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2007/11/22

『動物化するポストモダン』

『動物化するポストモダン~オタクから見た日本社会』(東浩紀:著 講談社現代新書)
読了。

6年前の本ですし、刊行当初からあちこちで紹介されていますし、最近続編が出たようですし、「今更?」と言われそうですが。まぁ、オタクとポストモダンを絡めて理解するには欠かせない本でありますし。刊行当初は「ポストモダン」なる言葉もほとんど知らなかったので、ピンとこなかったんですが。この前読んだ『学校のモンスター』にも紹介されていましたし、改めて読もうと思いました。

ちぃと難しかったかな。この程度で難しいと思うようでは駄目ですが。

“動物化”という言葉がちょっと引っかかっていました。ポストモダンの人は、オタクは、欲望に衝き動かされる、自分の欲望をかなえるためだけ世界があると勘違いして生きていると書いてあるのか?そして、それゆえに気軽に人の命を奪うような“オタク型犯罪”のありようを書いているのかなぁとか思っていましたが。違うようです。

本書は2つの疑問を軸にポストモダンとオタクを解き明かしているようです。

(1)ポストモダンはではオリジナルとコピーの区別が消滅し、シミュラークルが増加する。それはよいとして、ではそのシミュラークルはどのように増加するのだろうか?近代ではオリジナルを生み出すのは「作家」だったが、ポストモダンでシミュラークルを生み出すのは何ものなのか?

(2)ポストモダンでは大きな物語が失調し、「神」や「社会」もジャンクなサブカルチャーから捏造されるほかなくなる。それはよいとして、ではその世界で人間はどのように生きていくのか?近代では人間性を神や社会が保証することになっており、具体的にはその実現は宗教や教育機関により担われていたのだが、その両者の優位が失墜したあと、人間の人間性はどうなってしまうのか?
(46p)

オタク論としては(1)の方が興味がありますが、「これからこの世はどうなってしまうんだろう」という思いを持つ者としては(2)に興味があります。『学校のモンスター』の論においてはまさに(2)を原因として、教育現場の荒廃、また“モンスターペアレント”の発生という現象が起きているのではないかと。そして、この先いったいどうなってしまうのかと。

ほんと、私は本書をどれだけ理解したか自信はないけど。

時系列的には、まず、19世紀ヨーロッパの“近代”の完成から。ヘーゲルは19世紀始めのヨーロッパで歴史が終わったと説きます。つまり、ヘーゲル的な正-反-合という弁証法的な歴史の展開は終わったという認識でしょうか。“近代”というものに正も反もなく擦り寄るようになってしまったということかな?

それにコジェーヴという人が解説を加えて、

そこでコジェーヴは、ヘーゲル的な歴史が終わったあと、人々には二つの生存様式しか残されていないと主張している。ひとつはアメリカ的な生活様式の追及、彼のいう「動物への回帰」であり、もうひとつは日本的なスノビズムだ。(97p)

んじゃ、ここでいう“動物”とは何かというと、

ホモ・サピエンスはそのままで人間的なわけではない。人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。言い換えれば、自然との闘争がなければならない。
対して動物は、つねに自然と調和して生きている。したがって、消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく戦後アメリカの消費社会は、彼の用語では、人間的というよりむしろ「動物的」と呼ばれることになる。
そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。(97p)

という事だそうです。そして、“スノビズム”は、

他方で「スノビズム」とは、与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機が何もなかったとしても、スノッブはそれをあえて否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ愛でる。(中略)このような生き方は、否定の契機がある点で、決して「動物的」ではない。だが、それはまた、歴史時代の人間的な生き方とも異なる。というのも、スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の本能との対立)は、もはやいかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。(98p)

という事だそうです。

あれ?じゃあ、日本ではスノビズムが支配的であり、その文化的流れからオタクたちが生まれたのなら、『動物化するポストモダン』じゃなくて『スノビズム化するポストモダン』じゃないの?という事になりますが。

「ポストモダン」の前提として、もちろんモダン(近代)という「大きな物語」の終焉があります。

一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。(44p)

岸田秀的に言えば「大きな物語」は当時の人びとにとって「自我の支え」でもあったわけで。しかし、

近代は大きな物語で支配された時代だった。それに対してポストモダンでは、大きな物語があちこちで機能不全を起こし、社会全体のまとまりが急速に弱体化する。日本ではその弱体化は、高度経済成長と「政治の季節」が終わり、石油ショックと連合赤軍事件を経た七〇年代に加速した。オタクたちが出現したのは、まさにその時期である。(44p)

オタクたちは崩壊していく“現実”という「大きな物語」の代償として、アニメとかの“虚構”としての「大きな物語」に向かっていったのだけど。つまり、アニメとか実際に我々の眼前に立ち現れる「小さな物語」の背後にある、設定とか世界観という「大きな物語」を読み解く行為が、喪われた“現実”における“近代”という「大きな物語」を求める代償行為であったと。そして、その、虚構という「大きな物語」を発見した者がそれをベースに創作する側に回り、つまり、二次創作が生まれ、シミュラークルというオリジナルと二次創作が等価な価値を持つ世界が生まれたと。そういう事かな?

