« 「与信」って何だろう? | トップページ | 映像の地下水脈#13 »

2009/06/26

『けいおん!』考

というわけで、今期楽しく見ていたアニメ『けいおん!』が昨夜深夜最終回を迎えましたね。
録画がうまくいってるかちょっと夜中に起きだしたり。
んで、今朝、出勤前に最終回を見てこれを書いてます。
ほんと、ここんとこ朝5時前に目が覚めてしまうので。これでいちにちスッキリ!ならむちゃくちゃ健全な暮らしなんでしょうが、そのせいで日中はどんよりしてるし、遅く寝てもそうなってしまうし、困ったものです。

前回の予告編だと、軽音部の女の子たちがなんか訳ありっぽく描かれていて、「彼氏でもできたのか?」的な雰囲気を漂わせていましたが…。澪は作詞に打ち込みたい、紬は(そんなことしなくていいお嬢様だけど)バイト、梓は友達の子猫を預かり、そして、付文を届けられたかに見えた律は、実はその恋文は澪が書いた歌詞だったという勘違いで。んで、やっぱりみんな和気藹々でまったり楽しい軽音部、というお話になりました。
ま、そこらへんが落としどころなんでしょうか。

私が『けいおん!』を見るようになったきっかけは、もともとライブハウス通いが好きで、女の子のバンド物って事で興味を持って。あと、ライブハウス通いが昂じて自分でもギターを弾きたくなって、3年前にヤフオクでエレキギターの中古を手に入れたのですが。それがAriaProⅡのギブソン・レスポールタイプで、唯が持ってるのと同じ、チェリーサンバースト仕上げなのにおぉ!と思ったのもきっかけでした。唯が持ってるのは本物のギブソン・レスポールですが。

どうやら大ヒット作になったようですね。テーマ曲とかヒットチャートを賑わしたようですし。
そして、私もとても楽しく拝見しました。そうやって手に入れたギターですが、けっきょく挫折して部屋の隅で埃をかぶっていたのですが、またギターを引っ張り出してきて、少しづつですが弾いて楽しんでます。あと、勢いでアコギまで手に入れてしまいました。まぁ、そのうちまた挫折してしまうんでしょうけど…。でも、そのくらい楽しい作品でありました。

私個人では『けいおん!』は「『みなみけ』型」のお話だと思っています。女の子たちだけの「ゆるやかに閉じた世界」の物語。ある意味究極の“ファンタジー”。
たぶん、“現実”だと、彼女たちの年頃の少女たちが経験するであろう、周りの大人たち、両親や教師たちとの係わり合い、軋轢といったものが注意深く、不自然さをなるべく感じさせないように取り除かれています。
そして、恋愛問題も同様に。将来のことも。大きな波風の立たない「いま」「ここ」で緩やかに閉じたファンタジー。

私はそういった物語を「『みなみけ』型」と呼んでいるのは、『みなみけ』がそういう事をいちばん最初に気づかせてくれたアニメだったからです。
『みなみけ』だと、主人公三姉妹に最も近しい大人であるはずの両親が存在していません。生別死別という説明もなく、それとともに必然的に発生する「三姉妹の生活費はどこから出ているのか」という疑問にも答はありません。なんかもう自明的に、ナチュラルに、そういった疑問を感じさせる部分をスルーしています。そして、『みなみけ』を楽しむ際には、楽しんでいる限りは、そういう疑問を感じる事もなく、こちらも楽しくまったりとお話を楽しんでいます。
そういう普通ならありえない状況の説明が描かれない事よりむしろ、そういったことに疑問を感じずにそのお話を楽しむこちら側のほうが不思議に感じます。

『けいおん!』もそんな感じです。主人公の女子高生5人の両親が出てくることはけっきょくありませんでした。よく出てくる唯の家も、まったく両親の気配がしません。家事は妹の憂がしています。ありえないくらいかいがいしく姉に仕える、お姉さん大好きな妹。姉の唯が生活費を除けばほとんどヒモって感じ。何もしない姉の世話をかいがいしく焼き、それに喜びを感じている妹。ま、ホント、憂みたいな奥さんが欲しいものですケド…。

