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2010/03/12

「反捕鯨」も文化である

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/100308/tnr1003081311008-n1.htm
【アカデミー賞】長編ドキュメンタリー賞は日本のイルカ漁隠し撮りの「ザ・コーブ」(MSN産経ニュースより)

「ザ・コーブ」問題は、もう隠し撮りされた時点で日本側の負け確定だと思ってます。こそこそやってると思われてしまったと。「鯨や海豚を獲って食べることはは日本の食文化である」といくら声高に主張してもね。最初の段階で堂々と取材させとけば。

「ザ・コーブ」の映像は見たことがないのですが、どうせセンセーショナルに描いてあるのでしょう。現代の最先端の食料生産現場を描いたドキュメンタリー、「いのちの食べかた」みたいに、屠殺シーンも淡々とストイックに描いているのとは真反対なのでしょう。
「ザ・コーブ」の日本上映が中止になったそうですが。それもやるべきじゃなかった思います。日本公開が中止になれば連中は「弾圧だ」とさらに勢いづくだけでしょう。堂々と公開させればよかったのに。私は見に行きませんけど。

何で欧米人があれだけ海生哺乳類を偏愛するようになったのかというと、どうやら聖書の「ヨナ書」の影響のようです。「ヨナ書」(あるいは「イオナ書」)は読んだことがありませんが。とりあえずWikipediaで調べてみましたが。

「ヨナ書」は、もともとは旧約聖書を構成する文書のひとつとか。

イスラエルの民、ヨナという人物が神の命令によって、神の預言をイスラエルの敵国のアッシリアの首都・ニネヴェの人々に伝えるために遣わされます。ニネヴェの人々が犯した罪のため、神はニネヴェを滅ぼすと。
しかし、敵国アッシリアに向かうことを怖れたニネヴェは船を反対の方向に向けると。それを見た神は船を嵐に遭遇させて。その神の怒りを鎮めるために、ヨナは海に放り込まれるのですが。

ヨナは神が遣わした大きな魚に呑みこまれ、3日3晩そこで過ごして、陸に吐き出されます。悔い改めたヨナはニネヴェに向かい、神の預言をニネヴェの民に伝えます。
ニネヴァの民が神の怒りに触れていて、神がニネヴァを滅ぼすつもりなのを知ったニネヴェの民は悔い改め、悔い改めたニネヴェの民を見た神は、ニネヴェを滅ぼすことをやめる、と。

「ヨナ書」はイスラエルに敵対するアッシリアの民を神が助けるということで、旧約聖書(ユダヤ教)における選民思想を否定している、と。また、いったんニネヴェを滅ぼすと決めた神が悔い改めたニネヴェの民を見てニネヴェを滅ぼすことをやめるということが、「神はいちど決めたことも改める」という神理解になる、と。
そして、ヨナが巨大な魚の腹の中で過ごした3日3晩が、イエス・キリストが死んでから復活するまでの3日間と対応することから、イエス・キリストの復活と関連付けられている、と。
このあたりがポイントみたい。

この「大きな魚」ってがあちらの認識では鯨で。だから西欧キリスト教文化圏では鯨や海豚なんかの海洋哺乳類を偏愛している、と。
知識としてはそのリクツは理解できるけど、どれだけ体で解るものか…。
奈良公園の鹿を食べちゃうような感じかなぁ。もちろん私は奈良公園の鹿をそうはありがたがってないのだろうけど。

もちろん米国なんかはかつては捕鯨が盛んで。
米国が日本を開国させたのも、捕鯨基地が欲しいというのがその動機のひとつだったとか。
ま、そのころは鯨猟の様子とか、本国の人は知る由もなかったから、反捕鯨の機運も起こらなかったのかもしれないな。

英語とかは肉とその原料は言葉を変えてるし。牛なら生きてる時はbullなりcowだったのが、肉になるとbeef、豚だとpigがpork。家畜とそれを屠殺して得た肉で呼び名が違うってのは、生きてるときと屠殺して肉になったものを別物として認識するためだと思うし。
彼らにとって捕鯨の、鯨を殺す現場を目にしない限り、海を泳いでいる鯨とそれを殺して得られた品物を別物と認識できるのでしょうし。

