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2008/02/05

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(内田樹:著 文言春秋:刊)
読了。評論系エッセイ集になるのかな?

AMAZONから時々お薦め本のメールが来ます。以前買ったことのある著者の新刊とかどう判定しているかは解りませんが、類書とか。本書の存在を知ったのもAMAZONのメールからです。惹句に

性的階層格差にひと言!
強者だけが勝ち続ける「合コン」ってどうなんでしょう!? CanCam的めちゃモテ戦略から夢の少子化対策まで、非婚・晩婚化時代を斬る!

とあったのが興味を持ったきっかけです。

内田樹の本は以前『健全な肉体に狂気は宿る』(角川Oneテーマ21)をAMAZONから買って読みました。春日武彦との対談本でした。題名に惹かれて買ったのだけど。それでAMAZONからお薦めメールが来たのだと思います。
それから内田樹のサイト(http://www.tatsuru.com/)とかも行ってBlogを時々読んでます。
ただ、内田樹の文章からは「モテ」の匂いがしてきて、どうもあまりは読めませんですが。

しかし、今回のAMAZONからのメールによると。
本書は私がいろいろ本を、本田透の『電波男』『喪男の哲学史』『脳内恋愛のすすめ』や小谷野敦の『もてない男』『恋愛の超克』『帰ってきたもてない男』なんかを読んで考えてきた現代の恋愛のありよう。そしてさらに私にとっては焦眉の急である「もてない男」(である私)のサバイバル・メソッド等についての何らかの「答え」が書かれているのではないかと思って興味を持ちました。

で、普通の本屋さんで本書を買いました(爆)
まぁ、中身を確かめて買いたかったし。

本書は寺山修司の「さかさま」シリーズを読んだ時のような興奮がありました。既存の価値観を軽やかにひっくり返して見せて、むしろそれが「常識的」であるような感触を持たせる、という意味においてです。

本書が扱うのは「あまりに(非)常識的であるがゆえに、これまであまり言われないできたことだけど、そろそろ誰かが『それ、(非)常識なんですけど』ときっぱり言わねばまずいのではないか」という論件であります。(9p「まえがき」より)

今時の人の心のありよう、あるいはマスコミの言い草についてとても違和感を感じる時があります。その違和感がどこから来ているか、確かめたいと思っていろいろ本を読んだり考えたりしています。本書は思っていること、読んできたことをいろいろ整理する役にとても立ちました。

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』を解題すれば。

現代は自由競争社会であります。自由競争社会とはつまり、個人がそれまで所属していた共同体からばらばらに切り離され、「ひとりで生きていく」社会。人はそれぞれに競って利益を追求し、勝者が富を独占できるシステムであります。しかし、そのシステムが行き着く先には「少数の“勝者”」と「多数の“敗者”」しかいません。そういう社会が住みよいはずはありません。だから、共同体意識への回帰、「ひとりでは生きられない」という認識へ回帰しようという事であろうかと理解しています。

それは経済的な“自由競争”だけでなく、恋愛においても同様な事が言えるかと。つまり惹句にあった「強者だけが勝ち続ける「合コン」ってどうなんでしょう!?」という問いかけに対する回答ですが。

昨今では「合コン」というのがほとんど唯一のマッチメイキングであるが、これはマッチメイク的には邪道のものである。
というのは、本来マッチメイクというのは、「ほうっておくと、なかなか自分では配偶者を見つける機会に出会えない」タイプの、「ノン・アクティヴ」な方々を救済する措置だからである。
ところが「合コン」というのはエロス的活動方面においてきわめてアクティヴな方が「総取り」する事が許されるという、まるで趣旨が違う制度なのである。
合コンは繰り返すほどに、「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というポジティヴ・フィードバックがかかる。
このようなものを続けていると、遠からず社会は「頻繁にパートナーを変える少数の男女と」と「生まれてから一度もステディがいたことのない多数の男女」に二極化してしまうであろう。(64p「プロジェクト佐分利信」)

もう二極分化してしまってるような気がしますがね…。

この「現代における恋愛のありよう」を、本田透さんが消費社会と絡めて、つまり、現代では恋愛は消費活動に裏打ちされる、つまり恋愛は消費物と化している、故に経済強者=恋愛強者であると断じて、「恋愛資本主義」あるいは「恋愛セックス資本主義」と喝破した部分でありますが。

その対策として、本田透さんは「現実」を捨てて「虚構」へ、つまり「脳内」に恋愛相手を持つ「脳内恋愛」に行くことを提唱されています。それに対して内田樹はお見合い話を持っていく世話好きなおじさん、本書で言うところの「プロジェクト佐分利信」を提唱しています。

いやしかし…。ほんとに「共同体意識への回帰」は可能なんでしょうか?

今の人の世のありようが「近代化」の行き着いた姿だと思っています。人がかくあるべしとして進んできた世の中の。これは以前読んだ『学校のモンスター』(諏訪哲二:著 中公新書ラクレ)にもあった指摘ですが。

何度も書いていますが。

近代、人は地縁血縁といった“くびき”から解放されました。そして、自分の思うままに生きていくようになったのだけど。しかし、その“くびき”が与えていた「自我の安定」もまた失ってしまって。人は「自我の不安定」さに苦しむ事となったと。

これは「消費社会」からの要請でもあったわけで。

これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自動的帰結である。消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。
当たり前の事だが、消費単位が小さくなれば、消費単位の個数は増えるからである。
四人一家が消費単位である場合には家に一台テレビがあればすむが、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。(246p「縮小する自我という病」)

この「縮小する自我という病」は面白いと思いました。私は同じ現象を「(“くびき”から解放された)自我の肥大」と思っていましたので。同じ事を内田樹は「自我の縮小」と捉えている。

私は。

どうも孤立型人間のような気がします。それはどうも自分がどっかで変なルートに入ってしまったせいと以前は考えていましたが。
どうも最近の人々のありようを見ると、それは特に変ではない、時代が産み出したひとりの人間のありように過ぎないのではないかと思うようになってきました。

その生き方がいいかどうか。たぶん悪い生き方だったと思っています。
ただ、いまさら人と繋がる能力そのものが低いと思ってます。
『ひとりでは生きられない』事を痛感しつつもね。
やっぱり脳内行くほうが楽かもしれんね。

本書はブログを再編集したもののようです。くだけた文章に時折難しい言葉とか、(たぶん、内田樹関係の)人名が突然入り込みます。こういうスタイル、面白いですけど。難しい哲学用語とかが説明抜きに入ってくるのはちょっと面食らいます。例えば「レヴィナス(老師)」は20世紀のユダヤ人哲学者のようですが。

本書はここで紹介した以上にとても面白く、はっとさせられる指摘や、今までもやもやっと考えてきた事に対して「そーでしょそーでしょ」という思いを強くさせてくれる事も多かったです。楽しくあっという間に読み終えました。

うぅむ…。「プロジェクト佐分利信」対象者に空きはありませんかぁ!(涙)

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