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2008/08/19

『女は何を欲望するか?』

『女は何を欲望するか?』(内田樹:著 角川ONEテーマ21 A-79)
新書です。読了。2002年に径(こみち)書房から出された単行本の「仕立て直し」だそうです。

本書の目次ですが。大きく二部構成になっています。

新書版のためのまえがき
まえがき-フェミニズムについて私が知っている二、三の事柄
Ⅰフェミニズム言語論
弟一章 「女として語る」ことは可能か?
第二章 フェミニズム言語論の基本構制
第三章 女性と言語-ショシャナ・フェルマン
第四章 「女として書く」こと
Ⅱフェミニズム映画論
弟一章 エイリアン・フェミニズム-欲望の表象
第二章 ジェンダー・ハイブリッド・モンスター
あとがき
新書版のためのあとがき

なんかナンパテクニック指南書というか、女性向けの商売の本というか、そんな感じのタイトルですが。
中身自体は「新書版のためのまえがき」にありますが、「かなり学術的なアプローチによるフェミニズム批判」の本であります。
フェミニズムはあまり知りません。「男社会の犠牲になってきた女の権利を守れ」というようなことだろうとはかすかに理解しますが。それに、ちょっと難しそうだったので、どれだけ理解できるか判らないし、手を出そうかちょっと迷って買った本です。興がのるまで読み進むのが苦痛でしたけど、興が乗ってくると面白く読めました。

ほんと、本書をどれだけ理解できたかどうか自信はありませんが。例えば今、本書の内容について小テストがあれば、赤点を取ってしまうかと思いますけど。でも、面白く読めました。

本書はフェミニズムを批判していますが、真っ向からフェミニズムを叩き潰そうという本ではありません。

以下の論考は、そのような「フェミニズムの退潮」という思想史的文脈の中にあって、その最良の文化的成果は何だったのだろうという問いを軸にして書かれたものである。それは「難破しかかった船から持ち出せるだけの財宝を持ち出そうとしている」乗客のふるまいに似ている。
船が沈むことは私にはもう止められない。しかし、船がこれまで運んできた「財宝」をいっしょに沈めるわけにはいかない。「とにかく持ち出せるものだけは持ち出して、使えるものは使い続けましょう」というのが私のフェミニズムに対する基本的な姿勢である。
(p18「まえがき」より)

という方向で、フェミニズムの成果については認めています。
そして、なぜ「フェミニズムの退潮」が起きてしまったかというと。

それは別にフェミニズムの理説がどこかに致命的な誤謬を抱えていたからでもないし、歴史的状況が重々しくその破産を告知したからではない。フェミニズムは私たちの社会の制度の不正と欠陥をいくつか前景化させたし、性差が私たちの思考や行動を思いがけないところで規定していることも教えてくれた。その限りでは生産的な社会理論であったと私は思っている。
しかし、フェミニズムには根本的な「難点」があった。それはあらゆる社会理論が陥る、ほとんど構造的な「難点」である。
ひとことで言ってしまうと、フェミニズムは「あらゆることをその理論で説明できる」という全能感をもたらした、ということである。
すぐれた社会理論は、そのような全能感をその信奉者に贈ってくれる。マルクスの理論もフロイトの理論もレヴィ・ストロースの理論もフーコーの理論もその点では変わらない。
この全能感は私たちを高揚させ、幸福にし、そして節度を失わせる。
(9p「まえがき」より)

というところが原因だそうです。ここらへんは先日読んだ「ためらいの倫理学」の

私は「正義の人」が嫌いである。
「正義の人」はすぐに怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義の人」は怒る。
「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」を批判するということは、ただちに「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることのあかしである。
「正義の人」はまた「世の中のからくりのすべてを知っている人」でもある。「正義の人」に理解できないことはない。
思えば、私のこれまでの人生は「正義の人」との戦いの歴史であった。
(『ためらいの倫理学』(角川文庫版)140p「アンチ・フェミニズム宣言」より)

