« 狼と香辛料第八幕『狼と正しき天秤』 | トップページ | ゴス展とDawn&Barbaraの展示会 »

2008/02/22

『なぜケータイ小説は売れるのか』

『なぜケータイ小説は売れるのか』(本田透:著 ソフトバンク新書)
読了。本田透さんの評論系の新刊です。

本田透さんのサイト、しろはたで本章が紹介された時、ちょっと違和感を感じました。何でケータイ小説の本を書くのだろうと思って。ケータイ小説の世界は本田透さんが弾劾している「恋愛資本主義」「恋愛セックス資本主義」の世界のもの、DQN女の世界のものだと思っておりましたので。ですが、本書を読むとそこで展開されているのは確かに本田節でありましたし、また、本田透さんの新たな展開を読まさせていただきました。

ケータイ小説の世界に気がついたのは数年前、コンビニに明らかに今までの小説本とは違うオーラを放つ本が並んでいるのに気がついたのがきっかけです。ま、その頃は私とは無縁の世界のものだと思っていたのですが。

何度か書いていますが。この前早稲田であった国際寺山修司学会のトークショーで篠田正浩監督が大ヒットしている映画『恋空』に言及されました。こんどこの映画を見に行くのだけどというお話で。この映画がケータイ小説原作である事。原作を読んだけど、今の若い人はインターネットとかあるけれど、狭い生活圏で生きているようだということ。そして、こういう感性のお話はこれからの人たちに任せるというようなお話をされていました。(以上は私のおぼろげな記憶に基づくもので、これをもって篠田監督の公式な発言としないでください)

たとえ自分のテイストの作品ではないにしろ、ヒット作はきちんとチェックするという篠田監督の監督根性に敬服しました。
それと、インターネットが人の見聞を広くするものではないという事、自分なりに考えてみましたが。たぶん、(ケータイ)ネットのせいで、心地よい狭く閉じた世界にいつもアクセスできるようになったせいかと考えています。以上は余談ですが。

それから『恋空』についていろいろネットで調べたり、ネット上で呼んで見たりしたのですが。いろいろ突っ込みどころのある話のようですし、『恋空』自体も数ページも読めずにブラウザを閉じました。

ただ、流行っている以上はそこに今の時代を映す何らかの真実があると思います。ネット上で突っ込みどころ満載、稚拙だと批判されればされるほど、そういうようなお話にハマる今の若い人たちのメンタリティってのに興味が沸いてきます。
そこでちょうど本田透さんがケータイ小説についてお書きになったというので本書に飛びついてみた次第です。

さて、本書の内容は。

序章で「ケータイ小説七つの大罪」として、現在主流になっている“リアル系”ケータイ小説のモチーフについて紹介されています。それは「売春(援助交際)」「レイプ」「妊娠」「薬物」「不治の病」「自殺」「真実の愛」とか。つまり、パターンとして主人公が「売春」「レイプ」「妊娠」「薬物」「不治の病」「自殺」をどとーのように体験した挙句、「真実の愛」によって救済されるというのが今のリアル系ケータイ小説の定番だとか。

“リアル系”というのは、それがほんとかどうかはともかくも、作者が「これは実話です」としているからです。まぁ、『恋空』も現実ではありえない話とさんざん突っ込みを入れられているようですから、「現実」という意味でのリアルではなくて、読者に「リアリティ」を感じさせるという意味での“リアル系”でしょうか。つまり、読者である少女達に「自分たちの物語」として受け入れやすいお話というか。

さすがに売春までいってたり、実際にレイプされたりしている少女たちは少数派でしょうが。でも、孤独を怖れるあまり、刹那的な恋愛(=セックス)にふけったり、レイプじゃないけれど相手から見放される、孤独になることを怖れて気が進まないセックスをしたりしている女性は多いような気もします。DQNな避妊なしセックスで「妊娠したかも?」と怯えることもあったかもしれないし、中絶経験もあるかもしれない。

そうして閉塞感を感じている、それから逃れるための刹那的な恋愛。しかしそれが「真実の愛」で救済されることを願っている。それをかなえるお話としてのケータイ小説。だからヒロインたちは売春とかレイプとか読者の少女達より悲惨な世界を往かなければならない、「彼女くらい悲惨な人が救われるのだから、それよりは悲惨じゃない私だって。」ということなのかもしれません。

新約聖書には、イエスが売春婦の罪を赦す場面がある。原始キリスト教は、貧しい者、病気で苦しむ者、罪を犯して悩める者、差別される者を救うための愛と癒しの宗教だった。つまり大乗宗教、民間宗教だった。「神はすべての人間を愛してくれる」という「物語」が、その思想の根本だった。
現代社会においては、この「神の愛」が「人の愛」に変わっているのだ。
現代社会は、資本主義が極限まで肥大化して、人間の肉体やセックス、恋愛までもが商品として流通する世界である。
このような世界では、人間は自分の心を殺して、ニヒリズムと欲望に流されて金や快楽を追い求めていくしかない。
だが「真実の愛」の前には、これまでヒロインが現代社会の中で犯した罪や植え付けられたトラウマのすべてが浄化され、リセットされ、魂が救われる。
これこそが、『Deep Love』が本を読まない女子高生達に与えた「救済の物語」なのだ。(103p)