彼女たちに関わってくる大人は顧問になる音楽の女性教師、さわ子先生(婚期逸しつつあるくらいのお年頃?)だけ。でも、彼女も、軽音部時代の恥ずかしい過去がバレた上、部員の女の子たちとだいたい同じ立ち位置、(ちょっと困った)お姉さんくらいのポジションになります。

軽音部じたい部員がみんな卒業して誰も部員がいない状態でしたから、律たちが入部した時点で先輩風(時に威張ったり、時に面倒を見てくれる)吹かす先輩部員がいませんし、新入部員の梓に対しても律たちはあまり先輩風を吹かしていませんし。ここらへん、“目上”の登場人物がいないって事、いや、上下関係があまりないって事になるかなぁ。
そこらへん、最近“上から目線”と上下関係に対する不快感がよく言われる現代人のメンタリティを反映しているような気がします。そういう人たち向けに作ってあると。

そこらへん、現代人の“肥大した自意識”を刺激しないようなつくりになっているのではないかと思います。そして、それが私にとっても心地いいんですけどね。

あと、恋愛要素もうまく取り除いてあるところが。舞台は女子校で、男女の出会いのチャンスそのものが少なくなるようにできてますし。
過去の(ほぼ片想いに終わった)失恋経験が描かれ、アベックを見かけるとキィーってなる、婚期を逃がしつつあるさわ子先生をシンパシーを持って、こちらの立ち位置に近い立場のキャラとして感情移入できますけど。あぁ、さわ子先生みたいな嫁がほしいなぁ、ギター教えて欲しいなぁ。ふたりでしっとり弾き語りしたいなぁ(爆)。

そういった意味で『けいおん!』はある意味究極のファンタジーではないかと思います。リアルな学園生活を描いたお話に見せかけて、中身はむちゃくちゃファンタジーであると、実は最もリアルじゃないと。「宇宙を股にかける宇宙海賊の物語」なんてお話の方がある意味『けいおん!』よりリアルに近いのではと。最初からファンタジーと意識できる部分において。

そして、作り手もそういうお話の構造は理解した上でお話を作ってあるように感じられました。
だから、実質最終回だった前回の12話で、なんか人生に目標も見い出せずフラフラしていた唯が、バンド活動という人生の楽しみを見つけたと語るくだりが、そして仲間たちとライブする楽しさを描いたくだりに、けっこうじーんときたのでしょうし。
また、今回の番外編で「彼女たちに彼氏ができたのか!?」とチラッと、本当にほんのチラッとそういう空気を漂わせるという、視聴者いじりができたのではと思います。

そこらへん、某作の、“『みなみけ』型”のお話の構造を理解せずに「リアリティを持ち込みたい」とやらかして総すかんを食った例と対極ですな。
『けいおん!』では、そういう、物語の骨組みをぶち壊さずに、いい感じにお話を持っていって、結局は“『みなみけ』型”の枠組みをちょっと壊して面白く作ることができたのではないかと思います。

とまれ、『けいおん!』がバンド活動で上を目指すというような、音楽活動を素材にした根性物だったら、私はもういちど挫折したギターを引っ張り出すなんて事はなかったと思います。というか、最終回まで視聴しなかったかと。私ってそういう根性物は苦手だし。
なんていうのかな。彼女たちにとってバンド活動は“目標”じゃなくて、“楽しみ”だったのかと思います。バンド活動を通じてコンクール優勝を目指すとか。まぁ、彼女たちも「目標!武道館」ってスローガンを掲げますが。でも、カリカリ練習せずに、むしろまったりお茶とおしゃべりって場面が多いし。(ま、いざとなれば紬家の財力で武道館ぐらい貸切れそうですが)