日本語なら鯛や平目は魚屋の店頭に並んでも鯛や平目だし。そういう機微もまた解らないと思うのですが。
もちろん米国の当時の捕鯨は肉のためというより鯨油のためとかだったから、動物を殺して得られると習慣的に解る肉は目にしなかったから、さらに自分たちが「大きな魚」を獲ってるという意識は現場の人間以外にはなかったかも。

とまれ、欧米キリスト教文化圏にとって(さらに言えばヨナ書はもともとユダヤ教の旧約聖書にもある話だし、コーランにも同じような話があるから、ユダヤ教文化圏、イスラム教文化圏にとっても)、「神様の使い」の「大きな魚」を殺している日本人は許しがたいことなのでしょう。
それは彼らの民族的・宗教的アイディンティティとわかち難く繋がっていると。

だから、「鯨・海豚漁は日本の文化」という主張は彼らの前にはまったく無力かもしれません。彼らのアイディンティティを侵しているのだから。
「文化の多様性を認めろ」という論法が有効なのは、ほんの一握りの、そういう物言いが理解できる人たちだけかもしれません。

もちろん私は捕鯨廃止論者じゃないけど。捕鯨を続けて、食卓に鯨肉が並ぶのはいいことだと思っていますけど。でも、捕鯨存続はかなり苦しい戦いになるのではないかと。
どういう風にやればいいかアイディアは持たないのですが。

宗教が絡んでいるのは厄介ですな。宗教は拡散していくのがその本性ですから。つまり、宗教の「教義」ってのはこの世を統べる普遍の真理ですから。絶対的なものですから。だから、相対的な考え方を受け入れることは根本からできないはず。日本人は「本地垂迹説」なんてアクロバティックな論法を発明できましたが。
そして宗教が絡むと人はたやすく血で血を洗う争いに向かいますし。

またいっぽう、日本がこれほどまでかたくなに捕鯨にこだわるのかも考えたのですが。

だいたい南氷洋の捕鯨なんて日本の伝統でも文化でもないでしょ。南氷洋で日本が捕鯨を始めたのは1934年とか。もちろん戦後の食糧難の時代にあって、鯨肉は日本人にとって大切な蛋白源でしたが。

これは日本が開国させられた理由のひとつに捕鯨基地の提供があったせいかと思います。

岸田秀によると日本は米国に無理やり開国させられたトラウマを抱え込んでいるそうです。
それはちょうど強姦されるような感じ。
だから日本人は「あれは愛をもって抱かれたのだ」と信じたい部分と、「あいつは私を暴力で犯した!」という恨みの部分が統合されないまま、交互に対米感情に現れているのだと。

だから、鬼畜米英として米国と無茶な戦争を起こした時代もあれば、米国ずるずるべったりだった時代もあって。その中間のバランスの取れたスタンスがとれなくなってる。

そのトラウマとなった「開国」の大きな理由のひとつが「捕鯨」であったと。
だから、日本は頑なに捕鯨を続けることにこだわっている、と。トラウマの原因となった開国の記憶のために。この国をレイプした相手の、その原因となった行為を繰り返す強迫観念。

我々は近年「嫌な記憶」という意味で気軽に「トラウマ」という言葉を使いますが。本来の意味での「トラウマ」は意識に出すこともできない、無意識下に封印された深い心の傷だそうです。それをふたたび意識下にひっぱり出し、それと対峙させることが精神療法のひとつともなってるぐらい。

だから、表面的には、捕鯨を続けることを、「日本の食文化を守るため」と言い、また、欧米が捕鯨をやめさせようと圧力をかけてくるのに対して、「連中は鯨食をやめさせて牛肉を売りつけたいのだ」と理解する、トラウマに触れることを回避するために。今では鯨肉の消費量も微々たる物で、牛肉の消費を圧迫するとは思えないのですが。

そしてポスト・モダンの時代。すべてが相対化されて「大きな物語」が喪失されつつある時代。
だから、反捕鯨を主張する人たちは、その「大きな物語」崩れ行く現代において、「大きな物語」として反捕鯨を取り上げたがっている、と。
また、反・反捕鯨を主張するわが国も、「大きな物語」として反・反捕鯨を使いたがっていると。
だから相互に主張して譲れないと。そういう部分もあるのではないかと思います。

…とまぁ、こう論考してみたんですが。どうですかね?

