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2010/11/17

内田樹『街場の中国論』

『街場の中国論』(内田樹:著 ミシマ社:刊)
読了。

内田樹の評論エッセイ、「街場の」シリーズ、好きです。寺山修司の「さかさま」シリーズと似ています。平易な、すっと入っていく文章で、気がつくと軽やかに「世間」や「自分」の中の常識を覆されてる。その感触、好きです。
内田樹は合気道をなさっているそうですが。柔道とかだと上級者に投げられるのはとてもいい気持ちだと聞きます。気がつくとふっと投げ飛ばされてる。ごくごく自然に。寺山修司の「さかさま」シリーズも、内田樹の「街場の」シリーズも、そういうのを知的に味あわせてくれる本です。

日中関係がなにやらかまびすしい昨今でありますが。

ネット上で中国をヒステリックに弾劾する物言いを散見するにつけ、「なんだかなぁ」とつくづくと思います。
なんていうのかなぁ、日本人はやっぱり個人として孤立化していっているのではと思います。そしてそれが国としての態度にもつながっているのではと。

言い換えれば「嫌な隣人(あるいは親戚)と付き合っていく智恵」が欠落しつつあるのではないかと。

何度も書いていますが、かつて日本人は地縁血縁に縛られて生きてきました。“しがらみ”ですな。しかし現代の日本人は地縁血縁から解放されていると。それはこの国が豊かになって、その地縁血縁が“しがらみ”で人を縛る代わりに与えていたセーフティネット機能を必要としなくなってきたと。だから我々は地縁血縁に、つまりしがらみに縛られることなく自由に生きることを選べるようになったと。そう理解しているのですが。

しかし、我々はそのせいで「嫌な隣人(あるいは親戚)と付き合っていく智恵」を失いつつあるのではないかと。

人々が地縁血縁に縛られながら生きていた時代。それを失い過ぎた現代の我々は、それを懐かしがり、例えば昭和30年代ノスタルジーブームとか起きていますが。しかし、そういった“物語”にどれだけそういう要素が含まれているかは解りませんが、地縁血縁の人たちの中に必ずひとりやふたりは「嫌な奴」っていたものです。単純に気が合わないってレベルから、借金を抱えて転がり込んできて、親戚一同で借金の肩代わりをしたという話まで。

そのころの日本人はそういうことも嫌々ながら引き受けてきたと。地縁血縁にある者の義務として。それはそのかわり自分たちも相手からどう思われようとある程度は付き合ってくれる、困った時は助けてくれる、という互恵を担保しているから。

ただ、現代、人はその地縁血縁から離れて生きるようになって。それは我々が豊かになった事がひとつ、また、社会福祉が充実してきたのもひとつ、そのこと自体は決して悪い事じゃなのだけど。
それで地縁血縁のセーフティーネットを頼らなくてもいいことになり、それじゃ嫌な近所付き合いや親戚付き合いを強いる地縁血縁は捨てようって事になったのだと思います。

そして人はそのメンタリティを同じくする仲間ばかりで群れる。なぁなぁで付き合える相手だけを選ぶ。不快を感じたり、それを解消するためにこちらも相手も不愉快な思いをする交渉をやらずに済むような対人関係だけ欲しい。だから“KY”なる言葉が流行ったりするようになったのだろうけど。ま、友だちレベルの付き合いならそれでいいのでしょうが。
でも、国家間のお付き合いはそれでは許されない。

国政や外交で無能な政治家が輩出されてるのもそのせいじゃないかと思います。
その証拠に彼らは「友愛」をお念仏みたいに唱えてるじゃないですか。それこそメンタリティを同じくする“身内”感覚でしか国政も外交もできないってこと。そんな甘ちゃん感覚で国政はともかく外交ができるとは思えないのだけど。

好むと好まざるとに関わらず付き合っていかねばならない相手はいやがおうにも存在する。自分が生きていく上で。相手がなるべくこちらに害を及ぼさないように、できたらこちらの利益になるように、頭を使って付き合っていくしかない。不愉快な思いをさんざんしながらもね。そして、それに対する覚悟もスキルもかつての日本人は持っていたと思います。