その、練習をあまりしない事に悩んだ新入部員の梓のエピソードもそう考えるとお話の枠組みを壊しそうな部分でありましたが。

しかし、ま、それでもいい音楽をやれるってのはご都合主義とも思います。なんせ唯は天才的なミュージシャンの素質があって、絶対音感持ちでチューナー要らず、いちど聴いた演奏をばっちりコピーできますし。あまつさえその妹の憂もまた、姉のギターをちょっと触ったぐらいでバンド演奏こなしちゃいますし。チマチマチマチマとギターの練習しつつ、まったく腕の上がらない私は場合が場合なら「コンチクショー」と思うはずですが。でも『けいおん!』世界に浸っている限り、そうは思わず、目を細めてしまいますが。

あと、超お金持ちお嬢さんの紬の存在もご都合主義っちゃご都合主義です。唯が欲しがった、2~30万円位はするギブソン純正のレスポールも、その楽器店が紬の父親の会社系列って事で5万円で買えたりしますし。また、部の合宿も彼女のつてで超ゴーカな別荘、しかもスタジオスペースにPAも揃った状態でやれますし。
そういう彼女は、みんなにお茶を給仕するのを楽しんだり、バイトをやってみたり、そういう部分で金持ち的ないやらしさを出さないように注意深く描かれていますが。

まぁ、という方向で、リアルな学園生活物に見えますが、ほんと、注意深く構築されたファンタジーワールドであったと思います、『けいおん!』世界は。そして、アニメ化に際しても、作り手側がそういう構造を理解していて、そして時にはその枠組みを壊しながらも、でも、視聴者に必要以上に不快感・戸惑いを与えないように、ほんと上手に、細心の注意を払って拵えてあったと思いました。

もちろんそういった「リアルを装ったファンタジー」に対して、一抹の懸念もないことはないですが。でも、“虚構”は“現実”の補完システムであると理解しますし、世知辛い、決して“私”を満たしてくれない“現実”を生きていくためにも“虚構”、ファンタジーといったものは必要であると思います故。

とまれ、来週からちょっとさみしいです…。

|

« 「与信」って何だろう? | トップページ | 映像の地下水脈#13 »

コメント

音楽についてはあまり言及できませんが

「恋愛事」が無いのを除けば
けいおんで描かれる学生生活はかなりリアリティのあるものでしたよ。
つい最近まで現役だった身としては。

投稿: aba | 2009/11/27 05:11

もっと言うなれば
「(閉じた)一つのコミュニティ」に対して
リアリティを感じる、って事です。
「描かれていない事」はみなみけと共通しているかもしれませんが
「描かれている事」に対して「けいおん」は
一連の作品とはどこか違う感触がありました。
まあ、仰られている通りバンド活動や設定面等等で
マンガ的ファンタジーな脚色は入っていますけど
それでも個々の行動心理や内面に関しては
比較的学生時代にありがちな悩みや葛藤だったと思います。

下記のURLに監督のインタビューやトークショーが掲載されて
いますが監督自ら「けいおんは日常の中の“ど日常”」と
発言されています。
(けいおんの制作スタッフは監督、構成始め女性中心の現場
だったという一面もありその辺り影響しているのかもしれません)
http://www.syu-ta.com/blog/2009/08/06/034718.shtml
http://www.syu-ta.com/blog/2009/11/02/035145.shtml

投稿: aba | 2009/11/27 05:48

◎oba様
書き込み、どうもありがとうございます。

まず、「けいおん!」はとても面白い作品であったことは最初に書きます。セルソフトが買える経済状態ではないのですが、買えるものでしたらセルソフトも買っていたと思います。
(obaさんは学生か社会人かは解りませんが、学生さんだったらほんと必死こいてせめて潰れる心配のない会社に就職されることを老婆心ながら申し上げます)

「物語」として「リアリティ」を感じることと、「現実」としての「リアリティ」はまた違うと私は思います。

「けいおん!」は高校生活の嫌な思い出だった要素を排除して、楽しい思い出であった、(私にもあった、あるいはあってもおかしくなかった-私は男ですが-)ことをメインに高校生活を上手に再構成してあったなと思います。

「楽しい思い出」を心に届くように上手に描いていて、それが(「現実」という意味寄りの)リアリティで。
「嫌な思い出」が注意深く、できる限り不自然に感じられないように取り除いてあったのがファンタジーだと思います。