「物語による救済」。それは人にとって必要なもの。ケータイ小説に対する突っ込みも虚しいものではと本田透さんは書いているようです。

前章で述べたように、ケータイ小説とは「文学」ではなく、大衆芸能であり、民間説話である。それらの物語は結局、読者あるいは作者の持つ「自我」というパーソナルな物語を補完し、修復し、癒すために生成され消費される。
(中略)
ここで行われていることは、高度な文学性の追求とか、表現手法の革新とか、閉塞した世界を打破する新たなテーマを導こうとするとか、そのようなことではなく、傷つき疲弊した「自我」を回復させようとする精神のリハビリテーションなのであろう。
(中略)
ケータイ小説読者たちは、無自覚なままにケータイ小説を読んで泣いたり笑ったりしながら、自我を修復していくのだ。(178-179p)

こういった切実な行為の前に、ネット上なんかで見られるケータイ小説に対する突っ込みなんて無意味なヤボというものかもしれません。

特にPCでネットを見ていると、目にすることが多い「突っ込み」は、「こんな紋切り型のお話で泣けるなんて、安い涙だ」「自分は、そんなお安い感動で泣いたりはしない」という類のものだ。
(中略)
しかし少し考えてみればわかるが、人間が感動するツボなどというものは、数百年の昔から何ら変わっていない。それ以前に、人間が物語を需要することで自分の不条理な自我の物語(=現実)に「意味」を見い出し、傷ついた自我を修復しようとする行為じたいが、実に数千年前から延々と続いているのである。
(中略)
ところが近代人は自意識に目覚めてしまった。自意識を持った人間とは、自分自身の自我や周囲の世界を、三人称的な視点から「観察」できる能力=メタ意識を獲得した人間の事だ。
そこから自我と世界、あるいは自我と自意識の葛藤をテーマとした近代文学が誕生し、ドストエフスキーのような作家が生まれたのだ。
そして、日本の近代文学もまた、そのような自我と自意識の問題を内包したジャンルとして西洋から輸入された。
だが……ドストエフスキー的に苦悩する自意識過剰な「頭の良い」人間と、ケータイ小説で「安い涙」を流して生きる気力を再生する「頭の悪い(?)」人間の、どちらが人として幸福だろうか。
言うまでもなく後者だ。(180-181p)

もちろんネット上でケータイ小説に突っ込みを入れているような人たちは、上掲の文章で言う「前者」であります。
また、上掲の文書で「PCでネットを見ていると」と断り書きが書いてありますが。本書で本田透さんは「PCでネットに繋いでいる人たち」と「携帯でネットに繋いでいる人たち」を分けて考えています。そしてそこから、なぜPCのネット上ではヒット作家が生まれずに、ケータイ小説の作家からヒット作家が生まれているのかを考察しています。

PCでネットに繋ぐには、高価なPCを購入し、プロバイダに加入し、いろいろややこしい設定をこなさなければいけませんん。だから、そこそこの所得があって、ある程度「頭のイイ」ひとたちがPCネットの住人であると。そしてそういう人たちは自意識過剰傾向にありますから、PCネット文化は“突っ込み”の文化であると。

自意識が目の前の物語に対して突っ込みを入れはじめると、物語の治癒効果は激減してしまう。自意識の回転が行き着くところまで行くと、物語そのものを全否定してします。そうなった人間はどうなるかというと、ニヒリズムに陥るのだ。
人間の自我そのものが、実は「私という人間はこういう人間であり、こういう人生を送っていて、私の人生にはこのような意味があり、私にはこのような夢がある。」という類の「物語」なのだから。
だから物語を否定すると、その否定が自分自身をも全否定してしまい、「私の人生には何の意味もない」というニヒリズムに到達してしまう。
信じる者は、救われる。信じない者は、救われない。
夏目漱石を筆頭として、芥川龍之介や太宰治といった日本の近代作家たちが格闘した「自我と社会との葛藤」という問題は、実は、そのような「自我と、自我を否定する自意識との葛藤」という問題でもあった。
だが、そのような厄介な自意識を持たない人間は、物語によって救われてしまう。
PC派に多い「ケータイ小説否定派」の中でも、特に感情的に否定しようとしている人々は、そのような自意識を持っている人間、頭が良いために物語に癒されなくなっている人間なのではないか。
PCからケータイ小説のような物語が生まれなかったのも、PC派に頭の良い人間=自意識を持った人間が多く、彼らが物語を生成・消費することよりも物語に「突っ込み」を入れることに傾倒せざるを得なかったからではないだろうか。(182-183p)

私も「突っ込み」型人間であると自覚しています。いや、それが生きていく上のドグマになっているかもしれない。だからこそニヒリズムも抱え込んで苦しんでいるのかもしれない。
そして、こういう指摘までされるというのは今まで読んできた本田透さんの評論系の本ではなかった感じがします。

本書は、ケータイ小説とは何か?なぜ流行っているのか?を知るのにいい感じの本でしたし、いろいろな視点を与えてくれたと思います。

最近やっと「人は幸せになるために生きている」と心の底から思えるようになって来ました。例えば、人はべつに経済のために生きているんじゃない。もちろん経済が人を幸せにするのなら、その幸せになるための手段として経済に仕えるけど、でも、経済に振り回されて結果不幸になるのなら経済に奉仕する必要なんてないじゃないかって思うようになってきました。

ほんと、たあいなく幸せに生きていきたいものですけど…。

|

« 狼と香辛料第八幕『狼と正しき天秤』 | トップページ | ゴス展とDawn&Barbaraの展示会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92510/40217865

この記事へのトラックバック一覧です: 『なぜケータイ小説は売れるのか』:

« 狼と香辛料第八幕『狼と正しき天秤』 | トップページ | ゴス展とDawn&Barbaraの展示会 »