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2009/04/15

『知に働けば蔵が建つ』

『知に働けば蔵が建つ』(内田樹:著 文春文庫)
読了。

去年秋の帰省の時に読むつもりで買ってあった本ですが、荷造りの最終段階で荷物から出して持たずに帰省しました。ちょっと本を持ちすぎだと、重いと、もし読む物が切れたら現地で何か買えばいいやと思って。んで、先日部屋を片付けていたら変なところから出てきて、読んでみました。

内田樹は最近好きになった物書きさんです。「さかさま」的なセンスが好きです。現在の常識からは外れているような事を書いているように見えて、論旨を追ってみると実は至極まっとうな、常識的なことを書いていると。

例えば、現代の自由競争社会のこと。自由競争社会は結局、勝つ者は勝ち続け、負ける者は負け続け、「ごく小数の勝者」と「その他多数の敗者」を生み出すシステムでしかないという事。そして、“共存”という事が大切だという事とか。

ここらへんの“さかさま”感覚が好きです。寺山修司の“さかさま”を冠したエッセイ集に出会ったときのような爽快感がありました。行き詰まりを感じている自分、時代の閉塞を感じていてる自分、そういう自分に対して、「こういう物の見方をしたらどうかしら?」と、既存の価値観を軽やかにひっくり返してみせる部分、そこに爽快感を感じます。
そして、これからの時代、自分はどうあるべきかということもまた、内田樹のエッセイは教えてくれます。

本書は他の内田樹の本の多くと同じように、ネット上で発表された文章を再編集して作られた単行本が文庫化されたようです。2003~2004年ごろ書かれた文章になるみたい。

本書もまた面白く読めました。ただ、ちょっと難しい哲学的概念がチョコチョコ出てくる部分はどれだけ解ったか…。これは内田樹の本を読むたびに思う事ですが。

以下、印象に残った部分を少し引用してみます。

個人が塊(マッス)への溶解を拒否し、おのれひとりの単独性を引き受けること、それが「統合」への王道なのである。
(中略)
大衆はこれとは逆にこの「おのれの理解や共感を超えた他者との共生能力の欠如」を特徴とする。
大衆は理解と共感を共同体の基本原理とするものなのである。
(中略)
私たちの時代においても依然として終わりなきテロリズムや血腥い民族的宗教的対立やジェノサイドを駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質 的な者たちだけから成る閉鎖的集団へと共同体を浄化・細分化してゆこうとする欲望である。それは異属の排除であり、自他の差異化であり、他者とのコミュニ ケーションの拒絶である。
人々はある種の公共性の水準を構築し、そこで異属とことばを通わせようとする希望そのものをもう失っている。
彼らはどれほど自他を隔てる亀裂が深く、架橋不能であるかを言い立てことに理知的・情緒的リソースを集中させている。
現代においては「内輪」における親密感、一体感が過剰になると同時に「外側」に対する排他性・暴力性も過剰になっている。このふた色の過剰をオルテガは「野蛮」と呼んだのである。
(78-94p「貴族と大衆」)

「おのれの理解や共感を超えた他者との共生能力の欠如」という部分はちょっと頷けます。
“自分と異質な他者”に対する排除姿勢。例えばネット右翼的な物言いもそうですし、ファッショ的なレベルに達した一部の嫌煙運動とか。異質な他者との共存、か…。

本来、「文明」とは、「私とは違うもの」を「私たち」という一人称複数形のうちに包摂し、他者とのコミュニケーションしうるような公共的準位を構築する能力を指す。
このとき、私たちと他者との共生を可能にするのは、愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。
そうではなくて、公共的な水準に確保されたコミュニケーションのためのリアルで具体的な制度である。
(94p「貴族と大衆」)

私は、内田樹の言う“共生”が愛とか思いやりとか想像力とか包容力という「個人レヴェル」の資質によるものと考えていましたが、そうではないのかしら?

国民国家における市民社会はつねに「私と意見の違う人」「私の自己実現を拒む人」をメンバーとして含んでいるからである。
その「不快な隣人」の異論を織り込んで集団の合意を形成し、その「不快な隣人」の利益を含めて全体の利益をはかることが市民の義務である。
(181-182p「国益と君が代」)

快・不快原則でしか動かないこと(そういうのを「動物的」と呼ぶのかしら?)を越えること。難しいと思います。でも、そうしないと市民社会は成り立たない、と。ここらへんの認識、最近の“モンスター○×”と関わってくるような気がするんですが。世の中は自分の欲望をかなえるためにあるって、自分の図々しさを自覚せずにナチュラルに信じている人たち。つまり、市民社会とは真逆の方向にある人たち。

それは「弱者」という看板さえ掲げればドアが開くという状況に対する倦厭感があらゆるエリアで浸透しつつある事を意味している。
自分がトラブルに遭遇すると、まず「責任者を出せ」という他責的な口調ですごむ「弱者」たちで私たちの社会はいま充満している。
そして、その「弱者の恫喝」に苦しめられている人々もまた「弱者」戦略のブリリアントな成功を学習して、別の局面では自分もまた「弱者」「被害者」「無権利者」の立場を先取りしようとする。
(中略)
「弱者に優先的にリソースを分配せよ。だが、それを享受する『弱者』は私であって、お前ではない」と人々は口々に言い立てる。
この利己的な言い分に人々は(自分がそれを口にする場合を除いては)飽き飽きしてきたのである。
(243-244p「勝者の非情・弱者の瀰漫」)

ここらへんは痛感しますわ。被害者面した人間がのさばっていると感じると同時に、もし自分もその時になれば弱者面、被害者面するんだろうなとも思ったりもします。
いや、「弱者救済」がコンセンサスであることは決して悪くないとも思いますが。でも、なんか、被害者面ばっかりしてる人が増えてなんか居心地悪い感じもしています。

この世代(BUFF注:この文章が書かれた当時の四十代の事)の特徴は「デタッチメント」志向である。
面倒な浮き世のしがらみや、親族の葛藤や師弟やら同志的連帯やらのややこしい人間関係を好まれないという点を世代的な徴候としている。
(267-268p「四十代の構文」)

この「四十代の構文」という項はイタかったですな。確かに私も孤立志向がありましたし、あるし、でも、それじゃもうやっていけないとも薄々感づいております。

内田樹もチャンドラーとか読んでいらっしゃるようですが。私は探偵小説や冒険小説の独行型ヒーローに自分を擬する事によって孤立志向を通そうとしていたように思います。ただ、私はそういう生き方をするのには無理があった、無理をしていたと今になってやっと理解しました。ま、自分には無理な道を行こうとしてしくじるのはこれに限った事ではないのですが。しかしまた、人生の方向性について舵を大きく切る事ももう無理であるともわかってます。

という感じで、本書もとても面白く読めました。
また近いうちに他の本も求めようと思ってます。

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