そして、その背後にある「大きな物語」はだんだんとデータベースという色彩を帯びてきて。データベースから取り出された個々のレコードの順列組み合わせが実際に流通してるアニメとかの“作品”である、というかたちでしょうか。

これらは“現実”という「大きな物語」の喪失に耐えられない人たちが“虚構”というその代償としての「大きな物語」を生み出したということ。ここらへん、『おたく:人格=空間=都市 ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展-日本館 出展フィギュア付きカタログ』に森川嘉一郎氏が書いた、オタクの心に通底しているという「喪失感」に繋がっているんじゃないかしら。

しかし、ポストモダン化の更なる進行につれて、その喪失感を持たない、そもそも「大きな物語」というものを必要としない人たちが現れて。
つまり、そのデータベースは「大きな物語」から、「大きな非物語」へと変質していったと。

そこにおいてデータベースはもはや“近代”の代償としての、「大きな物語」としての求心力を持たない、ただのデータベースに過ぎず、だから、そこから立ち現れるキャラとか物語は、例えば“萌え”なキャラや物語なら、その壮大なデータベースのそれぞれのテーブルに収められた“萌え”属性を持つレコードの組み合わせに過ぎない、と。そういう事かしら?

そして、そこからオタクたちは“動物化”してきた、と。

人間は“欲望”を持つ存在だそうです。これに対して動物は“欲求”しか持たない、と。“欲求”というのは、「腹が減ったから飯を食う」式の、渇望する対象が与えられればそのまま充足するような単純な渇望です。人間もそのほとんどの渇望は“欲求”レベルです。
対して“欲望”とは、

欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。(中略)
(例として性的欲望を挙げて)性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思う(嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないのである。人間が動物と異なり、自己意識を持ち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。
(中略)
したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。(126-127p)

つまりこれが『動物化するポストモダン』だという事かな?“欲望”は消えていき、瞬時に、手軽に満たされる“欲求”しかなくなりつつある。そして、自己意識が希薄になり、社会関係も希薄になっている。これは以前にも述べた、『学校のモンスター』にも書かれている、篠田監督も指摘された、「今時の若い人は狭い生活圏で生きている」という事に繋がっているかと思います。

「自己意識が希薄になる」と書きましたが、それは逆に言えば、その「狭い生活圏」が他者とぶつかり合う局面においては、それは逆の様相を見せるわけで。つまり、強烈な、本質的な、対立が起きてしまうわけで。例えば前に『学校のモンスター』から引いた。
「周囲の見知らぬ他者」が若者たちの生活圏というか感覚圏というか、ひととひととの対面的な範囲に入ってきたときに問題(トラブル)が生じるのである。」
という事態も発生するのかと思います。

例えば、モンスターペアレントも、彼らはごくナチュラルに自分のわがままだけで生きていける、周囲との対立も経験しなくて済む、「狭い生活圏」に安住していたのが、“動物的”に生きていられたのが、“学校”という、「ひととひととの対面的な範囲」に入らざるを得ない“場”に来てしまって、そして、自分のわがままが通らなくなって、戸惑ったりブチ切れてしまった状態なのかと思います。
そういう意味で彼らはたぶん、「自分がわがままを言ってる。エゴイスティックで理不尽なことを言ってる。」という意識すらないんじゃないかと思います。

日本においてポストモダンは70年代半ばから始まって、95年以降はその「動物の時代」へとフェーズが移っていったそうです。そしてそれはもちろんオタク現象にとどまらず、この国全体を覆っていると。

また、このポストモダンのそもそもの萌芽が、西欧においては第一次世界大戦後とか。つまり、「ロスト・ジェネレーション(迷子の世代)」の誕生とも関っているのかしら。

まぁ、まだ私は読みが浅いと思うし、いろんな本を読んで理解を深めないといけないと思っています。ただ、それに、私の“知性”がついてこられるかどうか…。本書でもうアップアップでしたし。

でも、知りたいのです。我々の住む“現在”がどうなっているか、そして、“未来”がどうなっていくか。まぁ、滅びるなら滅びるでいいんですがね…。

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