『恋愛の昭和史』
『恋愛の昭和史』(小谷野敦:著 文春文庫)
読了。
明治期、近代以降の文学を中心に、作家の行状にも触れつつ、恋愛の描かれ方を追った本、でしょうか。
手を出そうかどうかずいぶん迷った本でした。だいたい私には近代日本文学史に関する知識が決定的にないです。学校で教わった事がかすかに残っているぐらい。そのくらいで本書を理解できる、理解できないまでも面白く読めるのか、だいぶ悩みました。小谷野敦の本自体、最後まで読み通せたもの、途中で放り出したもの、あります。理解力も決定的に不足していますわな。
結論としては、論じられている明治期以降の文学については、前提とされる知識不足を痛感しましたし、議論のところも私の理解力不足で引っかかり引っかかりになりましたが、でも、『もてない男』の小谷野節に興がのると、楽しく読めました。
小谷野節。
だが、恋愛小説や恋愛論の秀作は、恋愛の下手な男たちによってこそ書かれうるということを、この事実は示しているように思われる。(51p)
だとすると、私は恋愛小説や恋愛論の大傑作を書けるかもしれませんねぇ。
七〇年代以降の日本では、男性同性愛者は、少年愛という形でサブカルチャーのなかに定着し、若い女たちに消費されたが、女性同性愛者は依然として忌避の対象である。(114-115p)
そういわれれば、私の知り合いにゲイとカミングアウトしている人はいますが、レズビアンとカミングアウトしている人はいないです。
だが、愛や性の問題を縦横に、まるでタブーなしに語らせているように見えながら、異性に対して魅力が乏しいという最も現実的な問題を避けているとすれば、仏作って魂入れずというに等しいだろう。(230-231p)
わぁぁぁ~ん、小谷野せんせい~~っ!(涙)
大正以来、知識人たちは、恋愛結婚の理想を追い続けてきた。ところが、恋愛というものは死ぬまで永続することが保証されたものではない。だから、恋愛と結婚には矛盾が生じる。伊藤整は、その矛盾を知っていたが、その矛盾をあまりに追及すると、一般読者がついてこなくなることも知っていた。(238p)
ずるいや!(笑)
のような、小谷野節を堪能しました。そして小谷野節が正しいと私は思います。
巻末になると、歌謡曲論や、文学から離れて「もてるための本」の考察に入ります。
ただ、そこらへんは、本田透さんみたいに、「恋愛(セックス)資本主義」論に行くべきかと。
つまり、メディアとその背後にある広告屋がどう動いて、小谷野敦の指摘する「恋愛教」、そして、本田透が断ずる「恋愛(セックス)資本主義」を布教させたかというのが問題だと思います。メディアが恋愛を導いたと思うのですが。
『恋愛の昭和史』というタイトルを冠するには、そっちの議論も必要かと。『恋愛文学の昭和史』ではないのですから。
恋愛教、もてないのはしょうがないとしても、それが自分を苦しめるのは嫌です。
例えば、私は野球ができません。でも、野球ができないことに私は大した苦痛を感じていません。グラウンドを通りかかって、野球に興じる人たちを見るとちょっとうらやましいなと思ったりもしますが、その程度。
でも、もてない事はひどく引け目になります。いや別にもてまくりたいとかいうんじゃないんです。仲のいい女の子ができて、恋人になってくれて、そしてずっと仲良くできそうな感じがお互い持てたら、奥さんになってもらって。家庭を作って。そういう相手がひとりでもいてくれたらいいんです。その程度の望みなのですが。どうもそれがうまくいきません。
それが叶わないとしても、恋愛なんて、野球に興じる人がいるなぁくらいのスタンスで眺められたらいいと思うのです。世の中に恋愛ができて、恋愛を楽しんでいる人がいるけど、それはあまり関係のない世界のことで、気にならないって感じ。そういう感覚を身につけたいのですが。しかし「恋愛教」の世の中、疎外された気分になって。
どうしてこんな時代になったのかしら?そう思ってます。
ほんと、ここんとこやっと気がつきましたが、私にとって恋愛感情は、自分を苦しめ、周囲に迷惑をかけるものに過ぎないようです。そういう「もてない男」の私は、だいぶ共感を持って本書を読めました。
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