それが残念ながら現代の日本人からは失われてしまっているのではないか。だからあの嫌中国のヒステリックな物言いになるのではないか。ぬくぬくと自分を不快にしない対人関係に引きこもっていたいのに、彼らはそこから自分を引きずり出そうとしている。不慣れなのに。という思いがあるのではないかと。

つか自分がまさにそのメンタリティなんですが。だから自分の中をちょっとまさぐってみた結果がこれなんですけどね。

嫌でも付き合っていかなきゃ行けない相手。つまり、自分達とメンタリティの違う相手。たぶん、同じ世界に生きているのだろうけど、世界認識の方法とか価値観とか、我々とかなり違う。その条理によれば、彼らの行動はもちろん“ただしい”。我々の価値観だってせいぜい数十年のものでしょ。70年、人の一生くらいの昔でさえ、武力を持って他国を攻め、自国の版図を拡げることは日本人にとって“ただしい”事でした。もし彼らがまだそのころの価値観でいたら?

もちろん「今はそういう時代ではないよ」とぴしゃりと教えることは大切でしょうが。でも、それ以前に、彼らがそういう条理で動いていることを、我々が“コモンセンス”と思っているものとは違う条理で動いていると理解しないといけない。彼らの条理によれば、彼ら自身は決して無法者ではない。それを理解してから説得を始めないと。

だから、まぁ、まず、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の故事に従えば、まず彼らのメンタリティを理解しなければと思います。彼らのメンタリティの長所と欠点を知り。長所からこちらも利益を得、弱点をうまく突いて物事をこちらの有利に進めればと思います。

つまり、メンタリティの違う相手をいかに理解するかという事ですが。また、こちらのメンタリティも自己分析し、利用すべき長所、隠すべき欠点を知ることも大切でしょう。この部分が「己を知り」ですが。

前置きがえらく長くなりましたが、そういう方向で、指摘にファンな内田樹さんは中国についてどう語るのか興味を持って本書を手に取った次第。

本書の構成は以下の通り。
まえがき
第1講 チャイナ・リスク-誰が十三億人を統治できるのか?
第2講 中国の「脱亜入欧」-どうしてホワイトハウスは首相の靖国参拝を止めないのか?
第3講 中華思想-ナショナリズムではない自民族中心主義
第4講 もしもアヘン戦争がなかったら-日中の近代化比較
第5講 文化大革命-無責任な言説を思い出す
第6講 東西の文化交流-ファンタジーがもたらしたもの
第7講 中国の環境問題-このままなら破局?
第8講 台湾-重要な外交カードなのに…
第9講 中国の愛国教育-やっぱり記憶にない
第10講 留日学生に見る愛国ナショナリズム-人類館問題をめぐって
あとがき

最初に書きますが、本書も内田樹の語り口、中国観だけではなく、「考え方」そのものについても目からウロコの指摘に溢れた本でした。ほんと、武道の達人に上手に投げ飛ばされて宙を舞っているようなトリップ感がありました。

まぁほんと直に本書に当たって欲しいという思いがいっぱいですが、印象に残った部分をいくつか。

まず「中華思想」という考え方。それについては漠然と「中国がいちばんエライ」という中国人の思想と思っていたのですが。
まず最大の相違点は、その思想が生まれた時には、「国家というものは国境という“線”で囲まれた特定のエリアである」という概念は無かったということ。そういった”国家”という物に対する認識が生まれたのは17世紀とか。

だから、「中華思想」には国境という概念は無いそうで。逆に言えば「世界=中国」という考え方でもあって、そう理解すると、「世界はみんな中国(のもの)」と考えるとちょっとぞっとしますが。ただ、基本的な考えはそうであるけれど。それにはグラデーションがあって。
たとえるなら中華に王化の光が掲げられていて、中心部は強く照らされてるけど、離れるに従って光は弱くなりなってる。そういう王化の光が届かない地は化外の地だけど。でも中国的にはそれはそれでいい、特に干渉する気も無い。そして、貢物でも持ってきたら太っ腹なところを示すためにそれ以上のお返しをしてやるよ。ってな感じみたいです。

