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2007/11/28

『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』

『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』(武田邦彦:著 洋泉社:刊)
読了。本書の前作である『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』も読んでます。
本書は現代日本の“環境問題”にまつわるさまざまな誤謬について書かれた本です。

本書ではまず第1に「京都議定書のトリック」として、京都議定書について書かれています。
要約すれば、「日本は京都議定書にハメられた」という事です。

そのミソのひとつが「97年に締結された京都議定書は、90年の各国の二酸化炭素排出量を基準にしている」という事。
例えば、イギリスでは、90年代に入ってから、旧式の石炭発電所が、サッチャー政権下の国有企業の民営化政策と北海油田の開発の成功に伴い、二酸化炭素排出量の少ない天然ガス発電所への置き換えが進んできました。
また、ドイツでは、90年の東西ドイツ統合に伴い、旧東ドイツ側の旧式設備の置き換えが進み、二酸化炭素排出量が減ってきたと。
で、京都議定書が締結された時点で、その2国はもう二酸化炭素排出削減目標はクリアできていたと。
そして、ヨーロッパ圏では、国々を超えた包括的な二酸化炭素排出量基準が許されており、旧東欧圏の旧式設備を更新すれば二酸化炭素排出量を減らせていける、と。

しかし、日本にはそういうアドバンテージがなかったと。

それをまとめれば、

①イギリスとドイツは温室効果ガスの8%削減といっても、条約を締結している時にすでに目標を達成していた。
②日本とアメリカは約20%程度も削減しなければならなかった。
③そして、削減しなければならないアメリカ議会は批准を拒否し、削減しなくて もよいイギリスとドイツは自分達に有利だから当然批准した。
④日本政府はアメリカと状況が似ているのに不思議なことに(国民には十分説明せずに)批准した。
(26p)

という事になるようです。

先日、アンゴルモア…、もとい、アル・ゴアがノーベル平和賞を受賞するというニュースが流れて、新聞に「これから環境問題は科学の問題から政治の問題にな る」と書かれていました。そこに賛辞と皮肉とが両方とも痛烈に感じられました。本書の京都議定書のカラクリとか読むと、それ以前にもう環境問題は科学とい うより政治的駆け引きの材料になってたみたいですね。それに気がつかなかった日本がバカだったと。外交オンチだったと。

さて、武田先生は日本で喧伝されている「地球温暖化の脅威」のあり方についても疑問を呈されています。人類の活動が地球の温暖化に寄与しているという事については認めた上でです。

IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change-気候変動に関する政府間パネル-)という国連の下部機関があるそうですが。そこが今後の環境の変化に対していちばん権威のある予測値を出しているそうです。

で、IPCCの出した数字では100年後の予測値として、「平均気温は中間値で2.4度、最悪のシナリオ6.4度上昇、海面水位は中間値で0.35メートル、最悪のシナリオで0.59メートル上昇」だそうです。
テレビなんかさんざんやってる、海水面が何メートルも上昇して、東京とかがほとんど水没するイメージはありえないと。また、報道でも、誇張はないしにしろ、最悪のシナリオで報道されていると。

ここで武田先生はこの100年後の予測値を30年のタイムスパンに直して論じています。それは、人の価値観ががらりと変わってしまう時間であり。また、だいたい、これから100年も今のように石油は採れないだろうという武田先生の冷静な認識もあります。(本書においては、石油枯渇後の未来を見据える事も大事なことだと書かれています)

同じ伝で昨今の「バイオ燃料」ブームも論じています。もともと農業には石油が必要で、石油で作物を育ててそれから採った作物でバイオ燃料を作るという矛盾が論じられています。
これが進んで、農機具とかもバイオ燃料で動くようになって、最終的なエネルギー収支はどうであるか?は判らないのですが。

あと、“リサイクル”運動について。武田先生の論点を煎じ詰めれば、「リサイクルにも資源・エネルギーが必要である。そして、リサイクルしたほうがしないよりも資源やエネルギーを浪費する場合がある、“環境負荷”がかかる場合がある。そういう観点からリサイクル運動を検証しなければならない」という事でしょうか。
そして、「環境保護」「リサイクル」の美名の裏に隠れた利権構造。「縦割り行政」からは決してほんとうの環境保護は生まれないという認識。

まさにそうだと思います。そして、それは、私個人の考えでは、武田先生の理論を越えて、それが「”経済”という魔物」の本性であると考えます。

かつて、環境保護は「消費しない智恵」であったと思います。そのころは「環境を守ろう」というような本は書店の片隅にひっそりと置かれているくらいだったのですが。この時代のメインストリームからは外れた存在だったのですが。でも、異常気象とかが喧伝されるようになって、環境問題が無視できなくなってきて。

そこから生まれたアクロバティックなリクツが「“環境保護”という消費」だったと私は思っています。リサイクルグッズとか、レジ袋削減とかいう瑣末ごとに人びとが熱中する、熱中させる、ようになったと。

本来なら環境保護に関しては「人類の経済活動の抑制」が最も基本的で重大なテーマだったと思いますが。しかし、魔物と化した“経済”、そして“経済の奴隷”“消費する家畜”である我々現代人はそういうことは思いもよらなくて。経済活動を拡大しつつ環境を守るという二律背反を強弁するリクツとして生み出されたと、そう理解しています。

もちろん私も“経済の奴隷”であり“消費する家畜”であります。その枠組みの中でしか自分の『幸福論』は組み立てられません。今度なに買おうかとか、そういう思いで働き、自分の生活を維持していってます。しかし“家畜”であり“奴隷”であるから、どこか疲弊してきている、と。

たぶん、“消費社会”から脱却した『幸福論』の再構築が最終的な環境問題の解決策だと思うのですが。

人間が幸福を感じるのは「心」と「体」だと考えている。私だけかもしれないが、私は「物」だけでは満足を得られない。
(中略)
そして、現代の生活は「心」と「体」の幸福を味わうには「物」が多すぎて邪魔をする。だから、もう少し生活を小さくしたい。(149p)

そうやって生きていければいいんでしょうが…。私にはとても難しい事だと感じます。

満員の通勤電車の中、しかめっ面の、疲れきった表情の、サラリーマン達(わたしもその中のひとりですが)。3万人もの人が自ら命を絶つ現代の日本社会。
そろそろみんなうんざりしてるんじゃないかな。うんざりしてるけど、やめられない。他の道が見つからない。見つかってもそこにそこに進む勇気がない。だから、やめられない。そうじゃないのかなぁ。少なくとも私はそうですが。

たぶん、そろそろ、崩壊点が来るような気もしますが…。ま、来ないでしょうが。まぁこれも私が消費社会の負け組で、なおかつ消費社会にぶら下がって生きていかなきゃいけないといううんざりぶりが現れた思考でしょうが。

念の為ですが。私は本書に書かれていることが全て真実かどうかは解りません。だいたい「人類の経済活動による地球温暖化」そのものを否定する学説もあるし、人類の経済活動による環境破壊が進み、ある一点を超えると一気に地球環境は激変し、たくさんの人が死ななければならなくなるという学説もあるようです。

いろいろな説の検証が必要かと。

日本は京都議定書の二酸化炭素排出削減目標はクリアできないようですが。そうなると、今度は政府・マスコミも地球温暖化説に疑義を唱える事になるやも知れません。その論拠に武田先生の学説を用いるかもしれません。そして、異論は封じ込められるかもしれません。たぶん、武田先生はそうなったらそうなったでそういう風潮に反対される方かと思います。それが学問としていちばん大切な事かと思います。

しかし、ほんと、どうなっていくのかしら?

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