« アングラ喫茶★東京 奇跡の復刻版 | トップページ | 久しぶりに母檸檬さん »

2010/06/17

内田樹『街場のアメリカ論』

『街場のアメリカ論』(内田樹:著 文春文庫)
読了。

どうやら内田樹の著作、「街場の~論」ってのがシリーズみたいにあります。
寺山修司の「さかさま~」シリーズみたい。

私は高校時代、寺山修司と出会いました。『さかさま世界史』(英雄伝のほうか怪物伝のほうかは忘れましたが)が最初に買った寺山修司の本。それから「さかさま~」シリーズのエッセイ集をいろいろ読みました。
既存の価値観、評価というものを、違った視点、筆先のアクロバットで鮮やかかつ軽やかにひっくり返してみせる寺山修司の「さかさま」シリーズは、鬱屈した高校生活を送っていた私にとって、一服の清涼剤でした。

内田樹のエッセイも同じ、既存の価値観や評価、物の見方というものを鮮やかかつ軽やかにひっくり返して「そーだそーだ」と納得させる、目からウロコを何枚も飛ばしてくれる、その書きようが大好きです。

で、今回は『街場のアメリカ論』。
まず目次から紹介しましょうかしら。

まえがき-自立と依存
第1章 歴史学と系譜学-日米関係の話
第2章 ジャンクで何か問題でも?-ファースト・フード
第3章 哀しみのスーパースター-アメリカン・コミック
第4章 上が変でも大丈夫-アメリカの統治システム
第5章 成功の蹉跌-戦争経験の話
第6章 子供嫌いの文化-児童虐待の話
第7章 コピーキャッツ-シリアル・キラーの話
第8章 アメリカン・ボディ-アメリカ人の身体と性
第9章 福音の呪い-キリスト教の話
第10章 メンバーズ・オンリー-社会関係資本の話
第11章 涙の訴訟社会-裁判の話
あとがき
文庫版のためのあとがき

解説 町山智浩
といった按配。

もともとは内田樹が大学で「アメリカン・スタディーズ」という演習をやった時の講義録を元に起こされたものだそうですが。かなり手が入っているらしく、読んで直には講義という感じ、語り口調ではありません。

日米関係について。日米関係はアメリカ嫌悪期とアメリカべったり期が交互に現れて、その中間という事がないというのは日米関係について論じた言説に良く現れる指摘ですが。
その原因について、岸田秀は「日本がアメリカにレイプされ(るように開国させられ)たから」と論じています。だから、アメリカ憎しの時期とアメリカべったりの時期が交互に現れ、その分裂症的状態はその中庸に統合されることはない、と、統合失調的であると。

この説明も若干解りにくいのですが。ただ、その経験がトラウマ化していれば、つまり無意識に存在して意識下に現れないのであれば、日本人はそれを意識できず、つまりこの岸田秀の論さえ理解できず、それに振り回されてしまうのでしょうか。
トラウマってのは一般的には「ものすごく嫌な記憶」というような意味での使い方をされますが、本来の心理学や精神医学の用語における定義では、あまりのおぞましさに無意識下に閉じ込められ、決して思い出すことのできない記憶。しかし、それは意識下に潜在して、意識に影響を与える記憶、になるのだそうです。潜水艦に見えないまま攻撃を受けるような感じかな?つまり、トラウマってのはほんらい思い出すことすらできない記憶だとか。

