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2009/10/23

今さらヱヴァを見てきました

という訳で、昨日は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見てきました。
ほんと、今さらですが。

私はどうも人ごみが苦手で、封切直後の大混雑状態はあまり行きたくないなと思っていました。そうやってズルズルしているうちに上映館もなくなり、そろそろ劇場で見られる最後の頃合っぽい状況なので、やっとこさ重い腰を上げて。
…といっても前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』はけっきょく映画館に見に行かず、先日のテレビ放映で見たのですが。

どうもエヴァにはアンビバレントな感情を抱いています。
だから「見たい」という気持ちと「見たくない」という気持ちがせめぎあってます。自分の中では。

何度か書いていますが。旧シリーズを知ったのは日本冒険小説協会公認酒場・深夜+1で働いていたある方からでした。その人がおススメしてくれる本とか映画はアタリが多くてあてにしていた人なんですが。最初のテレビシリーズが放送中のころでした。

そのころパソコンを買って、パソコンショップとかも出入りするようになったのですが。ソフト売り上げ上位にエヴァのソフトがありました。なんだろうと思って手にとって見たら画像とかちょっとしたアクセサリーソフトが入っているくらいのものなんですよね。ゲームとかじゃない。こういうのが売り上げ上位になるの?って不思議な感想を持ちました。

ま、そういうこともあってアパートの近所のレンタルビデオ屋でビデオを借りてみました。
第1話、包帯姿の綾波レイに妙な既視感を感じて。あ、これは筋肉少女帯の『何処へでも行ける切手』じゃないかって思い出しました。あのころ筋肉少女帯にハマっていて。中でも『何処へでも行ける切手』は大好きな曲でした。
あとからほんとにキャラクターデザインの方が筋肉少女帯のファンで、綾波レイの元ネタが『何処へでも行ける切手』だったと知って驚いた次第。

ビデオはいつも貸し出し中で、後の方の巻はなかなか借りられませんでした。
けっきょく全話見られたのは旧劇場版公開前の再放送の時じゃなかったかしら。
劇場版は最初のと2番目のを見ました。全部で3作でしたっけ。さすがに最後まで付き合わなかったけど。

いや、最後まで付き合えなかったのは、前述したアンビバレントな感情という部分もあったかと。

エヴァンゲリオンの面白さ、いや、「惹かれる部分」にはいろいろあると思うのですが。お話の面白さ、散りばめられた謎、それらの見せ方の巧さ。そして、そ れ以上に、オタクが抱え込んでいる“傷”を“痛痒”く刺激してくる部分があるのではないかと。カサブタを剥がす魅力というか。痛みと同時にそうせずにはいられない衝動もあるというか。その“痛痒さ”がまずアンビバレントの原因かと。

それは例えば碇シンジの父親・碇ゲンドウとの葛藤。父親から見捨てられ、ただ道具として扱われるシンジ。
父親との確執。それは時代によらず“息子”が直面するものなのかもしれませんが。
しかし、オタク第一世代あたりの年代にとってはさらに「大きな物語」の喪失というのも絡んできて。

「大きな物語」。それは自我の支えの問題でありますが。かつて機能していた「自我の支え」。人はひとり存在できるものでなく、何らかの「自我の支え」が必要で。それがかつては「大きな物語」、つまり、国家や民族や宗教や、何らかの政治的運動、そして家族。地縁血縁といったもの。それらが「自我の支え」としてかつては機能していたのですが。その崩壊がオタク第1世代あたりの年代を直撃したと。それによって“傷”を受けた人々の一部はオタクという「小さな物語」に行ったと。そう理解しているのですが。

オタク第2世代以降はどうかは解らないけど。でも「『大きな物語』の喪失と『小さな物語』への耽溺」はオタクにとっての“原罪”ならぬ“原傷”として第2世代以降にも伏流しているのではないかと思うのですが。

ま、「新世紀エヴァンゲリオン」は意識的か無意識的か解りませんが、そういう“傷”を刺激するつくりになっていたと。私はそう感じたのですが。

生きる目標を示さず、嘘でもいいから「お前にはエヴァに乗って全人類を救うという大切な使命があるのだ!」とでも熱く語って送り出してくれればいいのに、ただエヴァにシンジを乗せるゲンドウ。
ただ、それはゲンドウなりの誠意かもしれないけど。だってゲンドウも結局は、彼の目的は、「人類補完計画」を利用して、自分を受け入れてくれたただひとりの女性、エヴァの事故で消滅した碇ユイを復活させる事でしたし。“人類”の事とかどうでもよかったのだし。

