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2009/11/26

内田樹『下流志向』

『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』(内田樹:著 講談社文庫)
読了。

本書は内田樹さんの行った「学びからの逃走、労働からの逃走」という講演会とそのあとの質疑応答をまとめたものだそうです。トータルで5時間くらいの講演会だったとか。
タイトル通り、現代の若者たちの「学びからの逃走、労働からの逃走」を「下流志向」というキーワードで語った本です。

内田樹はその傾向を怠惰ではなく、積極的な「逃走」として捉えます。

僕はこの「学びからの逃走」は単独の現 象ではなく、同時に、「労働からの逃走」でもあると考えています。この二つは同一の社会的な地殻変動の中で起きている。「学ぶこと」、「労働すること」 は、これまでの日本社会においてその有用性を疑う人間はおりませんでした。もちろん、まじめに勉強しない人間や勤労を忌避する人間はいつの時代にもおりま したが、そのような行動が社会的に低い評価を受けることは本人も十分に自覚しておりましたし、それがもたらすネガティブな結果も覚悟しておりました。学ば ないこと、労働しないことを「誇らしく思う」とか、それが「自己評価の高さに結びつく」というようなことは近代日本社会においてはありえないことでした。 しかし、今、その常識が覆りつつある。教育関係者たちの証言を信じればそういうことが起きています。
学習と労働について、これまでとは違う考え方 をする新しいタイプの日本人、新しい世代集団が今生まれつつある。これはいったい、どのような歴史的文脈から生み出されてきた現象なのかということ、それ が第一の論件です。このまま若い人たちがぞろぞろと学びから逃走し、労働から逃走した場合に日本社会の先はかなり暗いものになります。この危機にどう対処 すべきか、それに続く第二の論件です。(本書15p)

内田樹は、今の子供たちが「消費主体」としてまず自己を確立してしまっていることが原因だと指摘します。
「消費主体」の行動原則は「等価交換」です。つまり、手に入るものがどのくらいの値打ちがあるのかまず理解できないと「取引」には応じられない。ここでいう 「取引」とは「学び」のことなんですが。しかし、「学び」というのは学び始めた時点ではその価値が理解できない、いや、理解できないからこそ「学ぶ」ので あると内田樹は指摘します。

しかし「消費主体」としてまず自己を確立してしまった子供たちは、価値の値踏みができないことには与しない。だから、子どもたちは学ぼうとしない、と。
そして、彼らに価値の理解できないものを「売りつけ」ようとする教室において、彼らは積極的に反抗的な態度をとる、と。学級崩壊とか起きる、と。「学びからの逃走」が起きる、と。

内田樹はこの「等価交換」システムを「空間モデル」と呼びます。お金を出すとそれに見合った価値の品物が同時に出てくるシステム。これに対して「学び」のような、その時はその値打ちが理解できず、あとになって、つまり時間を経てからその価値が理解できるようなシステムを「時間モデル」と呼びます。
消費社会、市場原理社会は「空間モデル」であると。いっぽう「学び」は「時間モデル」であると。だから教育の価値は市場原理では計れない、理解できないと。

「労働からの逃走」についても同じく、等価交換の原則から考えると労働の報酬は見合わないと彼らは感じ、労働の忌避、つまり「ニート」化すると。
「労働」もまた時間モデルであり。つまり、労働の対価は給与ばかりではない、後になってその価値に気がつく時間モデル、「贈与」というものも含まれていると。自分が労働によって生み出した価値は「給与」と「贈与」の和であり、「贈与」の部分が見えなければ「給与」はいつも労働の対価として見合わない、安いものになってしまうと。
だから、等価交換原則、つまり「空間モデル」しか理解できない今時の若者は労働の報酬はいつも労働に見合わないものと感じられ、労働の報酬は安すぎると感じられ、労働からの忌避、つまり「ニート」化すると。

まぁ本書の主な主張をざっくりとこう理解したのですが、私は。
誤読があったらごめんなさい。

本書には目からウロコが飛ぶような指摘もたくさんありました。

「不快という貨幣」という指摘。教育の現場ではもちろん現金の授受などないわけですが。彼らは何を貨幣として差し出し、等価交換しようとしているかという事で、それは「不快」であるという指摘。そして、この「不快」という貨幣を我々は交換しているという指摘。