この件について内田樹は。

「どうして日本はこんな国になってしまったのか?」という問いを系譜学的にたどってゆくと、明治維新まで遡る。そして、明治維新まで遡ってみてはじめて、日本近代百五十年余というのは最初から最後まで、ペリー来航からグローバリゼーションまで、みごとに一貫して「対米関係」を機軸に推移してきたのだということに思い至ったのである。
日本のナショナル・アイディンティティはこの百五十年間、「アメリカにとって自分は何者であるのか?」という問いをめぐって構築されてきた。その問いにほとんど「取り憑かれて」きたと言ってよい。
(中略)
私たちのアイディンティティを支えるのは、その他すべての点が同じであるにもかかわらず、そこだけが違うような「一点」を析出してくれるような他者なのである。
私たちはそのような他者を渇望している。「私はあなたとは違う」と言って排斥するためにのみ召喚される他者を。
日本にとってそのような理想的他者は江戸時代まで華夷秩序の「虚の中心」としての中国であった。
(中略)
十九世紀に入って、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱によって清朝は音を立てて瓦解した。
(中略)
幕末の危機とは、それまでの牢固として存在してきた「日本らしさ」が脅かされたということではなく、「日本らしさ」というそれまでに考えずにすんだ主題が浮上してきたということである。「ロール・モデルとしての清朝」の没落に際会して、ナショナル・アイディンティティをどう基礎づけたらよいのかがわからなくなったということである。
まさにそのとき一八五三年にペリー提督の砲艦が浦賀に来航する。おそらくこの瞬間に、日本人は千年来の「ロール・モデル」であった清を見限り、「私たちが『それではない』ことをアイディンティティの基礎づけとする他者」として、太平洋の彼方の国を選んだ。日本人はそのようにして一八五〇年代に「国民の欲望の対象」を中国からアメリカにシフトした。そして、そのシフトは無意識的に行われた。日本が「他者」を中国からアメリカに切り替えたことを、当の日本人も気づいていなかったのである。
というのが私の(すごく乱暴な)日米関係の起点的仮説である。
(中略)
日本は以来百五十年、アメリカを欲望してきた。
それはヘーゲル的に言えば「アメリカに欲望されることを欲望してきた」ということと同義である。
日本の近代化、植民地主義的侵略、太平洋戦争、日米同盟という歴史に伏流しているのはこの欲望である。
(9-16p「まえがき」)

ま、戦争までやっちゃうとはなんてツンデレ!と思ってしまいましたが(ヤンデレでもあるかも)。でも、そのあと、手のひらを返したようにアメリカ追従に切り替わってしまったのはやっぱりツンデレだなぁと思います。
「無意識」というのはもちろん用心しないといけない論法ですが。

あまり知られていないことですけれど、どこの国でも「食品」にかかわる運動は強い政治性を帯電します。(中略)
これは使い方次第ではかなり危険な思想だと私は思います。
ひとつは強い排外主義をもたらしかねないこと。(中略)同じ食べ物を食べている人間には強い親近感を覚え、自分が食べ慣れないものを食べている人は「ゴミ」を食べているように見える。そういうものです。
もうひとつは、文化の本質的な均質性・雑食性を看過するようになること。(中略)
私たちが「伝統」とか「固有の」とか思っているもののかなりの部分は伝統的でもオリジナルでもなく、ちょっと前にどこからか入ってきたものです。
(69-70p「第2章 ジャンクで何か問題でも?-ファースト・フード」)

以下は私の暴走的思弁ですが、私の見るところ、アメコミのスーパーヒーロー物語は、ある設定を共有しています。それは「理解されない」ということです。
(中略)
自分たちはこうやって悪を倒して、世界に平和をもたらしたのに誰も感謝してくれない、というのがアメリカのサイレント・マジョリティの切なる声なんだろうと思います。その満たされない不満がアメリカのアメコミ映画に恥ずかしいくらいあらわに噴出しています。(85p-87p「第3章 哀しみのスーパースター-アメリカン・コミック」)