また、中国が「易姓革命の国」であるという指摘にもはっとさせられました。そう、中国は大昔から民衆の反乱により為政者が倒されてきた歴史があるのですね。欧州でそういった「革命」はぐっと時代が下ってフランス革命が初めて。日本に至っては…、ですな。

だからこそ中国政府は民衆の蜂起の芽があるやと見ると直ちに徹底的な弾圧をしかけてくるのでしょうが。だって民衆の反乱が手のつけられない状態になったら、自らの失脚なんてれベルじゃない、命が危ないのですから。

ただ、それだけの緊張感を持って政治を行っている部分については、変に言えば、逆にうらやましい部分もあります。

今のこの日本のグデグデな政治状況をもたらしている政治家たち。それはやはり「下手を打てば国民に命をとられる」という緊張感がこの国の為政者に、歴史的にまったく醸成されてこなかったのが原因ではないかと思うのです。そりゃ、為政者が怒り狂った民衆に殺される国というのは現代社会においてはアレですが。せめてそういった歴史を持っていれば。まぁやっぱ日本はなぁなぁの情治主義なんでしょうな。

そして、この、ネット上なんかでの中国を罵倒することだけを繰り返す人たちに対しても。

結果的に、「合わせ鏡」のように、あちらには日本を罵倒するナショナリストがいて、こちらには中国や韓国を罵倒するナショナリストがいる。それだけが両国民を代表してメディアに登場する。でも、このふたいろのナショナリストたちは実は「同じ種族」のように僕には思えるのです。
「同族」だからこそ、隣国の愛国者たちが何を考えているか手に取るようによくわかる(と思っている)。よくわかる(と思っている)から、あれほど憎むことができる。「あいつらもオレと同じことを考えているのか…」と想像するから恐ろしくなる。日本が弱腰になったら、「あんなこと」や「こんなこと」を要求するに決まっている。それは想像がつく。だって、それは、向こうが弱腰になったときにまさに「オレが要求するつもりでいること」なんですから。
これは僕たちが外国のことを考えるときに落ち込みがちなピットフォール(落とし穴)です。自分の中にある欲望や憎悪や恐怖をそのまま相手の中にも見て、それを恐怖する。米ソの冷戦時代の心理構造というのは、まさにそういうものでしたね。
この落とし穴を回避するのはむずかしい。(本書12p)

まさにそうですな…。

話を戻しますが、最後に他の内田樹の書物からもうひとつ引用してみます。

個人が塊(マッス)への溶解を拒否し、おのれひとりの単独性を引き受けること、それが「統合」への王道なのである。
(中略)
大衆はこれとは逆にこの「おのれの理解や共感を超えた他者との共生能力の欠如」を特徴とする。
大衆は理解と共感を共同体の基本原理とするものなのである。
(中略)
私たちの時代においても依然として終わりなきテロリズムや血腥い民族的宗教的対立やジェノサイドを駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質 的な者たちだけから成る閉鎖的集団へと共同体を浄化・細分化してゆこうとする欲望である。それは異属の排除であり、自他の差異化であり、他者とのコミュニ ケーションの拒絶である。
人々はある種の公共性の水準を構築し、そこで異属とことばを通わせようとする希望そのものをもう失っている。
彼らはどれほど自他を隔てる亀裂が深く、架橋不能であるかを言い立てことに理知的・情緒的リソースを集中させている。
現代においては「内輪」における親密感、一体感が過剰になると同時に「外側」に対する排他性・暴力性も過剰になっている。このふた色の過剰をオルテガは「野蛮」と呼んだのである。
(内田樹『知に働けば蔵が建つ』(文春文庫)78-94p「貴族と大衆」)

中国にしろ、日本にしろ、どうも破滅に向かってるっぽい気がするという意味においては同じだなぁ…。まぁ栄枯盛衰ってのはあるものだけど。

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