例として私が送った高校生活にあったもので彼女たちが過ごしている高校生活に描かれてない(あるいはほとんど触れられていない)「嫌な思い出」を列挙してみるとわかりやすいと思うのですが。
両親との確執、教師との確執、悪意をもって接してくる同級生、後輩をパシリに使う先輩、進路の悩み、片想いしていた女の子に振られたこと、など。

そうい要素、高校生時代に普通に体験していたであろう(と私が考える)「嫌な思い出」は「けいおん!」では注意深く取り除いてあったのではないかと思うのです。
もちろんそういった要素の入った「けいおん!」を私は見たくありませんが。

そして、薬味としてそういう「嫌な思い出」もちょっと「けいおん!」には入ってましたが。梓が軽音部を辞めようかと悩むところとか(私も部活をやめようか悩んだことがあったので-私はどっちつかずの「幽霊部員」になる方法をとってしまいましたが-なんか胸がちくちく痛みましたが)。あと、クルーザーをチャーターした親に紬が怒るのも、親のおせっかいに反抗していた私としてはちょっとチクっときました。
そういったものをほんのちょっと見せるやり方も作品世界に深みを与えてくれたと思います。

何度も書きますが、もちろん、「嫌な思い出」要素が入っている「けいおん!」を私は見たくありませんが。

もちろん私が卒業したのはバンカラな気風を気取る進学校でしたから、上からの締め付けとか、成績に対するプレッシャーとかきつくて、また、私はクラスでも浮いていて、また、そこを虐められていて(被害者面をするつもりはありませんが)、「嫌な思い出」が多いのであろうとは思いますが。(同窓会の類も卒業してからいちども出席していません)

「閉じたコミュニティ」のリアリティ。
ただ、「現実」なら、閉じたつもりでも、親や教師や「空気の読めない」同級生やらの干渉をいつも受けてしまうものではないかと思うのですが。
例えば「みなみけ」や「けいおん!」世界では、最大の干渉者である「親」がきれいさっぱり不在ですね(先に書いた紬が親に抗議する場面はありますが)。
それは今時の若い衆から見えているパースペクティブなのかなと想像していますが。親という存在を無視するのではなく、彼らにとって「親」という存在はそもそも不可視になっている?
そこらへんが「みなみけ」型のおはなしについて不思議で面白く感じるようになったきっかけなのですが。(そして、私自身もまた、そういうことにきづくまでは親が不在のそういうお話をなんの違和感もなく見ていました)

「細部の真実が全体の虚構を支える」という言葉があります。「けいおん!」はそこが秀でていたなと。それがリアリティを感じさせてくれたのではないかと。
リンク先の文章をざっと読んでみましたが、やっぱり女性が作ったというのが大きい要素なのかしら?

男が描いた、あるいは男に媚びて「記号的」になったキャラじゃなく、彼女たちを描けたという部分。
彼女たちの身長体重をあるサイトで見かけましたが、それは「現実的」な数字っぽいですね。そう思って見ると彼女たちの水着姿も記号的なグラマー、あるいは貧乳系じゃなくて、現実にありそうな、絵で見るとちょっとポチャッとした感じでした。

obaさんの紹介記事にある監督さんの「自分としてはハッピーであることを意識している」という言葉が良かったです。どうも私は暗ぁ~~い高校生活を送ってしまったようで。だから、彼女たちのハッピーな様子が楽しかったのだろうなと。だから、挫折していたギターも再開したし(いまだに上手く弾けませんけど)、アニソンとかもほとんど買わないのにほんと久しぶりにオープニングとエンディングのCDを買ったのだろうと思います。

ほんと、あんなハッピーな高校生活を送りたかったですな。

(うまく説明できてなかったらごめんなさい)

投稿: BUFF | 2009/11/27 11:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92510/45456445

この記事へのトラックバック一覧です: 『けいおん!』考:

« 「与信」って何だろう? | トップページ | 映像の地下水脈#13 »