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2009/05/30

「物語」の持つ機能について

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090529-OYT1T01068.htm
「性暴力ゲーム規制強化へ、与党が流通歯止め検討チーム」
(YOMIURI ONLINEより)

今まで何度か書いてきたことを整理して書きますが。

まず、岸田秀の「唯幻論」によると、人は“本能”の壊れた動物だそうです。
本能、つまり、特定の種の生物がみんな持っていて、それに従って生きていけば大過なく生きていけるある種の“プログラム”ですね。
それが人類においては壊れてしまっている。人類はみんなてんでんばらばらの“私的幻想”を抱え込んで生きている。

そのため、人類は“私的幻想”から共有化できるものを集めて“共同幻想”を作り、それによって社会を形成し、生きている。
しかし、“共同幻想”から取りこぼされた“私的幻想”は各個体の中でくすぶっていて、それは社会の不安定要因になっている、と。
(以上は私なりの岸田秀の思想の理解であり、岸田秀の思想を誤解している可能性が-大いに-あることはご承知おきください)

これからが私見なんですが。

この、“共同幻想”から取りこぼされた“私的幻想”の受け皿となることが“物語”の機能の一つではないかと思うのです。取りこぼされた“私的幻想”を“物語”の中で再度“共同幻想”化して、それにより、社会の不安定要因になっている、各人の中でくすぶっている“私的幻想”を安定させる機能が“物語”にあるのではないかと。

我々は社会良識に反する、“インモラル”な物語もまた楽しみます。じゃなきゃ犯罪なんかを扱った“物語”が読み継がれ、今も溢れかえってるわけないでしょう。人は単純にモラリスティックな存在じゃない。“光”と同時に“闇”も抱え込んでいるものだと私は思います。その“闇”の受け皿として“物語”が存在していると私は理解しています。そして、その受け皿があることによって、人の中の“闇”は(一応は)安定していて、“現実”にそれが出てくるのを防いでいる、と。

だから、その受け皿である“物語”を規制することは、人の心の“闇”のはけ口をふさいでしまう、かえって“社会”つまり“現実”に対して害をなす行為ではないかと思います。

ただ、私はもうひとつ「“ドン・キホーテ”問題」もあると思います。
騎士道小説の読みすぎで、“現実”と“物語”の区別がつかなくなったドン・キホーテ。
人はそうなってしまう可能性もあるかと思います。
ドン・キホーテが槍を抱えて突っ込んでいった相手が風車だから笑い話になるのであって、それが畑仕事をしている農夫だったら気違いの通り魔殺人です。

そこら辺をどうするかは私には解りません。ただ、単純な規制は良くないことであるとは思っています。

何よりも「人が心に思うことは誰にも止められない」のですから。

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