煙草のみの自己弁護
10月に増税で煙草が値上がりしてからのおはなし。
増税前の買い置きの煙草が切れてから、1週間ほど断煙してみました。
まぁ、竹熊健太郎さんが書いていらしたような「煙草がまん」感覚だったのですが。
8日間ほど我慢できました。ちょっと拍子抜け。もちろん楽なものではなかったですが。
だって、値上がり前はかなりきついハイライトメンソールを1日1パック強吸ってましたから。
時々咳き込んだり、寝てる間にダースベイダーみたいな呼吸音させてても、いっこうにやめず、一生煙草やめるの無理かなと思ってましたし。
ま、ほんとに、あたしって貧乏性なんだなと。
やっぱり習慣って部分が大きかったかも。ニコチン中毒とかもあるかもしれないけど。ちょっと一息つこうとして煙草、仕事サボろうとして煙草吸いに行ったりとか。
んであとガムとか飴玉はぜったい煙草の代わりにならないと思いました。それは違うと。
んで、1週間はやめられたので、また喫煙者に戻りました。
今は紙巻きは何日かに1度、1~2パック買う程度。それを吸いきったらしばらくは紙巻きはなしでがまん。あと、久しぶりにパイプを再開しました。帰宅して夜、パイプをゆっくりくゆらすと。まぁパイプならそうバカスカ吸わないかと思ってたのですが。休日とかはパイプのチェーンスモーキングをしでかしたり…。
ただ、パイプはほんとまだへたくそです。知人にパイプスモーカーは何人かいらっしゃいますが(おひとりは鬼籍に入られたようですが)。なかなか他の人ができてるようにいい香りがしません。パイプってのは他の人が吸ってるのを脇で匂いを嗅いでると、ほんと、いい匂いがするものですが。私が吸ってるといがらっぽいばかり。たぶん、まだまだせっかちに吸ってるせいかと。パイプはゆったり吸うもの、せっかちに吹かすといがらっぽくなるし、「ジュース」と呼ばれる苦い汁が出ます。まだやっぱりイラチなんだろうなと。
まぁ、煙草の量はだいぶ減ったことになるかしら?とりあえず咳き込んだり、夜中呼吸音がゴロゴロいったりすることもなくなりました。ま、完全禁煙が理想でしょうが。でも、だいぶよくなってるかと。
お酒に関しては断酒より「お酒は適量に」って言われることが多いのに、なんで煙草は吸うか吸わないかの二元論的な言い方が多いのかしら?ここらへんはちょっと不思議。
ま、正直言って私、ここんとこのファナティックな反喫煙には違和感を感じています。
先日、百円ライターが販売禁止になるというニュースを見て驚きました。連中は煙草のみをいちびるネタをほんとに思いつくなぁって。でもやっぱそこまで行ってしまうというのはどこか狂気に片足突っ込んでいるんじゃないかと。そう思ったりもするんですが。
だから、この「世界」に対する違和感表明のためにも煙草は吸い続けたいと思ったり。
なんてね。
このファナティックな反・喫煙感情は人の心のどこから起きているのか、ここでも推論をいくつか書いてみたりしましたが。
ひとつはこの世は人工的な汚染物質に満ち満ちている、と。でも、それらと引き換えに我々は豊かな生活を享受している、と。だから、汚染物質まみれの生活も捨てられない、引き受けなきゃいけない。ある汚染物質の根絶を願うなら、その汚染物質と引き換えに享受している物も諦めなきゃいけない。その二律背反的状況・ジレンマに人は陥っていて。しかし煙草は無くなった場合について想像しやすいものであり、なくなっても自分達の豊かな生活がなくなるわけはないと思える物質、だからことさらに煙草のみを、“他の汚染物質に対する嫌悪も”上乗せした上、攻撃するのでは?
煙草はネイティブ・アメリカン(米大陸先住民)の風習。ネイティブ・アメリカンはアメリカ合衆国によって虐待されてきた人たち。
かたや今の合衆国が世界に対して大きな顔をしているのは、グローバル化を進めていられるのは、彼らの国が「正義」を体現しているという自己幻想によるもの。しかし、合衆国のネイティブ・アメリカン虐待の歴史はその自己幻想を瑕疵するもの。だから、世界にのしている合衆国はのせばのすほどネイティブ・アメリカンの存在を忘れたい。だから彼らの風習である、彼らの存在を思い出させる喫煙もこの世からなくなる事を望むようになった。
「人は差別する動物」である。しかし現代において人種、民族、宗教、身体的特徴、障害といったものをベースとする差別行為はタブーという意識が広まってきた。しかし、人は差別する動物である以上、何か他の差別ネタを求めていた。その差別ネタとして喫煙が導入された。
そのくらいの論考をしてきました。まぁ奇を衒った論考で、どこまで妥当性があるかは解りませんけども。
まぁ、単純にいえば、人は以前より他人にむかつくようになったのではと。原因のひとつは個人の孤立化、もうひとつは密集化にあるのではと。まぁ原因はそういう単純な者なんだろうけど。
そして、私は実は「ファナティックな反・喫煙者」とメンタリティはほぼ同じじゃないかと思ってます。ただ彼らと私の違いは彼らは煙草を憎み、私は煙草を愛しているだけのことじゃないかと。
私もよく他人にむかつき、嫌悪や憎悪を感じます。そして、それを正当化する理論があれば口を極めてそのむかつく他人を攻撃するでしょう。例えば私は香水の匂いをぷんぷんさせてる人が嫌いです。その香水ぷんぷんが何らかの健康被害を及ぼすなんて(ヨタでも)論文が発表されたら、それを根拠に香水ぷんぷんを口を極めて罵るでしょう。
そしてもちろん私が煙草を吸わない人間なら、そのファナティックぶりに気づくことなく、喫煙を攻撃することに加担していたでしょう。それこそ「百円ライター販売禁止、イイ手を思いつくね!」なんて喜んでいたんじゃないかな。
そして、そういう自分のメンタリティをある程度は客観的に見ることができるようになったのも、そういう反・喫煙者のファナティックぶりが目に入ったのも、私が喫煙者だからかと。
そうやって世の流れとはちょっと違った視点が持てるようになればいいなと思ってます。
という方向で私はしばらくは煙草を吸い続けようかなと。
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