苺樂團と廻天百眼
土曜日は池袋のLive in ROSAへ。
廻天百眼さんとストロベリーソングオーケストラさんのお芝居二本立て興行、「苺樂團と廻天百眼」を見てきました。
今回の公演、行こうかどうしようか迷ってました。日曜日は三上寛さんの詩学校もあるし、体力的に二日続けてはどうかなと。
まぁほんと、直前になってやっと行く決心がついて。
秋葉原で用事を片付けて(いや、片付かなかったけど)、池袋へ。
最初が廻天百眼さんの『夢屋』。
夢屋に夢を売りに来たセーラー服の少女のお話。
アングラっぽい、と言えるかなぁ。長台詞、割り台詞で見得を切る。そんなとこ。
7年くらい前、萩原朔美さんの寺山演劇に関するトークショーを拝見しましたが。
萩原朔美さんが一般演劇に対する寺山演劇の特徴として指摘されたのが、一般の作劇術として欠かせない対立構造が寺山演劇にはない、しいてあるといえば、過去と現在の対立構造。そして、寺山演劇は寺山修司のモノローグの割り台詞ではないかということでした。
対立構造。それによって進められる「ストーリー」。それが普通のお芝居。
その長台詞はストーリーを進めるのではない、萩原朔美さんが指摘されたような構造をしている、と思うのですが。
それがアングラ演劇の一般的構造かどうかは解らないのですが。
全体としては廻天百眼さんの「『夢と現実」論」という構造のお芝居だったと思います。
お芝居というメディアを用いた「○×」論。
そう考えると、なんていうのかな、学習漫画っぽい感じもありますな。
続いて苺樂團さんのお芝居。『家庭の医学』とか。
禁書の時代、お上の認めた国威高揚の本だけが認められ、小説とかはぜんぶ禁書になってる時代。
表向きはお上の認める本を書きつつ、地下では面白本を書いている背中先生のおはなし。
こちらはメタな入れ子構造。お芝居がお芝居であると自覚しつつ進んでいく。
ここらへんもアンダーグラウンドっていうか、ヌーベルバーグっぽいですな。ヌーベルバーグ、あまり知らないけど。
ここらへんの「自覚性」はオタクカルチャーの流儀にもあるような。虚構を虚構と自覚しつつ、メタに遊ぶって部分が。
この、「禁書の時代」という設定が、昨今の「非実在青少年」を巡るアレコレにも絡んでくるかもです。
苺樂團さんはもともとバンドさんだし、バンドも舞台上に配置しての音楽劇。
楽曲にはなんかシーザーさんっぽい感じもするのもありました。
という方向で、お芝居2本立てを楽しんで帰宅。
しかしやっぱ体力・精神力的にいっぱいいっぱいでした。
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