『モテたい理由』
『モテたい理由 男の受難・女の業』(赤坂真理:著 講談社現代新書)
読了。
「もてない男」であることには人後に落ちないあたくしでございますが。
じゃあ、「モテ」ってなんだ?なぜ人は「モテ」を求めるのか?とか、ある方のブログでやり取りしているうちに気になってきて、ちょうどネットで本書の存在を知り、手を出してみました。
いや、女性が書いた「モテ」の本ですから、うまく読めるかどうか自信はありませんでした。おっかなびっくりでした。かなりの確率で本を床に叩きつけて「バーロー!」と叫ぶんじゃないかと。
パラパラめくってみて、目次を見てみて、「恋愛資本主義」という言葉を見つけました。
あれれと思って読み進んでいくと、本田徹さんや小谷野敦さんも読んでるみたい。
何となく読書傾向が私と重なっている部分があるような感じでした。
では、「モテ」とは何か?
モテとは、関係性(特に異性との)において優位に立つことである。(29p)
おぉ、ひとことでバッチリ!目からウロコが飛びました。
そして筆者は近年のファッション誌を紹介し、「モテ」をそそのかす手法を解き明かしていきます。
面白いのがファッション誌のアイテム紹介記事って、ストーリー仕立てになっているのですね。
いい学校を出てマスコミとか大手企業の3K(企画・広報・国際)職場に配属されたOLさん、入社後数年で大きなプロジェクトも任されていて、当たり前のように海外旅行、イケメンエリートの彼氏、彼氏とは結婚して“セレブ”への道。
このくだりだけは本を床に叩き付けそうになりましたが。
それから「読者モデル」というシステム。元読者だったというフレコミのモデルさん。つまり、読者も、読者もそういう人生が歩めるかもしれないという“夢”。そしてもちろん、雑誌に紹介されている服とかアイテムを身に着けることがそれへの道だというオハナシ。
そしてそういう雑誌を読んで夢を見てる女性がいちばん嫌悪するであろう存在「オタク」と彼女たちは合わせ鏡であると著者は語ります。
オタクたちはその夢が“脳内”である事を理解していますが、彼女たちはいつか“三次元”でかなうかもしれない夢とそれを思っていて、だから、雑誌に紹介されているアイテムを購入する、と。商売になる、と。恋愛資本主義である、と。
雑誌をたくさん読んでいると、決まって鬱になるときがやってくる。
元気のあるときは、意気揚々と、バカも笑い飛ばせる。OL向け雑誌の「ぜったいほしい!」リストのバッグが四十万円だろうと、「アフター6」の予定を立てている事務OLがある日「大事なプレゼン」を任されていようと、「ボーナスで買いたい!」のが30グラム十万円の美容クリームだろうと、ただ「ありえねー!」と笑える。
だが、そういうのを、量読んでいくと、あるところでひどく疲れてくる。ありえない設定に毒され、それを実現しない私のほうに何か問題があるように思えてきて自己卑下に陥る。社会はハードルが高すぎて、自分なんかに出て行けるところであるようにはとうてい思えなくなる。(61p)
「そーゆーモノが買えるように努力しろ」というのが消費社会、そして、恋愛資本主義社会の要請なのでしょう。かくして人は「経済の奴隷」「消費する家畜」となり、疲弊しているのではと思います。だから時々鬱になると。
しかし、努力しなきゃと思いつつ…。
努力できる人は、持ち前の努力家気質が発揮できるのであり、それと同様に、持ち前の気の弱さも、持ち前の優柔不断も、もちろんあるのだ。生まれる前に決まっているとしか思えないことが多すぎる。しかし近現代のあまりに多くのことは、「努力だけは誰にでもできる」ということを前提に話をし、それは「努力できないのは悪」とまで恐怖の三段抜き論法にすぐになる。
かくして。
「モテようとしない男は努力が足りない」
「オタクは努力と女から逃げている」
というそしりが生まれる。
あんまりでしょう。
けっして自分が望んだわけではなくあまり異性ウケしない容姿に生まれ、異性との関係性の機微をあれこれ微に入り細を穿って研究する趣味思考も持たなかった。
ことの本質は、ただそういうことなのだから。
だから、女の人は僕たちをほっといてくれていいです、僕達にただそっと好きなことをさせてください、という本田透の要求はしごくまっとうでつつましやかなものである。
それなのに、女たちと恋愛資本主義が、「恋愛市場に参入しないのは努力の欠如であり悪である」とパッシングしてくるのだ。
人間誰しも、心に愛を持っている。
誰かに愛を注ぎたい。誰かから愛を受けたい。
その基本的欲求は、どこかでどのようにかして、どうしても、果たされなければならない。
でもそれ妄想じゃん、現実じゃないじゃん、と女たちは言う、と本田は訴える。
しかし女の恋愛も妄想ではないのか?と彼は返す。
女性誌を読みつくした私に、本田を否定することは決して決して、できない。(174-175P)
「人間誰しも、心に愛を持っている。誰かに愛を注ぎたい。誰かから愛を受けたい。」か…。
ふぇ~~ん(泣く)
そしてまた、その、「人間誰しも、心に愛を持っている。誰かに愛を注ぎたい。誰かから愛を受けたい。」という気持ちが裏切られ、希望がことごとく絶望に変わったとき、人は鬼畜となる時もままあって。それだけはこらえないといけない。できたら「喪男の萌えルートに」行かなければならない。それができないのなら、せめて誰かを傷つけたり殺したりしてしまう前に自分で自分の始末をつけられたらいいのですが。
いや…。
巻末の方には、こういった世のさまざまが、日本の敗戦コンプレックスから来ていると述べられていますが。私はさらに遡って、岸田秀の論を考えたいと思います。
日本は米国にレイプされるように、国を開かされた、と。そのため、「レイプされた」という憎悪と、「愛をもって抱かれたのだ」としたい愛情と、そのアンビバレントな感情が統合されずに、統合失調しつつ、歴史の各局面で交互に顔を出している、と。
本書は、ところどころ「う~ん」と思う局面もありましたが、評論系長編エッセイとして楽しめました。ほんと、女性からこういう本が出たというのは心強いものです。
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