あたりにも通じるかと。正義で暴走した人たち。

この、内田樹のスタンスはまた私が内田樹の書物を受け入れるゆえんでもあります。そしてもちろんその思想パターンは他者に向けられるだけではなく、自省にも向けられます。「自分突っ込み」の視点ですね。私はその視点を持ちたいと思いますし、そういう視点を持っていない人に対するのは苦手です。「自分正義」で突っ走って自己陶酔している「オレオレ」な奴は嫌いです。
そういうスタンスは、とても不安定なものだと思いますが、そういう不安定さをこらえていくのが正しいことかと思います。

そういった前提での内田樹のフェミニズムに対する立ち位置は、

フェミニズムは私の「宿敵」である。「宿敵」という以上、この論争は「どこまで行っても決着がつかない」ということである。私が「フェミニズムを完全に論破した」と思うことは絶対に起こらないだろうし、私が「フェミニズムに完全に屈服する」ということも起こらないだろう。それは私が「フェミニズムは正しい、でも間違っている」というあいまいなポジションにいるからである。(214p「あとがき」)

という事です。維持するのに大変なポジションと思いますが、でもそういうスタンスが正しいと思います。「フェミニズムは正しい、でも間違っている」という認識。言いえて妙だと思います。

内田樹は合気道をなさっているそうですが。
内田樹の感覚、巴投げ感覚というか、合気道感覚というか、そういう感じがします。いや、合気道をはじめ、武術というか、スポーツ全般詳しくないのですが。

さて、本書の内容は。

本書は2部構成になってます。まず、第Ⅰ部の「フェミニズム言語論」から。

私はフェミニズムについてよく知らないのですが、言語論的に見たフェミニストの主張に、
「女は『男の言葉』を強制されてきた、女性が真に自分たちについて語るなら、『女性自身の言葉』を創出しなければいけない」というテーゼがあるようです。
そのテーゼのフェミニスト達による展開を、他の哲学者の思想を交えながら紹介し、その「正しさ」と「限界」を論考したのが本稿であるようです。

ほんと、私はフェミニズムについてよく解らないし、哲学的思弁能力も低いと思いますが。でも、面白く読めました。これが「まえがき」にいう“船が運んできた「財宝」”なのでしょう。

はっとさせる指摘もありました。

人間が糧とするのは、食物や生理的安息ではない。人間は他者に愛され、承認され、他者の欲望の対象となることを糧として生きるのである。それが「人間の欲望は他者の欲望に向かう」というというテーゼの意味である。(48p)

「人間の欲望は他者の欲望に向かう」はコジェーブという人の論ですが、まず最初に岸田秀の本で読み、それから東浩紀の『動物化するポストモダン』にもあり、なんか私が読んできた本でよく出会うフレーズです。読んでいてちょっと難しい考え方だったのですが。その前提として「人間は他者に愛され、承認され、他者の欲望の対象となることを糧として生きるのである」というフレーズが加わるのですね。

「私」のリアリティとは、つきるところ「他者による持続的承認」によってのみ支えられている。私自身の実在の自明性が私自身に「自己-現前」して「私」のリアリティが直観的に確証されるというようなハッピーなことは人間の身には決して起こらない。(126p)

人は愛され、承認されなければ生きていけないというのは痛感しますし、ちょっと解ってきたかなと思いました。

「私」のアイディンティティを維持することが「真実を語る」ことよりも優先順位の高い課題であるならば、私たちは喜んで嘘をつくだろう。それは性差にかかわりなく、すべての人間が日々行っている当たり前のことなのである(127-128p)

これは寺山修司の「作りかえられない過去なんてない」「事実は人間なしでも存在するが、嘘は人間なくしては存在しない」という言葉が好きな私にとってはまったく我が意を得たり、と思います。

まぁ、じゃあ、トータルで第Ⅰ部をどれだけお前は理解したのか?と問われると、言葉に詰まりますけど。

ん、ところで、漫画とかアニメとか美少女ゲームで女の子が「はわわ」とか「うぐぅ」とか言いますけど。これってひょっとしたらフェミニズム言語なのかなぁ。「男性の言葉」しか持ちえない男にとってはそういう風なフレーズになってしまうのでしょうか。何を言っても「バルバル」としか聞こえないから蛮族を「バーバリアン」と呼ぶようになったように。

