまっている、と。そしてそれはわれわれの「知性の不調」を生み出している、と、そういうことなのかと私は理解しているのですが。

「タクシー・ドライバー」で主人公のトラヴィスが言っていたように、現代人は"Morbid Self Attention"に毒されているのではないかと。内田樹にはそのものずばりの『ひとりでは生きられないのも芸のうち』という著作もありますし。

そういう、人は人のつながりの中で人であるという感覚。そういうことじゃないかと私は理解しましたが。

もちろん私は本書をどれだけ理解できたか自信はありませんし、本書にはもっと、メディアの中の人でない人にも有意義なこと、示唆的なことがたくさん書かれています。だから、ここで私が拙く紹介するよりも、本書を手にとって、そして読んでいただきたいと思っています。たぶんここらへんにこの現代社会の閉塞状況を突破するヒントがあると思いますし。

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