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2007/11/15

『学校のモンスター』

『学校のモンスター』(諏訪哲二:著 中公新書ラクレ)
読了。

以前、『でっち上げ 福岡「殺人教師」事件の真相』という本を読みました。(私の感想はhttp://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/09/post_21a7.htmlにて)
モンスターペアレント、つまり、学校に身勝手で理不尽な要求を突きつけてくる父兄が起こした騒動を教師からの視点で小説形式で描いた本だけど。
これは実例のひとつとして“モンスターペアレント”を描いた本ですが。「じゃあ、モンスターペアレントはどこから来るの?」という視点から描かれた本を読みたいと思ってました。で、本書を手に取ったしだい。

本書は“モンスターペアレント”を語った本というよりも、それを含めた、「現代人の心の変容」について、著者の教育現場での経験をベースに描いた本であります。私にとってもちょうどいいスタンスの本であります。

著者は1985年ごろから“つながり”が喪われていったとお書きになっています。
教師と生徒とのつながり、生徒と社会とのつながり。それが喪われてきて。

こうした「つながっている」という感覚は、個人的につながっているという親近性ではなく、同じ文化的共有性を持つという確信から来るものだ。同じ文化や歴史や風俗や価値観の下にある、という一体感なのである。(42p)

私は本書をどの程度理解しているか自信がありませんし、ぜんぜんあさっての方向で解釈してしまっているかもしれませんが。これは理解できます。また、この点について書かれた書物を興味を持って読んできていますし。

何度も書いていますが。人の自我というものはそれ独りでは安定できません。何らかの“自我の支え”が必要で。それがかつては地縁血縁といったもの、宗教といったもの、あるいは理念といったものだったんですが。しかしそれが“近代”において機能してこなくなってきて。
それは一方では“近代的自我”、つまり“個”の確立だったかもしれない。そして、それらが自我の安定の代償として要求してきた“くびき”からの解放でもあったんだけど。

たぶん、それは消費社会の成熟と軌を一にしていて。つまり、消費活動がそれらに替わって“自我の安定装置”になってきたということです。そして、欲望の無辺際な開放が“自我の支え”となったということで。そして、てんでバラバラになった人たち、自分の欲を軸として動くことがごく自然になった人たち。

近代社会はストレートに個人を産み出したのではなく、男女の対(夫婦)を核とする家族を産み出した。そして、のちに来た「消費社会」は、こうした近代固有の家族をも解体して、個人を基礎単位としてしまった。
これは「消費社会」の(半ば無意識な)経済戦略だった、と考えることもできよう。家族を消費(経済)ユニットにしておくよりも、家族の一人ひとりをターゲットにしたほうが効率的であるからだ。「消費社会」では、子どもは、社会的自己を形成するプロセスにおいて、かつての「地域」の位置で「社会」に出会うより先に、すでに「家庭」において消費戦略によってじゅうぶんに汚染されていることは当然である。(130p)

そして、それは、我々が進めてきた“近代の”行き着いた姿であると。“近代”になれなくて、間違った方向に進んでしまったのではなく、紛れもなくそれが“近代”のありさまであると。

私が単純に思うのは、「個」が自立したら、また<個人的な価値観>が確立したら、今までの問題が全て消失し人間が自由になれる(問題が発生しなくなる)という確信はどこから得られているのかということである。そういう確信は誰も哲学的に保証していない。近代の迷信の一種か西欧へのコンプレックスのもたらしたものではなかろうか。むしろ、「個」が自立し、自由になりはじめたから「個」が不安定、不確定になったと考えたほうがずっと自然であろう。(69-70p)

しかし、著者は決して“近代”を否定してはいません。

ここで私たちが気がつかなければならないことは、「等価交換」に象徴される経済的な合理性は、近代思想の成果である「平等」や「民主主義」の土台である、ということだ。
これは人間の対等なあり方や平等の基礎を成している。しかし、人間の生き方や生きる価値、道徳性や崇高さや絶対性、そして普遍性を求めるといった精神性とはつながっていない。つまり、「消費社会的」状況にどっぷりと漬かっている日本の現状がそうであるように、経済的合理性(自己の利益)だけを人間の思考や行動の基準にすると、ホリエモン氏や村上ファンドがそうであったように、「正しさ」とか「精神性」とか「価値」とか「客観性」などといった見方が登場しなくなることである。
精神性がないと、結局は、経済主体である本人の判断に委ねられることになる。
これでは「人それぞれ」という価値の多元性が絶対視され、軟弱な「私」を守ることにしかつながらない。
だからといって、学校でも経済的合理性や「等価交換」的な発想を否定したり、排除したりするべきではない。(そういうことのできる国は全体主義国家や共産主義国家だけである)(99-100p)

上掲文にある「価値の多元性が絶対視され」、つまり、ポストモダン的状況ですね。本書はポストモダンに絡めて論考する部分もありますが。
その、ポストモダン的な状況の中、“個人”がてんでバラバラに存在していると、現代の若者の生活圏はひどく狭くなってると。学校において生徒さんたちはもう“クラス”という単位で集団を把握できなくなってるそうです。せいぜいが数人の仲良しグループに分かれて。

最近、道端にしゃがみこんでパンツ丸見えなのに平気な女子高生とかいます。彼女たちにとって、周りに人間はまったく別の、自分の生活圏内にはいない、不可視な人たちなのでしょう。
そして、それがぶつかり合う局面において、トラブルが生じると。そしてそれはかつての「正しい」「正しくない」のぶつかりあいではないと。お互いが共通する価値観を持っているなら、「正しい」「正しくない」の判断も付きますが、まったく別の価値観同士のぶつかりあいだから、お互い平行線をたどるしかなくて。そういう経験、あります。

「だから、「家庭」や「地域」において「消費主体」としての自由を経験し、経済的主体としての自由が人間のすべての自由であるかのように錯覚している子どもたちは、「学校」と衝突せざるをえない。(132p)」

うん、でもそれは”近代”の行き着いた先なのですね。
以前読んだ『若者殺しの時代』(堀井憲一郎:著 講談社現代新書)から引きますが。

坂の上の雲は、(中略)1950年から1980年の昭和の人々も見ていた。前年より今年、今年より来年が豊かになっている時代だ。(中略)坂を歩くのはつらいが、高みに登っていくくことが実感できる限り、気持ちがよかった。がんばれば上へ行けた。弱音を吐かなければ、いい生活ができるようになった。
それが僕たちの国だという信念があった。
たどりついた坂の上は、つるっつるに滑る不気味な灰色の平原だった。(『若者殺しの時代』155-156p)

最近の昭和30年代、40年代ブームってのは、こういう世の中になってしまう前の最後の時代へのノスタルジーがあるのでしょう。もちろん我々には「未来しかない」のですが。

その“個人”しかないてんでバラバラの価値観の発露のひとつが“モンスター・ペアレント”なのでしょう。そして、それはまた、現代のさまざまなありよう。ニートとか少子化とかオタクとかにつながっているのではないかと思いますが。

しかし、何度も繰り返しますが、それはまた“近代”の成果の副産物でもあって。その“近代”を全て否定はできません。例えば、近代以前のさまざまな抑圧・強制がまかり通っていた時代への回帰は望みません。著者もそれについては気を使っていて、但し書きがあちこちに入ってます。著者の主張を拡げるとそういう主張にまでたどり着きかねませんから。

本書は最近私がよく考えている、「現代の人の心のありよう」にとても参考になる本でした。もっといろいろ書きたいのですが。どうも大きくてうまく書けないです。とりあえずここまで書いて、あとはもっとゆっくり考えましょう。再読もしなきゃ。

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