第Ⅱ部は「フェミニズム映画論」であります。

第Ⅱ部ではある都市伝説の紹介から話が始まっています。

欲望がありながら、倫理や慣習がそれを意識し表現することを固く禁じているとき、人はその欲望を迂回的に表現した物語を必要とする。都市伝説はそのような欲望が要請した物語群である。(149p)

シェクターによれば、都市伝説は二つの要素から成っている。一つは人類全体に共通する「元型的な空想」あるいは「集合的無意識」である。もう一つは「特定の時代・場所における関心と不安」である。
「元型的空想」と「歴史的・場所的に条件づけられた不安」とがリンクしてはじめて「ポピュラー」な都市伝説は成立する。そして、そのような都市伝説の機能はなによりも大衆の「抑圧された欲望」に「物語」としての表現を与えることにある。(151p)

そして、その、「都市伝説」として『エイリアン』シリーズを取り上げます。

私たちが注目するのは、十三年間三作にわたるこのシリーズをつらぬく「不変の」元型的空想ではなく、むしろ映画を取り囲む社会感受性の「変化」である。(151p)

『エイリアン』シリーズは「体内の蛇」という古来より伝わる都市伝説元型があったとか。不注意により体内に蛇(あるいは蛙、山椒魚、蜥蜴とか)の卵を体内に取り入れ、卵が孵り成長し、ある日その蛇や生き物が体外に出ようとして、そのとき宿主だった人間はしばしば致命的なダメージを受ける、というような話のようです。

それは性交と妊娠と出産のアレゴリーのようで。やっぱり改めて驚きですが、人間にとって“繁殖”とは、しばしば恐怖の対象だったようですね。まぁ、医学が進んでない頃、出産はかなりの死の危険を伴うものであったようですが。そういった死の危険を恐れるという意味以上に性交-妊娠-出産というものに対する畏れはあるのかもしれません。

二次絵エロサイトを覗いたりします。そこでの男のファンタジーとして、女を強姦して性器に射精し、孕ませる、という話をよく目にします。そういう話に興奮を覚えるという部分が男にはあるのかもしれない。いや、私も男ですが。性交-妊娠というのは、男の征服欲、暴力欲といった瞑い衝動に絡んでいるのかもしれない。いや、動物でも求愛行動と攻撃行動は似ているという話も読んだことがありますし。

この元型説話は「生殖」という生物学的宿命そのものに対する女性の恐怖と嫌悪を表している。「母」とはどのように神話的に脚色しようと、つきるところ「男」が自己複製をつくるための「道具」にすぎないと、この物語は教えているのである。
生殖に対する恐怖と嫌悪をあらわに示し、男性の自己複製の道具となることを拒絶することが厳しく禁圧されるとき、無意識の領域に追放された欲望は必ず「物語」を迂回して「検閲の番人」の監視をくぐり抜け、意識の表層へと回帰してくる。そのようにして「体内の蛇」話型は誕生し、世代を超えて語り継がれてきたのである。
リドリー・スコットが伝承的な話型を意識的に採用したのか、それとも「恐ろしいエピソード」を求めているうちに、無意識的に古典的な恐怖譚に回帰してしまったのか私たちには判定できない。しかしすぐれたストーリーテラーは自分の個人的な無意識を集合的無意識と通底させる才能に恵まれている。(155p)

『エイリアン』1作目では、

七九年作品である『エイリアン』は主人公にアグレッシヴな顎とボーイッシュで屈強な体躯の持ち主である新人女優シガニー・ウィーヴァーを起用した。それまでのハリウッド・スターのカテゴリーにはあきらかに収まらないこの女優は「新しい女性」を描こうとする製作者の期待に応えて、フェミニズム興隆期におけるアメリカの若い女性たちの上昇的なはりつめた気運をみごとに表現してみせた。(157p)

そして『エイリアン2』では、

かくして、「外で働く女性」リブリーが「出産育児の専門家」である女王エイリアンを叩き潰して映画は終る。
ロビン・ロバートはこの映画が「二つの母性の葛藤」であることを正しく指摘した上で、これが「明確にフェミニズム的な映画」であると賞賛している。(170p)

