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2008/09/03

『リアルのゆくえ』

『リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるのか』(大塚英志+東 浩紀:著 講談社現代新書1957)
読了。大塚英志と東浩紀の対談集です。

目次は
はじめに-世代間闘争について
第一章 二〇〇一年-消費の変容
第二章 二〇〇二年-言論の変容
第三章 二〇〇七年-おたく/オタクは公的になれるか
終 章 二〇〇八年-秋葉原事件のあとで
あとがき 東浩紀

というかたちになってます。「はじめに」は2008年7月1日付でふたりの対談形式。
あとがきは最初は大塚英志の文章に東浩紀が応えるという形だったそうですが、出版前に大塚英志側が文章の削除を求め、東浩紀名義の文章のみが収められています。
終章は刊行直前に緊急的に収録されたのでしょうか?短いです。

大塚英志を初めて読んだのはもう20年くらい前になるかしら。『システムと儀式』『物語消費論』あたり。あの頃はまだバイトで、倉庫の昼休みやトラックの助手席とかで読んだ記憶があります。

どこまで理解できたかは自信がないけれど、面白かったです。初めて「時代を読み解く」という知的興奮を味わったせいかな。それとやっぱり自分が抱え込んでしまっているものへの理解の端緒になったような気がして。

なんかあの頃のわたしは、自分がなんか変な存在、畸形のようなものと思ってましたけど。時代の流れを見て、いろいろ本も読んで、時代が生み出した一類型なのかもしれないなぁと思うようになりましたけど。

東浩紀を読み出したのは、ネット上で文章を読んだことはあるけど、本をきっちりと読んだのは、先だっての『動物化するポストモダン』が最初でした。コジューヴの「人は他者の欲望を欲望する」とか、ちょっと解りづらい部分も多かった本だけど。

でも、大塚英志の本を読んでいたせいで解った部分もあるし。だから、わたしの中では大塚英志の延長上に東浩紀があるような感じでしょうか。

そういうわけで、おふたりの対談ということで、本書を手に取った次第。

本書をどれだけ理解したかは自信がありませんが。
ただ、目につくのは、大塚英志が東浩紀に絡みまくるところです。もちろん予定調和の仲良しごっこな対談よりなんぼもマシですけど。
だいたい、「はじめに」でも、東浩紀が、

世代が違う二人が、意見がまったくすれちがいつつも同じような軌跡を辿った記録として読むと、この対談集がまた違った読みができると思います。

とお書きになっています。

“世代”として考えると、私は大塚英志のちょっと下、東浩紀の少々上、になります。だから大塚英志のメンタリティーに近いのかしら。学生運動の残り香はまだ残っていて。「私たちの力で世の中は変えられるんだ」という理念を、学生運動の挫折は目にしつつも、まだある程度は信じていられた世代かもしれません。たとえ、「私たちの力で世の中を変えることなんてできない」と思っていても(私はこっちの立場に近いですが)、それは、「私たちの力で世の中は変えられるんだ」というテーゼに対するアンチテーゼとして持っているかと。

例えば、東浩紀の年代が「私たちの力で世の中を変えることはできない」という思いを持っているとしても、それは「世の中を変えることができる」という思いに対するアンチテーゼとしてではないかたちで持っているかと思います。

ここらへんで吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文春文庫)から引きましょうか。
1989年暮、ベルリンの壁崩壊。壊されていく“壁”について書かれたくだり。

西と東のベルリン市民たちが、そして、遅ればせながら私がたしかな手ごたえとして感じとったのは、現実は変わりうるということ、いや、現実は変えられるのだという確信だった。(『M/世界の、憂鬱な先端』22p)

私は日本を思った。私の国のことを思い起こしていた。そいつが言うのが聞こえた。
ここには日本の入り込む隙がない、とそいつが言った。(23p)

あちこちで大衆社会が生まれ、消費社会が立ち上がり、新中間大衆がどっとやってきて、やがて焼けたフライパンの上で、歴史が終った、お金儲けはゲームだ、ネアカが一番、グルメが最高、ブランド大好きと浮かれ出す。
(中略)
その先に、私の国がある。薄くスライスされた、いま、ここ、というだけの社会。新しくなることは豊かになることで、豊かになることは過去から自分を切り離すこと。
(中略)
世界の、憂鬱な先端。(上掲書45-46p)

いや、変なリンクのさせ方です…。閑話休題。

単細胞な理解かもしれませんが、大塚英志は「言葉を届ける事によって世の中を変えることができる」と信じていて、東浩紀は「言葉は届けることができるかもしれないが、それで世の中を変えることはできない」という立場なのかしら?だから大塚英志は東浩紀にいらだち、絡んでいったのかと。

東浩紀はご自身のブログのhttp://www.hirokiazuma.com/archives/000445.htmlの記事でも、福田首相辞任に際して「こうやって国は滅びるのだなあ。」と述懐されておりますし。あるぶぶん諦観していらっしゃるようですし。

あたしとしては大塚英志にある程度賛同しつつも、東浩紀の諦観に近い思いを持っています。
しかし、国が滅びたって人類絶滅なわけじゃなし。そこをどう生きるかが大事なのかなぁと思ってもいます。どうやって衣食住を確保し、何を“幸せ”として生きるか。

その頃にはもう時代の動きに私はついていけなくなってるから。その時は塩の塔になってしまう人間なんだと思いますが、私は。でも、できたら、ですが、新しい時代に脱出していく若い衆のために援護射撃ができたらなぁとは思います。
まぁ、日本の周辺にはまだまだ“モダン”で生きている人々の国があり。その国に攻められたら“ポストモダン”の国なんてイチコロじゃないですか。そういうのが気がかりですが…。

