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2008/10/09

『落語の国からのぞいてみれば』

『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎:著 講談社現代新書)
読了。

以前、堀井憲一郎の『若者殺しの時代』(講談社現代新書)を読みました。「若者市場」の発明と発展。-若者を消費活動に駆り立てるカタログ&マニュアル雑誌の誕生とか、若者向けの商品の誕生、クリスマスの商業主義化、そして、恋愛の商品化、などを紹介し、そして、行き着いてしまった消費社会が時代の閉塞に向かっていく様子を活写した本でした。

今、ひとつの時代の終焉を迎えつつあると語る堀井憲一郎、そこにふっと

いまの若者は、とりあえず大きなタームの尻っぺたにいる、ということを感じていればいい。
すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。
うまく、逃げてくれ。
(中略)
外へ逃げると捕まるなら、だったらおもいきって逆に逃げるってのはどうだろう。
内側に逃げるのだ。
それが、“日本古来の文化”を身につける、ということなんだけど。
都々逸。古武道。落語。
文化というのは、たとえばそういうものだ。(194-195p)

というくだりがあって。唐突に落語とか出てきて、「なんで時代の終焉を乗り越えるのに落語なんだ?」って思いました。あとから堀井憲一郎はたいへんな落語ファンだと知って膝を叩いた次第。

で、本書も読んでみる事にしました。本書は落語について語った本とか落語研究本ではありません。かなりの落語に関する知識が本書の背後にあることは簡単に察しがつきますが。

腰巻にある、「時間の感覚、死生観、恋愛と結婚、酒…/今の暮らしは、どこかヘン!?」という惹句が本書の内容をすべて表していると思います。
落語を通して江戸時代の人々の暮らしやメンタリティを紹介し、現代社会に生きる我々の暮らしやメンタリティを逆照射しようという内容です。そして、そのことが、ひとつの価値観に凝り固まって閉塞感を感じている、“現代”に暮らす我々に「こういうものの見方もあるのだよ」と教えてくれる内容になってます。

目次は、
まえがき
第一章 数え年のほうがわかりやすい
第二章 昼と夜とで時間はちがう
第三章 死んだやつのことは忘れる
第四章 名前は個人のものではない
第五章 ゼニとカネは別のものである
第六章 五十両で人は死ぬ
第七章 みんな走るように歩いてる
第八章 歩くときに手を振るな
第九章 生け贅が共同体を守る
第十章 相撲は巨大人の見世物
第十一章 見世物は異界の入り口
第十二章 早く結婚しないといけない
第十三章 恋愛は趣味でしかない
第十四章 左利きのサムライはいない
第十五章 三十日には月は出ない
第十六章 冷や酒はカラダに悪い
あとがき
参考文献的おもしろかった本解説
登場落語の解説
落語索引
という按配です。

本書で語られる「江戸時代からの現代社会への逆照射」はいくつか大きなテーマに分けられると思うのですが。
まず、一番大事なのは、「江戸時代は現代みたいに“個”が最重要視されている時代じゃなかった」という事かなと思います。
例えば“屋号”という考え方。同じ名前が代々受け継がれていくという考え方。○代目×屋△兵衛みたいな名前のあり方、ですね。個が最重要視されず、時には人柱みたいに個が共同体の犠牲にならなきゃならない。

もちろん現代は“個人”がいちばん大切にされる価値観の時代、私もそっちの考え方のほうが正しいとは思いますが。

でも、そのせいで現代においては“死”がもっとも忌むべき事とされている、と。まぁ、昔も死は忌むべきもんだったんでしょうが。でも、現代の死は「死を受け入れる智恵」無き死ですから。かつては共同体の一員という自覚が、自分の死の後もその共同体は続いていくという思いが、死の恐怖を和らげてくれたのでしょうが。でも、そのせいで、場合によっては個人は共同体の犠牲として死んでいかなくてはならない羽目にもなって。

もちろん宗教もかつては死後の世界を約束してくれるシステムでしたでしょうし。また生前に善行を積めば極楽へ、悪行をしでかしたら地獄へ、というシステムが現世での人の行動をモラリスティックにしてくれてましたけど。でも現代では宗教も“個”を縛るものとしてその力を喪い、そして人の死への恐怖はいや増しています。

