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2010/12/24

『村崎百郎の本』

『村崎百郎の本』(アスペクト:刊)読了。
先日殺害されてしまった村崎百郎さんの追悼本だそうです。
ただ、「はじめに」によると、当人がいちばん嫌がるだろうからと、あえて追悼本と銘打たず、『村崎百郎の本』としたそうです。

本書は村崎百郎さんを巡るさまざまな人々の文章、インタビュー、そして、村崎百郎さん当人の文章が収められています。
さまざまな人々、村崎百郎と「中の人」だった黒田一郎さんの同級生から一緒に仕事をしてきた人たち、親交のあった人たちから、面識はないけど愛読者だった人たちまでの文章が収められています。

私はどのくらいの村崎百郎の読者だったかと言うと。

出会いはたぶん「SPA!」の記事だったかと。
そして、単著『鬼畜のススメ』、根本敬との共著『電波系』を読みました。
唐沢俊一との対談集『社会派くんが行く!』シリーズは3・4年くらい前まで買ってたかな。
ただ、それらの本は引越しなどで処分してしまいました。
寄稿されていたらしい『GON!』とかはまったく食指が動きませんでした。あれはちょっと私のテイストとは違う雑誌。ま、あの手の雑誌の記事だとアイドルハメ撮り写真くらいしか興味は沸きません。それも立ち読みでふ~んで済むぐらい。
ま、そのくらいのスタンスの方でした。
トークショーでお見かけしたり、もちろん面識のある方ではありません。あくまで(そう熱心ではない)読者のひとりでした。

村崎百郎さんが殺害されたというニュースを聞いた時、いちばんに思ったのは、「どうしてあっさり殺されるんだ!」という疑問でした。だってああいうものを書いている方。気違いを呼び寄せるだろうことは自覚していたかと。頭の良さそうな方だから、それは十分判っていただろうと思っていたのです。それをあっさりと刺殺されてしまうなんて。来客とかチェックして、細心の注意を払っていると思っていたのですが。

なるべくしてこうなったんだろうかという気持ちと、なんかとても理不尽な気持ち、両方がいっぺんにしました。

本書には面白い指摘がありました。

もしかして、村崎さん自身は実体のない鏡のような人物であり、村崎百郎を語ることそのものが自分自身のことを語ることになってしまうような存在だったのでは、なんてことも思ったりした。(「編集後記」より)

こういう文章、どこかで読んだととおつおいつしてみたら、寺山修司についてどなたかが書いた文章にそのようなくだりがあったのを思い出しました。寺山修司は鏡のような人物であり、相対した人によって違った姿を見せるというような感じの文章。もうどなたの、どの本の文章かは憶えていないのですが。

そして、本書に収められた文章も、村崎百郎氏を語る、というより、村崎百郎を通した「自分語り」的な文章が多いように見受けられました。
本書にも寄稿されている柳下毅一郎氏もご自身のブログで

わかったようなことを書いているけれど、村崎=黒田くんがどんな人間だったのかなんて、ぼくなんかにわかるわけがない。彼が本当に何を考えて、何をやっていたのか、わかっていたのは本人だけだ(いや、本人にだってわかってなかったかもしれない)。ここに文章を寄せている人たちも、みな、外から見て適当なことを言っているだけなのだ。どんなに親しかったとしてもね。ただ、根本さんだけは内側に入りこめているような気がする。まあ、人徳かな。いや因果者だからか。(『映画評論家緊張日記』「村崎百郎の本」より)

とお書きになっています。

じゃあ、私にとって村崎百郎とはどういう人物だったのかな。村崎百郎という「鏡」に映った(一読者に過ぎないけれど)私の思いは何であったのかというと。
それはまず第一に「価値紊乱者」であったと思います。その部分では、自分の中では寺山修司と同じ場所に分類されていたかと。既存の価値観に文字通りウンコを投げつけてくれた方、そして、そのことで私は爽快感を感じていたかと。

善人ぶってその実はエゴイストな連中、弱者ぶって被害者意識にまみれ、その実でかいツラをずうずうしく世の中を渡っていく連中、自分はウンコしないとうそぶきつつ、人にウンコをなすりつけて涼しい顔をしている連中、無意識レベルで自分をごまかし、ダークサイドに目を瞑り、キレイゴトを並べ立てる連中。他人に対する悪意を“正義”を経由してぶつける連中。
そういった連中に村崎百郎はウンコをぶつけてくれていたと思います。

村崎百郎さんは子供好きだったとか。本書で始めて知りましたが。それは何となく解るような気がします。氏は人間の“地”を愛した人間ではなかったかと思うのです。キレイゴトで表面を塗り固め、取り繕う人間を嫌っていたのではと。

人間はライトサイド(=キレイゴト)だけでできてるんじゃない、ダークサイドもあるし、キチガイの部分も持っている。岸田秀の「私的幻想-共同幻想」論を引いても。個人の中でくすぶっている、抑圧された「キチガイ」(=私的幻想)の部分もある、と。それを人は、大過の人はうまくごまかして、取り繕って、キレイゴトで生きているのだろうけど。村崎氏はそれができなかった、看過することができなかった。そうだったのではと思います。その、キチガイ部分も含めて人を愛していたのではと。

子供はそういった、表面をキレイゴトで糊塗する技術を身につける前の“地”の存在ではないかと。だから村崎氏は“地”で生きている子供を愛していたのではないかと思ったりもします。ま、ピント外れの意見でしょうが。

本書には村崎氏の小説「パープル・ナイト」も収められています。村崎氏ご自身も登場する、深夜の徘徊とゴミ拾いをモチーフにした小説なんだけど。とても透明感があって、詩的で、「うつくしい」小説でした。
村崎氏は、キレイゴトで糊塗されていない、ほんとうの「高潔さ」を、汚穢の中で、いや、汚穢の中だからこそ、描けたのではと思います。キレイはキタナイ、キタナイはキレイ…。

ほんとうに惜しい方を亡くしてしまったのだなと思います。

今の時代、またキレイゴトで、どんどんキレイゴトで息詰まってきている時代、また村崎百郎氏のような価値紊乱者が現れて欲しいものですが。いや、隗より始めよ、か…。

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