しかし、『エイリアン3』では、

自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。
ファルスと闘う女性はすべてを失う。
これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていないのである。(180p)

また、「抑圧された欲望」の「物語化」である映画には、さらに「抑圧」があって。そこから、明示的と暗示的というか、光と闇というか、二面性が生まれるようです。

今日のアメリカ社会はハリウッ ド映画に対して法外なほどの「政治的正しさ」(political correctness)を要求している。女性差別、人種差別、民族差別、宗教差別、障害者差別……、あらゆる種類の差別は許すべからず社会的不正として 断固として映画から追放されねばならない。
(中略)
しかし、いかにコレクトなフィルムメーカーとはいえ、必要以上に立派にふるまえば、そ れだけ抑圧するものは多くなる。そして、表現を拒まれた欲望や不安は「症候」として映像に回帰することになる。これらの「症候」は、表層的にはポリティカ リーにコレクトな設定で展開する映画の周縁あるいは細部に、ストーリーともテーマとも関係のない映像記号としてさりげなく露出している。
(中略)
映 画のイデオロギー性の査察を専門にする知的な批評家たちは、映画のプロットや主題や主人公の性格設定や監督のメッセージなどに焦点を合わせて映画を「批評 的に」見る。彼らはスクリーンの「背後」にあるメッセージや、「隠された主題」の検出に意識を集中させている。それに対して、普通の観客は、映画のテーマ にもストーリーにも登場人物の内面にもほとんど関心を持たない。彼らはただぼんやりとスクリーンをながめているだけである。けれども映像の背後を見透かす 集中力に欠けている代わりに、彼らは映像の表層に露出する症候には敏感である。(186-187p)

ということのようです。ややこしいですなぁ。

「人は”物語”を必要とする」というテーゼを持ってます、私。それがどんなにインモラルで邪悪なものであっても。それは「抑圧された欲望」、岸田秀的にいえば「“共同幻想”に取りこぼされた“私的幻想”」かな、それの受け皿だと思いますし。
例えば今、児童ポルノ禁止法が“改正”されようとしていますが。私は必ず被害者がいる実写ものは禁止すべきと思いますが、厳しく取り締まるべきだと思いますが。でも、二次元、つまり、「物語」に関しては禁止すべきではないと思っています。「物語」は「抑圧された欲望」のはけ口だから。

もちろん「ドン・キホーテ」問題はありますが。何度か書いていますが、ドン・キホーテが槍を携えて突っ込んでいったのが風車だから笑い話になるのであって、そこらへんの農夫だったら気違いの通り魔殺人になりますもの。
「物語」を「現実」に持ち込もうとする行為をどう考えるか、どう予防するかは大事だと思いますし、それに対する処方はいいアイディアが思い浮かびませんが…。

いや、閑話休題。

しつこいくらい書いていますが、私は本書をどれだけ理解できたか自信はありません。でもけっこう面白く読めました。まぁ、読み終わると同時にだいぶ忘れちゃいましたが。この感想文も付箋を貼ったところを再読して再構成していますし。

私の心の底のどこかに糧として何か残ってくれたかしら?そうだと嬉しいのですが…。

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コメント

BUFFさん

図書館にこの新書版の「女は何を欲望するか?」がありましたので読んで見ます。また面白い本があれば紹介ください。
最近は新しい本は買わずに全て図書館に頼っております。人気のある本は予約して半年とか長いものは1年後ってこともありますが普通は1~2ヶ月程度で読めますので。ちなみにこの本は人気ないのかすぐに借りる事が出来ました。インターネットで予約や本の検索ができてすごく便利です。有料ですが国会図書館の資料も必要な部分をコピーして送ってくれる時代ですからね。
段々とインターネットが無いと生活がし辛い事になってきました。

投稿: よっちゃん | 2008/08/19 06:59

◎よっちゃんさん
内田樹はおススメであります。
本書は難しかったのですが、軽めのエッセイでもはっとさせられる事が多いです。
あと、ブログ
http://blog.tatsuru.com/
もおススメです。エッセイ集はブログに書いたことの再編集物が多いので、こっちをこまめにチェックするのもアリと思います。

投稿: BUFF | 2008/08/19 12:32

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