また逆に言えば、「大きな物語」を与えてくれるはずの“父親”も、けっきょくは自分の「小さな物語」にかまけるだけだったという言い方もできますが。喪われた父親の威厳。反発する事も従う事もそれに値しない。
ゲンドウもちゃっちゃと赤城母子のどっちかと再婚すればよかったのにねぇ…。

登場人物もそれぞれに心に傷を抱えていて、そこらへんがこちらの心の傷も刺激してくるのだろうかと。

そして結局旧版ではヘタレなままのシンジ。何らかの解決を示さずに。もちろん「大きな物語」への回帰は作者的にも許せなかったのでしょうが。そして、さらにオタクに対する同属嫌悪からか、オタクをシメるシーンを入れた旧劇場版。「大きな物語」を信じていないのに、“現実”に帰れなんて言われても困るじゃない。だいたい作者自体がどれだけ“現実”を信じているのかしらって思いました。

あとそれと迷走して破綻した旧テレビ版ですね。旧劇場版も第1作では完結できなかったし。
そこらへんもアルチザン的な意味でどうよという思いがありました。

そういった部分が好悪相半ばする“アンビバレント”な感情を抱かせた部分かと。
だから「見たい」という感情と「見たくない」という感情があって。

いや、まぁ、エヴァ解説本は山ほど刊行されましたし、そこらへんの解説は私が拙い事書くまでもないかと思いますが…。

ま、ただ、そこらへんのアンビバレントな感情はやっぱり薄れてきてますかね。
もう素直に面白い作品として見られるようになってきたかもしれません。最近は。
だから映画館に足を運んだ、と。

行った上映館はミニシアターぐらいの規模の映画館でした。スクリーンも小さめ。やっぱり大スクリーンでやってる間に見に行くべきだったかもしれなかったです。それで値段は普通の料金でしたし。いっそのことDVDレンタルか名画座にかかるまで待つべきだったかもしれないけど。やっぱりスクリーンで見たいものですし。

今回、最終回上映ぎりぎりに入館して、終映後は物販コーナーが終わっていたのでパンフレットとか入手し損ねました。また機会があれば入手しましょう。

(以下思いつくまま書いていきますので、ネタバレとかもしてしまうかもしれません。ご注意)

まず第一に、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』はほんと面白かったです。
画作り、語り口といった演出、アニメーション映画としてとても面白かったし、楽しめました。
これは最初に書いておきます。別にあとから文句を言うつもりもないけど。まず、一番大事なことはこれかと。

ストーリー的にはほぼ旧版をダイジェストにした『序』から『破』になってだいぶ変わってきましたね。『たけくまメモ』さんの『破』紹介記事にあった「東京駅から出発した山手線と京浜東北線が、途中の品川駅で渋谷・新宿方向と横浜方向に分かれるみたいなもの」という説明がすとんと腑に落ちました。

アスカの苗字が惣流から式波に変わっていましたね。それから新劇場版からの新キャラが真希波・マリ・イラストリアス、ですか。旧版は海洋用語や帝国海軍軍艦からキャラの名前が取られていましたが。今回エヴァ操縦の三少女はみんな苗字に「波」がついていますけど。
綾波、式波、真希波と、ここらへんの意味はどうなるのかな?“綾”は綾なす、カオス、玄牝かなぁ。母なるカオス。真希波は「真に希う」あるいは「真を希う」という事かしら?だったら式波はなんでしょうか。

彼女たちを三美神と考えると「真・善・美」でしょうが…。真希波は“真”、綾波は“善”、式波は“美”なのかなぁ。式と美の結びつきが思いつけませんが。こういう解釈はこじつけっぽいね。
ま、そういう謎解きをいろいろ考えさせるのもエヴァの特徴かしら。

