『女は何を欲望するか?』(内田樹:著 角川ONEテーマ21 A-79)
新書です。読了。2002年に径(こみち)書房から出された単行本の「仕立て直し」だそうです。
本書の目次ですが。大きく二部構成になっています。
新書版のためのまえがき
まえがき-フェミニズムについて私が知っている二、三の事柄
Ⅰフェミニズム言語論
弟一章 「女として語る」ことは可能か?
第二章 フェミニズム言語論の基本構制
第三章 女性と言語-ショシャナ・フェルマン
第四章 「女として書く」こと
Ⅱフェミニズム映画論
弟一章 エイリアン・フェミニズム-欲望の表象
第二章 ジェンダー・ハイブリッド・モンスター
あとがき
新書版のためのあとがき
なんかナンパテクニック指南書というか、女性向けの商売の本というか、そんな感じのタイトルですが。
中身自体は「新書版のためのまえがき」にありますが、「かなり学術的なアプローチによるフェミニズム批判」の本であります。
フェミニズムはあまり知りません。「男社会の犠牲になってきた女の権利を守れ」というようなことだろうとはかすかに理解しますが。それに、ちょっと難しそうだったので、どれだけ理解できるか判らないし、手を出そうかちょっと迷って買った本です。興がのるまで読み進むのが苦痛でしたけど、興が乗ってくると面白く読めました。
ほんと、本書をどれだけ理解できたかどうか自信はありませんが。例えば今、本書の内容について小テストがあれば、赤点を取ってしまうかと思いますけど。でも、面白く読めました。
本書はフェミニズムを批判していますが、真っ向からフェミニズムを叩き潰そうという本ではありません。
以下の論考は、そのような「フェミニズムの退潮」という思想史的文脈の中にあって、その最良の文化的成果は何だったのだろうという問いを軸にして書かれたものである。それは「難破しかかった船から持ち出せるだけの財宝を持ち出そうとしている」乗客のふるまいに似ている。
船が沈むことは私にはもう止められない。しかし、船がこれまで運んできた「財宝」をいっしょに沈めるわけにはいかない。「とにかく持ち出せるものだけは持ち出して、使えるものは使い続けましょう」というのが私のフェミニズムに対する基本的な姿勢である。
(p18「まえがき」より)
という方向で、フェミニズムの成果については認めています。
そして、なぜ「フェミニズムの退潮」が起きてしまったかというと。
それは別にフェミニズムの理説がどこかに致命的な誤謬を抱えていたからでもないし、歴史的状況が重々しくその破産を告知したからではない。フェミニズムは私たちの社会の制度の不正と欠陥をいくつか前景化させたし、性差が私たちの思考や行動を思いがけないところで規定していることも教えてくれた。その限りでは生産的な社会理論であったと私は思っている。
しかし、フェミニズムには根本的な「難点」があった。それはあらゆる社会理論が陥る、ほとんど構造的な「難点」である。
ひとことで言ってしまうと、フェミニズムは「あらゆることをその理論で説明できる」という全能感をもたらした、ということである。
すぐれた社会理論は、そのような全能感をその信奉者に贈ってくれる。マルクスの理論もフロイトの理論もレヴィ・ストロースの理論もフーコーの理論もその点では変わらない。
この全能感は私たちを高揚させ、幸福にし、そして節度を失わせる。
(9p「まえがき」より)
というところが原因だそうです。ここらへんは先日読んだ「ためらいの倫理学」の
私は「正義の人」が嫌いである。
「正義の人」はすぐに怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義の人」は怒る。
「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」を批判するということは、ただちに「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることのあかしである。
「正義の人」はまた「世の中のからくりのすべてを知っている人」でもある。「正義の人」に理解できないことはない。
思えば、私のこれまでの人生は「正義の人」との戦いの歴史であった。
(『ためらいの倫理学』(角川文庫版)140p「アンチ・フェミニズム宣言」より)
あたりにも通じるかと。正義で暴走した人たち。
この、内田樹のスタンスはまた私が内田樹の書物を受け入れるゆえんでもあります。そしてもちろんその思想パターンは他者に向けられるだけではなく、自省にも向けられます。「自分突っ込み」の視点ですね。私はその視点を持ちたいと思いますし、そういう視点を持っていない人に対するのは苦手です。「自分正義」で突っ走って自己陶酔している「オレオレ」な奴は嫌いです。
そういうスタンスは、とても不安定なものだと思いますが、そういう不安定さをこらえていくのが正しいことかと思います。
そういった前提での内田樹のフェミニズムに対する立ち位置は、
フェミニズムは私の「宿敵」である。「宿敵」という以上、この論争は「どこまで行っても決着がつかない」ということである。私が「フェミニズムを完全に論破した」と思うことは絶対に起こらないだろうし、私が「フェミニズムに完全に屈服する」ということも起こらないだろう。それは私が「フェミニズムは正しい、でも間違っている」というあいまいなポジションにいるからである。(214p「あとがき」)
という事です。維持するのに大変なポジションと思いますが、でもそういうスタンスが正しいと思います。「フェミニズムは正しい、でも間違っている」という認識。言いえて妙だと思います。
内田樹は合気道をなさっているそうですが。
内田樹の感覚、巴投げ感覚というか、合気道感覚というか、そういう感じがします。いや、合気道をはじめ、武術というか、スポーツ全般詳しくないのですが。
さて、本書の内容は。
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