ああそうなんだと目からウロコが飛びました。

そう、「不快」こそ貨幣ですな。例えば「寒い」という「不快」があり、それを「不快という貨幣」として、我々はその貨幣を暖房器具や暖衣と交換する。現実の「貨幣」と交換にね。
さすればこの「消費社会」は「不快という貨幣」をどんどん増やす志向を持つということになるのか。人々は「不快」をかきたてられ、その「不快」の解消のために「消費」する。
となるとどんどん「不快」になることがこの消費社会では正しい、エコノミカル・コレクトな感受性であるわけで。

「キレやすい若者」なんてのは、まったく持って正しい消費社会の副産物、ですな。
そして「不快」を表明することもまたエコノミカル・コレクトな心情の副産物、ですな。
満員電車で不快そのものの表情を浮かべる人とかよく見かけますが。そんな表情浮かべても満員電車が快適になるものでもないのに、さらに不快がつのるだけなのに、と思いますが、でもそれは消費社会的には正しいのですな。

そして、その感性の当然の帰結として、我々は自己の欲望の成就を少しでも妨げようとする「他者の存在」そのものが不快となり…。

不快は貨幣として流通する。子どもたちはいったいこの等価交換の原則をどこで学んだのでしょう?
おそらく、この等価交換のやり方を子どもたちは家庭の中で、両親の間で行われる取引のやり方を通じて学んだのではないかと僕は思っています。
子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生のきわめて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に「貨幣」として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。
(中略)
父親が家計の主要な負担者であるという事実は彼が夜ごと家に戻ったときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。ものを言うのもつらげに、不機嫌に押し黙ったままドアを開き、妻や子からの語りかけにも返事をせず、ひたすら自分一人の不快だけを気づかっている様子から、家族たちは彼が無数の不快に耐えて家計を支えているという厳粛な事実を推察することになります。
(中略)
子供から手を離せるようになった主婦たちが家庭内において記号的に示しうる労働とはなんでしょう?
それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。
たいへん悲劇的なことですが、現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。
(中略)
子どもたちも事情は変わりません。(中略)
父や母がそうしているように、十分に不機嫌でありうるということによって、子どもたちは不快に耐えて、家産の形成に与っていることを誇示しているのです。(63-66p)

これで離婚率が上がらない方がどうにかしてますな…。

そしてクレーマーの増加も。つまり、我々は、いかに上手に自分が他者のせいで不快になったか、つまり「被害者」であるかを証明すればするほどこの等価交換の社会では上位に立てる。
さっき私が例で挙げた「電車の中のしかめっ面」もそうですな。自分がいかに被害者であるかアピールすればするほど自分は有利になれる。「不快という貨幣」を手にできる、リッチになれる、と。

また、嫌煙とかもそうかなと思います。以下に自分が「他者という存在」によって不快にさせられたかアピールできればアピールできるほど、「不快という貨幣」をたくさん手にできる。だから、何らかの取っ掛かりを蚤とりマナコで探してる。
しかし「不快という貨幣」はそもそも「不快」だから、たくさん持てば持つほど「不快」になるんですよね。そこらへんのパラドックスが現代社会の生きにくさの原因のひとつかもしれない…。

また、現代社会の「自己決定・自己責任」という点についての指摘も自分がもやっと考えていたことに形を与えてくれてスッキリしました。

つまり、昔の人々は地縁血縁といった「しがらみ」の中で、自己決定もままならなかったのだけど。しかしその「しがらみ」はまたセーフティネットとしても機能していました。しかし、単純に現代の人々はそれを捨て去り、「自己決定・自己責任」でいこうとそそのかされていて。しかしそれは今までその「しがらみ」が与えてくれていたセーフティネットも捨て去る行為であり、弱者はさらに弱者として落ちていくのではないか、という指摘。(と私は理解しましたが、誤読してたらごめんなさい)

大迫秀行さんというインディーズミュージシャンの方がいらっしゃいます。三上寛ファンクラブの仲間でした。もう何年もお会いしたりライブを拝見してはいないのですが。
その大迫さんの歌に『飛行機』というのがあって。
「逃げ出したいんだこんな欲望の渦から 自己責任自己責任と口やかましくのたまうアンタを飛行機に乗せてキノコ雲の上から突き落として差し上げましょう」というくだりがあって。
「自己責任って良いことなのでは?」と思っていたその頃の私は違和感を感じていたのですが。

