という訳で、昨日は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を見てきました。
ほんと、今さらですが。
私はどうも人ごみが苦手で、封切直後の大混雑状態はあまり行きたくないなと思っていました。そうやってズルズルしているうちに上映館もなくなり、そろそろ劇場で見られる最後の頃合っぽい状況なので、やっとこさ重い腰を上げて。
…といっても前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』はけっきょく映画館に見に行かず、先日のテレビ放映で見たのですが。
どうもエヴァにはアンビバレントな感情を抱いています。
だから「見たい」という気持ちと「見たくない」という気持ちがせめぎあってます。自分の中では。
何度か書いていますが。旧シリーズを知ったのは日本冒険小説協会公認酒場・深夜+1で働いていたある方からでした。その人がおススメしてくれる本とか映画はアタリが多くてあてにしていた人なんですが。最初のテレビシリーズが放送中のころでした。
そのころパソコンを買って、パソコンショップとかも出入りするようになったのですが。ソフト売り上げ上位にエヴァのソフトがありました。なんだろうと思って手にとって見たら画像とかちょっとしたアクセサリーソフトが入っているくらいのものなんですよね。ゲームとかじゃない。こういうのが売り上げ上位になるの?って不思議な感想を持ちました。
ま、そういうこともあってアパートの近所のレンタルビデオ屋でビデオを借りてみました。
第1話、包帯姿の綾波レイに妙な既視感を感じて。あ、これは筋肉少女帯の『何処へでも行ける切手』じゃないかって思い出しました。あのころ筋肉少女帯にハマっていて。中でも『何処へでも行ける切手』は大好きな曲でした。
あとからほんとにキャラクターデザインの方が筋肉少女帯のファンで、綾波レイの元ネタが『何処へでも行ける切手』だったと知って驚いた次第。
ビデオはいつも貸し出し中で、後の方の巻はなかなか借りられませんでした。
けっきょく全話見られたのは旧劇場版公開前の再放送の時じゃなかったかしら。
劇場版は最初のと2番目のを見ました。全部で3作でしたっけ。さすがに最後まで付き合わなかったけど。
いや、最後まで付き合えなかったのは、前述したアンビバレントな感情という部分もあったかと。
エヴァンゲリオンの面白さ、いや、「惹かれる部分」にはいろいろあると思うのですが。お話の面白さ、散りばめられた謎、それらの見せ方の巧さ。そして、そ
れ以上に、オタクが抱え込んでいる“傷”を“痛痒”く刺激してくる部分があるのではないかと。カサブタを剥がす魅力というか。痛みと同時にそうせずにはいられない衝動もあるというか。その“痛痒さ”がまずアンビバレントの原因かと。
それは例えば碇シンジの父親・碇ゲンドウとの葛藤。父親から見捨てられ、ただ道具として扱われるシンジ。
父親との確執。それは時代によらず“息子”が直面するものなのかもしれませんが。
しかし、オタク第一世代あたりの年代にとってはさらに「大きな物語」の喪失というのも絡んできて。
「大きな物語」。それは自我の支えの問題でありますが。かつて機能していた「自我の支え」。人はひとり存在できるものでなく、何らかの「自我の支え」が必要で。それがかつては「大きな物語」、つまり、国家や民族や宗教や、何らかの政治的運動、そして家族。地縁血縁といったもの。それらが「自我の支え」としてかつては機能していたのですが。その崩壊がオタク第1世代あたりの年代を直撃したと。それによって“傷”を受けた人々の一部はオタクという「小さな物語」に行ったと。そう理解しているのですが。
オタク第2世代以降はどうかは解らないけど。でも「『大きな物語』の喪失と『小さな物語』への耽溺」はオタクにとっての“原罪”ならぬ“原傷”として第2世代以降にも伏流しているのではないかと思うのですが。
ま、「新世紀エヴァンゲリオン」は意識的か無意識的か解りませんが、そういう“傷”を刺激するつくりになっていたと。私はそう感じたのですが。
生きる目標を示さず、嘘でもいいから「お前にはエヴァに乗って全人類を救うという大切な使命があるのだ!」とでも熱く語って送り出してくれればいいのに、ただエヴァにシンジを乗せるゲンドウ。
ただ、それはゲンドウなりの誠意かもしれないけど。だってゲンドウも結局は、彼の目的は、「人類補完計画」を利用して、自分を受け入れてくれたただひとりの女性、エヴァの事故で消滅した碇ユイを復活させる事でしたし。“人類”の事とかどうでもよかったのだし。
また逆に言えば、「大きな物語」を与えてくれるはずの“父親”も、けっきょくは自分の「小さな物語」にかまけるだけだったという言い方もできますが。喪われた父親の威厳。反発する事も従う事もそれに値しない。
ゲンドウもちゃっちゃと赤城母子のどっちかと再婚すればよかったのにねぇ…。
登場人物もそれぞれに心に傷を抱えていて、そこらへんがこちらの心の傷も刺激してくるのだろうかと。
そして結局旧版ではヘタレなままのシンジ。何らかの解決を示さずに。もちろん「大きな物語」への回帰は作者的にも許せなかったのでしょうが。そして、さらにオタクに対する同属嫌悪からか、オタクをシメるシーンを入れた旧劇場版。「大きな物語」を信じていないのに、“現実”に帰れなんて言われても困るじゃない。だいたい作者自体がどれだけ“現実”を信じているのかしらって思いました。
あとそれと迷走して破綻した旧テレビ版ですね。旧劇場版も第1作では完結できなかったし。
そこらへんもアルチザン的な意味でどうよという思いがありました。
そういった部分が好悪相半ばする“アンビバレント”な感情を抱かせた部分かと。
だから「見たい」という感情と「見たくない」という感情があって。
いや、まぁ、エヴァ解説本は山ほど刊行されましたし、そこらへんの解説は私が拙い事書くまでもないかと思いますが…。
ま、ただ、そこらへんのアンビバレントな感情はやっぱり薄れてきてますかね。
もう素直に面白い作品として見られるようになってきたかもしれません。最近は。
だから映画館に足を運んだ、と。
行った上映館はミニシアターぐらいの規模の映画館でした。スクリーンも小さめ。やっぱり大スクリーンでやってる間に見に行くべきだったかもしれなかったです。それで値段は普通の料金でしたし。いっそのことDVDレンタルか名画座にかかるまで待つべきだったかもしれないけど。やっぱりスクリーンで見たいものですし。
今回、最終回上映ぎりぎりに入館して、終映後は物販コーナーが終わっていたのでパンフレットとか入手し損ねました。また機会があれば入手しましょう。
(以下思いつくまま書いていきますので、ネタバレとかもしてしまうかもしれません。ご注意)
最近のコメント