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コメント

>だいたい南氷洋の捕鯨なんて日本の伝統でも文化でもないでしょ。
普通に考えればおっしゃるとおりですよね(^^;
距離を置いて冷静に眺めると、やっぱり「どっちもどっち」という結論に落ち着きますね・・
反捕鯨団体の妨害騒動に対し、NZ大使館前で右翼団体が抗議行動をしていましたが、「米国に無理やり開国させられたトラウマを抱え込んでいる」と解釈すればすんなり理解できます。ついでにいえば敗戦のトラウマもセットでしょうか・・

投稿: ネコ | 2010/03/16 02:37

◎ネコ様
ほんと、グローバル化というものは相互理解を深めるより、看過し難い他国の風習を目にしてしまい、対立を深める結果となるもののような気がします。

もし日本人が、日本人独自でこの問題を考えるとしたら、少なくとも自分たちだけは「文化の多様性」を理解し、認める人たちであろうと考えることではないかと思ってはいるのですが。

しかし、そう思いつつも。

先日、NHKで、アマゾン流域に暮らすヤノマミ族のドキュメンタリーを見たのですが。彼らには嬰児殺の風習が残っているとか。
それを「民族の多様性」と呼んで「アリ」と思えるかどうか、思っていいものかどうか、ちょっと考え込んでしまいました。

もちろん彼らの嬰児殺の風習は、彼らの現在の秩序を守るために不可欠なファクターのようです。村の人口増は即食糧不足に繋がるし。

もちろん西欧的な秩序を彼らに与えるのも、つまり、嬰児殺の風習をやめさせ、その代わりに人口爆発を防ぐための避妊や、人口増に対処するために農業技術を与える。もちろん彼らの文化はそれによって大きく変わるでしょうが。そういう道もあるかと思いますが。

それがいい事か悪いことかは解りません。

そういうことをついつい考えてしまいますね。

投稿: BUFF | 2010/03/16 11:04

開国のトラウマなんてないですよ。
ただ捕鯨によって開国したのは原因の一つでも
それがトラウマか?と言えば誰もトラウマに思ってないでしょ。植民地にされたわけでもないし。
そもそも欧米の価値観にあわせることが世界の価値観なんですかね?それはかなりの欧米コンプレックスなのではないですか?
宗教の問題でもない。ノルウェーでも捕鯨してるんですよ?
問題は彼らが意地になって価値観の押し付けをしてくることです。捕鯨によって鯨を食べることは日本の食文化です。例え南極で捕鯨しようとも日本の食文化であることは変わらないですよ。
アメリカのイヌイットもそうでしょ?
問題はそこじゃないんですよ。
彼らの日本コンプレックスも理由のひとつでしょ。
欧米諸国は理屈で日本に勝てません。
だから日本の発言をいつもさえぎって発言させないことが多いのです。かれらは日本に負けてるんです。
それが現実。いい加減に欧米コンプレックスから抜け出しましょうよ。日本はそこまでバカじゃないですよ。

投稿: ai | 2010/04/13 00:29

ai様
ここでai様が主張されているその物言い、それがこの国のトラウマのありようの顕著な例であるといえるのですが。(お気を悪くされたら失礼)

「トラウマ」ってのは「無意識領域に抑圧された、当人には自覚できない、しかし意識下の行動に影響を与える“心の傷”」であるので、詭弁のネタにされやすいという部分は認めます。本稿も詭弁かもしれませんけれども。

投稿: BUFF | 2010/04/13 13:47

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