さて、あとは印象的な部分を断片的に紹介します。ほんとはトータルとしての“読解”のほうが大事だと思うのですが…。

大塚 「ぼくたちの年代が一九七二年を問題にしているのも、いま日常的とされている光景が、そこに出揃っているからなんだよね。」(75p私が括弧をつけました。以下同。)

ここらへんは先だって読んだ坪内祐三の『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(文春文庫)でも論じられていた部分。そして私が昭和40年代にこだわる部分かと。

 「反動といっても、大きな話だと思うんです。それこそ、産業革命以降、数世紀のあいだ人類はかなり無理をしてきている。」
大塚「楽な状態に戻ろうとしていることなわけ?」
 「かつて人類は文化人類学的な記号を介して世界と繋がっていたけれど、近代はそれを脱魔術化してしまったので世界と人間が直にぶつかることになった。さすがにそれは問題なので、クッションとして持ち出してきたのが「大きな物語」や「象徴界」、つまり共産主義やナショナリズムのようなイデオロギーですね。しかし、この戦略も社会の複雑性がある閾値を超えると無理になり、ポストモダン化が始まる。そこで新たに登場するのが、前近代の神話的な世界観に似てはいるが、歴史というより「商品」に支えられた別の世界認識の方法だと。そういう捉え方です。(162p)

 (前略)「今後の社会では、近代がやっていたことのうち、相当のものが消えていく。そのときに、何が無理じゃないことで、何が無理なことだったのかを、区別していかなきゃいけない。(284)

“経済”がのさばって、人が経済の贄になっている社会。“経済”に人々が振り回され、疲弊している今の世の中、だと思います。

(前略)「むしろ厄介なのは、心理的な問題です。たとえばワーキングプアの本を読むと「心のワーキングプア」などという言葉が出てくる。何か知らないけどきつい、何か知らないけど将来に希望が持てない。そうやって悩んでいる人が多い。これはこれで難しい問題だけれど、本来は経済格差の問題とは切り離して論じるべきです。ところが、どうも今は経済的な問題と心理的な問題がごっちゃになっていて、ワーキングプアから抜け出すためには、生き甲斐を与えてくれるきちんとした会社に雇用されるべきだ、みたいな話になっている。
ぼくは、この手の問題は、心理的な問題なんだから心理的に解決すべきだと思います。その裏にあるのは、「規範的な家族意識や人生設計」といった、高度経済成長期に日本が効率よく経済発展するためにつくりあげたシステムが、まだ亡霊のように生きていて、それが若者達を強迫観念的に縛り上げているという構造です。
いまの日本という国が、大量の若い正規雇用を現実に受け入れられないという現状がある以上、ぼくたちは、正規雇用じゃないとダメだとか、正社員じゃないと人生が不安定できついという発想そのものを変えなきゃ行けないんです。ちょっとふざけて言うと、もっとラテン系に、お気楽に生きててもいいという発想にならないといけないわけですよ。
大塚「でもそれだと、さっきのルサンチマンの問題と同様に、経営する側の論理と凄く整合性が出てきてしまう。」(194-195p)

大塚「さっきのニート論壇の話の中でも、個人の実存みたいなことが、社会的に承認されたいことと経済的に承認されないことと、二つの問題があったじゃない。社会全体がコミットできるのは、いわば後者の部分だよね。じゃあ、個人としての実存が自分としてつくれない、承認してもらえない、それに関しては、そこに耐えていくしかないわけでしょう。
 「原理的にはそうです。ただ、それはけっこう難しい問題です。
秋葉原の加藤智大の場合、派遣労働問題が注目されていますが、労働がキツかったから、あるいは解雇に怯えていたから犯罪を犯したという単純な話ではない。ネットへの書き込みなどを見るに、彼を蝕んでいたのは、経済的問題よりむしろ心理的問題です。いまの自分は本当の自分ではない、誰からも承認してもらえない、という鬱屈感が動機の中心を占めている。そして実際、そこに共感した若い世代が大勢いた。言いかえれば、秋葉原事件の意味について考える場合、富の問題よりも尊厳の問題が大きいわけです。
そういうとき、尊厳の調達まで社会が面倒見てあげられないよ、というのはまずそのとおり。でも、その線をきっちり引いたうえで、にもかかわらず尊厳を個人的に調達できない人間がこれほど増えてしまった、それそのものは社会問題として扱っていいと思うんです。だからぼくは、大塚さんのように、若い世代を抑圧し、一人一人の心を強くしていこうとは言えない。(316-317p)

私も私自身を「心のワーキングプア」だと思います。承認、自我の安定というのを持てずにいる。もちろん経済的な不安もありますが。

しかし、だからといって「<やりがい>の搾取」には捕まりたくもありません。カリスマ的な経営者の“信者”として不当な低賃金労働に甘んじる労働者にはなりたくありません。
mixi日記であるカリスマ経営者が不払いだった残業手当を払ったと報じられたとき、それに対するmixi日記に「そんなのどこでもやっていること」「告発されてかわいそう」「払ったんだからいいじゃないか」なんてのがたくさんあって驚きましたが。

もういちど書きますが。

まぁ、ほんと、私はこの国が、世界が、滅びかけていると思います。それは私のポジションだからこそそう感じるのかもしれませんが。ただ、国や世界が滅びたって人は残ります。その人たちが新しい価値観の中で幸せに生きることを望みます。私はもう新しい世界に間に合わないだろうけど。でも、ほんと、若い衆が新しい世界に脱出しようとするなら、援護射撃ができたらいいなと思っています。

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