どっちの価値観がいいとは一概には言えませんが。

恋愛と結婚観についてのお話しもおもしろかったです。昔はご隠居さんとか大家さんの勧めで気軽に所帯を持ったもんだと。そして、恋愛なんて別世界、憧れの世界のものだったと。
現代の恋愛結婚システムはあぶれを大量に生み出すものだと。

ただ、本書で語られるみたいに江戸時代の江戸は気楽に所帯を持てた時代じゃないはずですが。江戸時代の江戸の男女比は、地方出身者の男性が大量に江戸に流入してて、男性のほうがだいぶ多かったそうですし。堀江憲一郎がその事をご存じないはずはないので、意図的に無視されていると思います。

昔は所帯を持つチャンスがあれば所帯を持たないとなかなか所帯を持てなかったから、持てるチャンスのある時にここぞとばかりけっこう気軽に所帯を持ったという部分があるのかもしれません。

いや、ま、かつては所帯を持たないと家事とか色々大変だったのでしょうが。例えばご飯ひとつ炊くのも井戸から水を汲んで、お米を研いで、カマドに火をおこして。炊いてる間も付きっ切りじゃないといけない。今だったら無洗米と水道水、あとは電気釜のスイッチポンだし。それで所帯を持つ必要性が薄らいできたと。

堀井憲一郎の落語を縦横無尽に引きながら江戸時代を紹介し、現代社会を逆照射する様子、凄いです。ほんとたくさんご覧になってるのだなと。それが惜しげもなく投入されています。なんていうのかなぁ、でっかい魚をこれ見よがしに丸ごと出してくるんじゃなくて、惜しげもなく小さな切り身にして作中にばら撒いてるって感じ。
堀井憲一郎はもともと関西出身の方で今は東京暮らしらしくて、上方落語も江戸落語も縦横に引用されています。

独特の語り口もいいです。70~80年代の若者向け雑誌の独特の語ってくるような文体の香りを残しつつ、独特の語り口を感じさせます。

まだだいぶページが残っているのに、「あとがき」がでてきてびっくりしました。巻末にはかなりの紙幅を取って参考文献の紹介と落語の紹介をされています。
「参考文献的おもしろかった本解説」では、箇条書きで参考文献のリストを載せるのではなくて、エッセイ仕立てにしていますし。「落語索引」では本書に紹介された落語の、録音のいいのと、現在その噺をやっている落語家さんでおススメの方を挙げています。

最後になりましたが、本書は、単純な江戸礼賛本ではありません。
「まえがき」できっちりと

ただ、江戸の昔がよかったという噺をしたいわけではない。
逆に、江戸の昔より、現代のほうがすごく幸せな生活だともおもえないのだな。

と釘を刺されています。まぁ、ナイーヴな「江戸礼賛本」がけっこうあって、それに対する批判もあるみたいですから。

うん、江戸時代には江戸時代の楽しさと苦労が、現代には現代の楽しさと苦労があるのでしょう。そして、両者のいちばんの違いは、現代はその楽しさがたくさんの消費、資源の浪費で成り立っているという事でしょう。それで地球環境は危機に瀕しているそうですけど。

そして、先日読んだ大塚英志&東浩紀の対談集『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)にあった東浩紀の「それこそ、産業革命以降、数世紀のあいだ人類はかなり無理をしてきている。」という発言がリンクしてくるかなと。

産業革命以降、“経済の奴婢”として疲弊してきた人類。その積もり積もった“無理”のせいで、現代社会は閉塞を迎え、そして今、音をたてて崩れつつあるのかもしれない。その時、江戸的な、産業革命以前の物の見方が何か突破口を探すヒントになってくれるのかもしれません。それが堀江憲一郎が『若者殺しの時代』に書いた、上で引用した文章の意味となってくるのでしょう。

『落語の国からのぞいてみれば』、おもしろく読めました。私みたいな落語半可通くらいの人間にぴったりかもしれません。

しかし、江戸時代の歩き方ってのは身につけてみたいものですな。

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