戦後の日本型アニメ・ヒーローはアメコミの場合と同じく、ほとんど同じ説話原型を繰り返しています。恥ずかしいくらいに同じ話。どんな話だかわかりますか?
それは「無垢な子供しか操縦できない巨大ロボット」という物語です。
(中略)
それは巨大でメカニカルな「モンスター」は無垢な「心」が入っているときだけ正しく機能し、「心」を失うと暴走してしまう、というものです。
これって「何の話」でしょう?
ここには戦後日本人が幻想的な仕方で処理しなければならなかった二つの「ねじれ」が入り混じっているように思われます。
二つの「ねじれ」とは、ひとつは日本の「呪い」であるところの自衛隊(軍国主義的なもの)と憲法九条(戦後民主主義的なもの)の「ねじれ」。もうひとつはアメリカと日本の「ねじれ」です。それを物語的に解決するのが「巨大ロボット」説話群なのです。(89-90p「第3章 哀しみのスーパースター-アメリカン・コミック」)

こういうほんと面白くて目からウロコが飛ぶ指摘は「内田節」と呼んでいいものではないかと。

「第6章 子供嫌いの文化-児童虐待の話」も興味深い指摘でした。

児童虐待についてはアメリカには長い歴史があります。
起源は清教徒たちが新大陸に移住してきた時代にまで遡ります。すべての人間は生まれながらにして罪人であるとするキリスト教の原罪思想はとくに清教徒においては強いものでしたから、子供は生まれながらに「純真」であるとか「無垢」であるという子供観はここには入る余地はありませんでした。むしろ子供を殴って肉体から悪を追い払うことは、宗教的に容認どころか推奨されていたのです。(142p「第6章 子供嫌いの文化-児童虐待の話」)

そして、西欧には「子供嫌いの文化」が伏流していると。アメリカもそれを受け継いでいると。
そして、その、「子供嫌いの文化」という流れで存在している「子供嫌い映画」として、『ホーム・アローン』シリーズ、『チャイルド・プレイ』シリーズ、そして、『チャーリーとチョコレート工場』も挙げられていました。
そうか、『チャーリーとチョコレート工場』もか。確かにあの作品に出てくる子どもたちはチャーリーを除いて小憎らしくて、ワガママで、酷い目に遭いますな。そう読み解けるのか。

そういう条件で「少子化」を考えるのも意味のあるアプローチかもしれません。

よく、アメリカじゃ富裕層はアスレチッククラブに通って食事にも気を使ってるからスリム、貧困層は運動もせずカロリーの高いものばかり食べているからデブになるって言いますが。

「完璧な身体」を追及する人たちも、異常肥満の人たちも、身体を愛していないし、身体に敬意を払っていないという点では同じ種族だと私は思います。
(中略)
ただし、アメリカ人の肥満にはもうひとつ切ない事情があります。それは、肥満が社会的な記号の一種として現に機能しているということです。
(中略)
「豊かな文化資本を享受できない社会階層の怒り」を表現するためには、豊かな文化資本を享受できない社会階層にステレオタイプなふるまいを演じて見せるしかない。
これこそ「アメリカの悲劇」だと思います。
だから、低所得者層の人々はジャンク・フードをむさぼり食って、TVの前でいじきたなくポテトを齧り、ビールを呑んで、二百キロの体重を誇示することをほとんど制度的に強いられているわけです。肥満することは、彼らが豊かな食文化から疎外され、栄養学的知見から疎外され、効果的にカロリーを消費するスポーツ施設へのアクセスから疎外され、カウチポテト以外の娯楽を享受する機会から疎外されているという「被差別の事実」を雄弁に伝えるほとんど唯一の有意な社会的記号だからです。(201-204p「第8章 アメリカン・ボディ-アメリカ人の身体と性」)

そうか!私がデブなのも世の中に対する無意識の抗議なのね(爆)

とまれ、なんか長々と引用しましたが、ほんと、内田樹の「さかさま思考」には目からウロコが飛びまくり、溜飲が下がりまくり、そして色々考えさせる部分が他にもたくさんあります。
ぜひご一読を。

|

« アングラ喫茶★東京 奇跡の復刻版 | トップページ | 久しぶりに母檸檬さん »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« アングラ喫茶★東京 奇跡の復刻版 | トップページ | 久しぶりに母檸檬さん »