エンドクレジットに鬼頭莫宏の名前がありましたが。使徒のデザインとかなさったのかしら。『なるたる』の“竜”のデザインとか、アブストラクトで独特のデザインセンスがいい感じでしたが。
最初のスタジオロゴのところとか、ミサトさんの携帯の着信音とか、特撮の効果音ネタというのがちょっとニヤリとする部分でしたね。さすが庵野監督だと。

綾波レイ。彼女はダウナー系無表情キャラのイコンであると思いますが。つうか綾波萌えなあたくし。本作で彼女の感情が細やかに描かれているのが良かったです。シンジ君に対する好意とか。それがまだ何かよく解らずに戸惑っている部分とか。でも、行動を起こそうという部分とか。その行動がまずシンジと父親ゲンドウの仲直りの仲介をしたいというところがまた健気で愛おしいです。心根がユイならまずそう考えるでしょうか。
まぁ、良いなぁと思いつつ「くっつきやがるのかコノヤロー」という感情も一方で感じましたがね。

そしてクライマックス。そういう綾波の気持ちを受けた上でのシンジ君のあの絶叫とともに開始されるエヴァ初号機のブチ切れモード。あれはやっぱり涙が出ましたよ。
それが真希波操る弐号機のビーストモードより遥かに強力というのも。そう、野蛮、破壊のための暴力より、大切なものを守りたいという心がブチ切れて出るパワーの方が遥かに強い、それが大切かと。

綾波救出シーンでどうなるのかハラハラ。助けられるのかな?いや、間一髪で助からないだろうな、庵野的に考えて。鬱展開で観客をまたシメるのだろうと思ってハラハラしましたが…。
そしてああいう風に次回につながるのか。

庵野監督は丸くなったのかなぁと思ったりもしました。
まぁ庵野監督も奥さん貰って落ち着いたりしていますし、歳も取ってるし。丸くなったのかなと。もうオタクをシメようとはしないのかなぁと。

しかしアスカがかわいそうなことになったのは残念です。次回予告にも出てくるし、死亡はしていないようですが。しかし予告のあの姿は痛々しいです。あれ、あの時代の医学なら治るのかしら?

次が完結編。「序」「破」と来て次は「急」ならぬ「Q」それからもう一編あるみたいですが。
どうなるのかなぁ。Qがあってもう一編という事は、最後のやつは学園エヴァだったりして…。そこまでセルフパロディはしないかなぁ。

これでシンジと綾波がくっつくのかな。だとすると父親ゲンドウと息子シンジそして母親ユイ(レイ)でエディプスなお話に展開していくのかなぁ。このくらいは誰でも思いつくだろうから、さらに裏をかかれるとは思いますが。

しかしどうなるのかなぁ。まだオタクをシメたりするのか警戒心がありますが。

収めるべき収め方をするのかな。それとも旧版みたいにシンジは最後までヘタレるような展開になるのかしら。後者なら凄いけどやっぱりもやっとした後味の悪さは残るだろうし、前者ならオーソドックスで新境地とは違うような気がしますが。そしてその後味の悪さが「われらの時代」の作品だという事だったと思いますが。

エヴァがそいう閉塞状況を際立たせたのだけど。そのブレイクスルーは示されていません。
そして、示されぬままで。とりあえず何か解らないけどシンジ君が救われて「おめでとう」と言われてみたのがテレビシリーズラストで、シンジ君がヘタレのまま終わったのが旧劇場版シリーズであったのではと。
できたら新シリーズはブレイクスルーを示してくれたら良いなぁとか思うのだけど。

カヲルの「シンジくん、今度こそ君を幸せにしてあげるよ」という台詞は、旧シリーズを踏まえた、それを乗り越えるという監督の宣言だと思いますが。

まぁともかくも感情を持ち始めたレイの姿にちょっとほっとして。レイを守るためにブチ切れたシンジ君の姿に涙が出て、アスカのかわいそうな展開に心痛んで、さて最終回はどうなるかとドキドキしている私であります。

でもほんと、続編なんかもないまま(いや、続編作れる余地自体が無いですが)、10年以上に渡って人気が続いている、そしてイメージが様々に展開してフィギュアとか作られている(今は劇中の格好じゃないレイやアスカのフィギュアのほうがはるかに多いわけですし)、そして新劇場版も作られた、不思議な作品だと思います、エヴァンゲリオンは。

最終作は大劇場の大スクリーンで見たいものです。

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