映像の地下水脈#12
土曜日は高円寺のMatching Moleさんへ、。定例のかわなかのぶひろ先生の実験映画上映会、映像の地下水脈#12に行ってきました。
「映像の地下水脈」は、かわなか先生の旧作と新作1本づつ、あと、若手の作品という趣向の会ですが、今回はかわなか先生の旧作「私小説」1本のみの上映でした。
かわなか先生の新作は、ゴールデンウィーク中に開催される実験映画の祭典「イメージフォーラムフェスティバル」での上映が予定されていて、その準備でご多忙という事で。
あと、「映像の地下水脈」シリーズのチラシの原画の展示がありました。
今回上映された「私小説」は、かわなか先生の短編実験映画「私小説」シリーズのあと、ロングバージョンとして再構成された「私小説」です。96年製作の102分の作品です。サイレントです。
このロングバージョンの「私小説」を拝見するのは何度目になるかしら。最低でも3~4回、ひょっとしたら5回目くらいかもしれません。う~ん、日本で、いや、世界で、普通の観客としては「私小説」ロングバージョンをいちばん拝見している人間かもしれません、わたし。
「私小説」シリーズは、かわなか先生が日常的に8ミリを持ち歩いて撮影した映像を編集した作品です。8ミリカメラはかわなか先生がドイツに実験映画の上映に行った時に手に入れたもの。そのカメラで撮影した映像を、これもまたたまたま、かわなか先生が手に入れた古い、映像に独特の味が出るテレシネ(フィルムをビデオ化する機械だそうです)の機械を使ってビデオにコンバートしたものを素材にしているそうです。
その、独特のぼやけた映像が、まるで記憶の中の風景のような感触になってます。
日記的な、ある「物語」がある作品ではありません。断片的なイメージの集積のような作品です。普通の劇映画とかドキュメンタリーのように、「物語」を語る作品ではありません。そういったストーリーで動く、ストーリドリブンな映画に対して、イメージで動く、イメージドリブンな映画と私は呼んでいますが。
もちろん一般の劇映画とかドキュメンタリーでもイメージドリブンな部分はあるのでしょう。だから、同じようなお話を扱った映画でもハマれるのとハマれないのができてしまう。また、イメージドリブンな映画でも、ストーリーの一端をかすかに感じさせてくれる部分もあって。
だから、2極じゃなくて、割合配分なのでしょうが。
今回の、ロングバージョンの「私小説」には、かわなか先生の撮影された画像のほかに、かわなか先生が中古で手に入れた映像も使われてます。家族の、海辺の避暑地っぽい映像とか、駅の様子とか。だいぶ古いモノクロームの映像でした。
かわなか先生は「通底する記憶」とでも呼ぶべきものに興味を持たれて作品を拵えていらっしゃるようです。本作でも、人は孤独であるが、記憶は孤独ではないというようなテロップが入りますし。誰が見ても、実際に体験した事ではないのに、懐かしく感じる映像。
かわなか先生の実験映画を拝見したのはもう20年くらい前になるかしら?日本冒険小説協会でだいぶお世話になっていたので、お付き合いのつもりで見に行きました。たぶん退屈するであろうと思っていたのですが。
しかし、なぜだか、退屈せずに見てしまいました。
普通の劇映画みたいにストーリーがあるわけじゃなく、ハラハラドキドキのアクションシーンがあるわけじゃなく、かわいい女優さんはかっこいい男優さんが出演されるわけじゃなく、かわいい女優さんの裸が拝めるわけじゃなく。それなのになぜか退屈せずに見てしまったと。
そういう自分に戸惑いました。
たぶん、その、モンタージュの「息遣い」とでも呼ぶべきものが絶妙だったのかと。
そして、それは、実は、私が普通の劇映画を見ている時にも影響しているのではないかと改めて気づかされました。ハラハラドキドキのストーリー、目もくらむようなアクションシーン、かわいい女優さんやかっこいい男優さん、そしてドキドキのベッドシーン、そういう表立って目に映るものの陰にあり、それを支えている映像の息遣い。うまく説明できませんが。
という訳で、かわなか先生の上映会によく行くようになったし、実験映画をよく見るようになったのですが。
本作にはモチーフとして高尾霊園での寺山修司の納骨式、そして、寺山修司の母親のはつの納骨式が使われています。貴重な映像であります。
そして、会場には、映像の地下水脈シリーズのチラシの原画も展示されていました。独特のレトロな味わいのする絵です。こちらもまたよかったです。チラシは持ってないのが多いのでちょっと残念なのですが。
という方向で、ちょっとさみしい上映会でしたが、楽しみました。
イメージフォーラムフェスティバルでのかわなか先生の作品上映は30日のようです。
こちらも楽しみであります。
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