つまり、この消費社会、欲望を掻き立てることが最上の善とされる社会、人々はしがらみを捨て去り、「自己決定・自己責任」でオノレの欲望のまま突き進むことがいいとされる社会に対して大迫さんはノーを叩きつけたのだなと自分なりに理解するようになりました。

ま、そんなきっかけがあったのですが。いや、閑話休題。

まぁ、だから、その「しがらみ」を我々は取り戻すべきではないかと。たまには人に迷惑をかけ、また時には人に迷惑をかけられ、そういう生き方がいいのではないかと。
たこ八郎の「迷惑かけてありがとう」という言葉を本当にしみじみと思い出すのだけど。

その他、「自分探し」をやっつけてるくだりも良かったです。「自分探し」にもやっとしたうさん臭さを感じていた私には胸のつかえがとれる思いがしました。
このくだりはちょっと長くなるのですが、かなり自分的にはエウレカだったので書き写して引用してみます。

「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」
ちょっと申し上げにくいのですが、このような問いを軽々しく口にする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。少し考えてみればわかります。
「自分探しの旅」にでかける若者たちはどこへ行くでしょう?ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。あるいはバグダッドやダルエスサラームへ。どこだっていいんです。自分のことを知っている人間がいないところなら、どこだって。自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。
でも、これはずいぶん奇妙な発想法ですね。
もし、自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか?外国の、まったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分はなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。
ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。
二十年も生きてくれば、どんな人でもそれなりの経験の蓄積があり、その能力や見識について、ある程度の評価は定まってきます。この「自分探し」の方たちは、その評価に不満がある。たぶん、そうだと思います。家庭内や学校や勤め先で、その人自身の言動の積み重ねの結果与えられた「あなたはこういう人ですね」という外部評価に納得がゆかない。自分はもっと高い評価が与えられしかるべきである。もっと敬意を示されてよいはずだし、もっと愛されてよいはずだし、もっと多くの権力や威信や財貨を享受してもよいはずだ。おそらく、そう思う人たちが「自分探しの旅」に出てしまうのです。
「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。
自己評価が外部評価より高い。人間はだいたいそうですから、そのこと自体は別に問題とするには当たりません。その場合に、自分でも納得のゆくくらいの敬意や威信を獲得するように外部評価の好転に努める、というのがふつうの人間的成長の行程でもあるわけです。でも、中には外部評価を全否定するという暴挙に出る人もいます。「世間のやつらはオレのことをぜんぜんわかっちゃいない」だから、「世間のやつら」が一人もいない所に行って、外部評価をいったんリセットしようというわけです。通俗的な意味で理解されている「自分探しの旅」というのは、どうもそういうもののようです。でも、これはあまりうまくゆきそうもありません。
それは自分の自分に対する評価の方が、他者が自分に下す評価よりも真実である、という前提に根拠がないからです。自分のことは自分がいちばんよく知っているというのは残念ながらほんとうではありません。
「ほんとうの私」というものがもしあるとすれば、それは、共同的な作業を通じて、私が「余人を以って代え難い」機能を果たしたあとになって、事後的にまわりの人たちから追認されて、はじめてかたちをとるものです。私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる。
ですから、「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとるはずです。
しかし、僕たちが知っている「自分探し」主義者たちが口にする問いはそういうものではありません。彼らの視線は自分の外ではなく、ひたすら自分の内側に向かいます。まるで、彼ら彼女ら自身がなにものであり、この世界でなすべきことがなにであるかの回答すべてが、自分の中に書いてあるかのように。(83-86p)

重い指摘ですな。私もスキさえあれば「自分探しの旅」に出てしまいそうなタイプですし。
映画『タクシードライバー』で主人公のトラヴィスの呟いた「I don't believe that one should devote his life to morbid self-attention. 」という台詞を思い出します。

内田樹は大学教員であり、教育現場に「市場主義」を振りかざして干渉してくるものに対する反発もあるようです。本書にはそういうポジショントーク的なものも感じたことは事実であります。でも、本書はそれを越えて示唆に富むものであるものとも感じました。

内田樹の思想は「morbid self-attention」に毒された現代の孤立した個人の社会を突破するヒントになってくれると思います。
(しかし、孤立化もまた現在の発展のもととなったのでしょうが)

ですから本書もまたおススメ本であります。

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