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2008/11/06

「現代詩」って何でしょう?

詩を書いてみたり、オープンマイクの会に参加してみましたが。いまいち“詩”というのがよく解ってない気がします。という方向で、「現代詩手帖」を買ってみました。ぱらぱらとめくってみても、知らない詩人ばっかりです。

詩集とかもあまり持ってないなぁ。先日、三角みづ紀さんの詩集3冊をまとめて読んだのが、ほんと、久しぶりに詩をまとめて読んだ経験です。あと持ってる詩集は寺山修司のとアルチュール・ランボーのと金子光晴くらい、あと福島泰樹の歌集があるか…。
人前でやるほどの知識があったのかしら?いや、そんなの気にせず、心の赴くまま、自由にやってみたらとも思ったりするけど。

無善法師さんの至言、「想いがあればテクニックなんて要らない」という言葉も、日比谷カタンさんの至言、「表現の実現に技術の習得は不可欠」という言葉も、両方思い起こします。
両者とも極地にある方だと思います。たぶん、私ごとき一般衆人はその間のスタンスにいるのでしょうが。

「現代詩手帖」を買ったけど、じゃあ“現代詩”って何?とも思います。
こういうときは安直にウィキペディア。

ウィキペディアによると「現代詩」とは、「近代詩の形式主義化、耽美化などへの反省により、20世紀初頭に生まれた詩をさす。現象学・実存主義に影響を受けた哲学的な内容、性や暴力など近代詩が扱わなかったタブーへの切り込み、日常とかけ離れた特異な言葉遣いによる異化作用、などが特徴的である。」だそうです。
そしてさらに同じくウィキペディアによると「近代詩」とは、「伝統的で文語的な定型詩では、近代人の自由な感情や意思を表現出来ないとし、日常語を用いた自由詩の事をいう。その内容も花鳥風月や英雄譚から脱却し、より日常的で社会的なものが好まれた。」
とか。

上掲のウィキペディアの記事によると「現代詩」の陥穽は、
「また、近代詩によって既に日常言語が手垢にまみれたものになったため、現代詩は奇抜な言語表現や隠喩に頼らざるを得ず、初期でこそ形式に縛られない独創的な表現が頻出したものの、その隠喩がまた手垢にまみれるにつれ、詩人はさらに新奇な表現を求めざるをえず、現代詩は難解で尖鋭的なものになってしまった。80年代から90年代にかけての、ねじめ正一や谷川俊太郎らの「ナンセンス詩」にその傾向の頂点を見ることができよう。

しかし、これら現代詩の手法もまた、形式化、固定化してしまい、現代人の心情からかけ離れたものになってしまった。詩作というものは、気軽に行えるものでも、ありのままにでもなく、奇怪で独善的な「詩的境地」に自己を落とし込まないと書けないという詩の矮小化が生じてしまったのである。」
という事にあるみたい。

「奇怪で独善的な「詩的境地」に自己を落とし込まないと書けないという詩の矮小化」というのが痛いですね。その「詩的境地」を共有できる人とは深く繋がれるのでしょうが、それができない者にはちんぷんかんぷんになってしまうかと。そこがリーディングを拝見していて私に「届いてない」と感じられる理由でしょうか?

いや、問題は、「届く」か「届かないか」なのですが。私にとっては。

やっぱりリーディングを拝見していて、私に「届いている」のと「届いていない」のとがあります。たぶん、「届いている」方、面白いと思える方を追いかけていけば何かが見つかると思いますが。

それはライブハウス通いを始めた頃のわたしの手法でした。まず、きっかけとなるミュージシャンさんがいて。これが私にとっては三上寛さんであり、なかおちさとさんだったのですが。対バンとかで面白いのを見つけたら、その方のライブに行ってみる、そしてさらに対バンで面白い方を見つければ…。という方向で、芋づる式に自分が面白いと、良いと思える方に出会ってきました。ただ、きっかけとなったなかおさんのライブはほとんど行かなくなってしまったし、途中で出会ってよくしていただいた方々のライブにも行かなくなってしまったのが心苦しいかぎりですが。

ただ、リーディングの世界ではまだそういう芋づるを辿れるようにはなっていません。だから、ライブハウス通いを始めた時は、特に音楽雑誌を講読し始めたりはしなかったのですが。死の世界はどうもよく解らなくて、「現代詩手帖」に手を出してみたわけです。

あと、投稿とかもしてみようかなと思ってます。そうすれば自分の書いたものがどのくらいのものか、ある程度は客観的に評価してもらえると思いますし…。

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