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2008/07/08

『ためらいの倫理学』

『ためらいの倫理学』(内田樹:著 角川文庫)
読了。

本書の単行本版は内田樹の初めての一般向けの書籍だったようです。そして、もともとが内田樹がご自身のサイトで発表した文章を再編集したものだそうです。この、ネット上で発表した文章の再編集というスタイルは内田樹の本のスタンダードなスタイルのようです。

私のとっては対談集も含め、4冊目の内田樹の本になるかな?内田樹のウェブログもFirefoxのブックマークツールバーに登録して、更新があったらすぐ見るようにしています。

内田樹の、寺山修司のエッセイでいうところの「さかさま」感覚、好きです。世間と「さかさま」の事を述べているようにいっけん見えて、でも、読んでみるとこっちのほうが正しいと思えるような感覚、好きです。

本書が処女作ですから、内田樹の物の見方とか考え方のベーシックな部分がよく現われていると思いました。

その、根本にあるのは、

「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かしさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」(349p「あとがき-解題とともに」より)

という事でしょうか。
「自分ツッコミの精神」、いいと思います。それをいつも持ち合わせていたいと思ってます。それを持たず、自分の主張をぎゃあぎゃあわめいている奴、嫌いです。そして、本なんかでも、その精神を持っているものを私は好んでいるようです。

例えば音楽だって。筋肉少女帯が好きなのもそのせいかと。たしか、筋少の『踊るダメ人間』という歌に「この世を燃やしたって いちばんダメな自分は残るぜ」という一節があったかと。そういう感覚。尾○豊とか、たいていの歌は自己陶酔までは行くようですが。
でも、どこかひとかけら醒めていて、そういう自分を眺めてしまうという感覚を持っているところまで行ってるミュージシャンは少ないですよね。

私は「正義の人」が嫌いである。
「正義の人」はすぐに怒る。「正義の人」の怒りは私憤ではなく、公憤であるから、歯止めなく「正義の人」は怒る。
「正義の人」は他人の批判を受け入れない。「正義の人」を批判するということは、ただちに「批判者」が無知であり、場合によっては邪悪であることのあかしである。
「正義の人」はまた「世の中のからくりのすべてを知っている人」でもある。「正義の人」に理解できないことはない。
思えば、私のこれまでの人生は「正義の人」との戦いの歴史であった。
(140p「アンチ・フェミニズム宣言」より)

私は知性というものを「自分が誤り得ること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価ができるのかを基準にして、私は人間の知性を判定している。
(145p「アンチ・フェミニズム宣言」より)

まさしくその通り!ヒャヒャであります。

「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする……」と螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っているのである。
(212p「性差別はどのように廃絶されるのか」より)

もちろんそういう態度は歯切れが悪いかと思います。本とかで読んでもすっきりしないと。でも、「スッキリしない」のがほんとうの知性だと。

そして、その上で以下に引用する文書の考え方を含めたものが「ためらいの倫理学」のあり方であるかと思います。本書の最後の方に「ためらいの倫理学」という文章のタイトルでもあるのですが。

レヴィナスが説いているのは、この慈愛と正義の終わりない循環である。「裁き」と「赦し」のめまぐるしい交替である。それがレヴィナスのいう他者経験なのである。さきのアーレントの例で言うなら、同胞の痛みを斟酌せず、真相を究明しようとするのは正しく「正義」の仕事である。しかし、正義を求めて突き進んだおなじ精神が、裁きのあとに、自分が切り裂いてしまった同胞の傷跡に包帯を巻くために戻ってくることがなければ、「赦し」と「慈愛」が伴わなければ、アーレントはホロコーストの「傷」の経験に正しく向き合った事にならない。とレヴィナスなら言うだろう。レヴィナスは決して複雑な論理を展開しているわけではない。ある意味ではほとんど「平凡」な真理を語っているにすぎない。正義が峻厳にすぎないように、赦しが邪悪さを野放しにしないように。
(115p「戦争論の構造」より)

ま、確かに、こういう考え方は「歯切れが悪い」ものとなると思いますけど。威勢よく糾弾し、断罪し、引きずり落とし、倒した相手を放置するほうがカッコいいよなぁ。でも、こっちのほうがほんとうだと思います。
そして、それが、『ひとりでは生きられないのも芸のうち』にもあった、「共生の思想」というのであろうかと。そうじゃなきゃお互い正義を主張して相手を断罪しあって、奪い合っていたらほんと世のなか住みづらい、世知辛いものになるかと。

ただほんと、本書の底に流れているのは「知の孤独」であると思うのです。
岸田秀の本も思い出します。人は何か絶対的なもの、鵜呑みにしているもの、を「自我の支え」としなければ自我は安定しない、生きていけない、ものであるという岸田秀の指摘。
そして、そのカラクリに気がつく事、それに目覚める事と引き換えにしょってしまった自我の不安定さ。そして、内田樹的に、たとえ自分でさえ疑う「知のあり方」。それは、孤独と不安定さに苦しむ事と引き換えに手に入れるものかもしれません。

でも、それを引き受ける覚悟がなければ。

もちろん、その「孤独と不安定さ」を知らず知らず抱え込むこともあります。っていうか、私の場合も「孤独と不安定さ」が先にあって、それからそれに意味づける本を読んできて、“ハードボイルド”とか冒険小説、そして寺山修司や岸田秀や内田樹のエッセイや評論、そして、その感性に繋がる音楽も聴いてきて、それをある程度は自分でなだめられる状態に持ってきたような感じです。

その「孤独と不安定さ」が心を蝕むままにしてしまえば…。通り魔殺人を起こしてしまったり、自殺してしまったり、そこまで行かなくても、生きる希望も見い出せず、苦しみながら鬱々と生きていくしかなかったりするのではないかと。
内田樹も本書で「私は邪悪な人間である」(272p「邪悪さについて」)とお書きになっていますし。

そういえば上掲の引用した文書の「この慈愛と正義の終わりない循環である。」というくだりは、レイモンド・チャンドラーの『プレイバック』の一節、
"If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I woudn't deserve to be alive."
にも繋がってきますね。そうか、それが“ハードボイルド”という事なのか!
というか、モロなくだりもあるんですけどね。

法律・貨幣・言語などという共同幻想に現実感を感じてしまう事、メカニズムに情緒的にかかわること、ハードでいながらジェントルであること、夕方五時にリッツのバーでギムレットを飲むこと、ふと遠い目をして海に沈む夕日を見つめること……こういった煩雑なふるまいの集積が「男たち」の儀礼をなしている。
(148-149「「男らしさ」の呪符」)

という方向で内田樹もまたハードボイルドの人なのかなぁ…。
だから読んでてしっくりくるのかも。

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