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2007/06/10

『青ひげ公の城』

昨日はザムザ阿佐ヶ谷へ。A・P・B-Tokyoさんの公演、寺山修司原作『青ひげ公の城』を拝見しに。

秋葉原で少々お買い物をしてから阿佐ヶ谷へ。開場の7時は少し過ぎるかなぁと思いましたが、まぁ、客入れも15分くらいは押すだろう、大丈夫だろうと思っていたのですが。到着時はもう開場は過ぎていました。きっちりと開場したようです。時間通りにきっちりと開場する、開演するって、ライブでもお芝居でもなかなかないのですが。いや、きっちりとそうするってのは、好感をもてます。気合が入ってると思います。ちと襟を正して客席へ。まぁあたし、体型的に奥まで行くといろいろご迷惑だから、出入り口そばの席へ。

緞帳はなくて、もう舞台では役者さんがうごめいてます。いや、普通のお芝居を見てる人には不思議な光景なんでしょうが…。万有メインに見てる私には当たり前になってます。その、当たり前になってる、そういうスタイルに違和感を覚えない自分に改めて気がついて、面白いと思ったり。そして、7時半の開演時間にきっちりと開演。

『青ひげ公の城』は、数年前、パルコ劇場の三上博史、荻野目慶子、そして万有引力の皆さんの公演を見に行ったことがあります。『青ひげ公の城』初演もパルコ劇場だったそうですが。
だから、『青ひげ公の城』は、大劇場でやる芝居っていうイメージでした。それを決して大所帯じゃないAPBさんが、決して大劇場じゃないザムザ阿佐ヶ谷でやる、どういうお芝居になるのかなぁと思ってました。

結論から言えば、ぎゅっと凝縮されて、とても面白かったです。そして、小規模な劇場ならではの、舞台と客席の近さ、がとてもよかったです。

そう、現実と虚構の狭間の寺山芝居、そして、客席も舞台と隔てられた安全地帯ではなく、いや、世界は劇場、歴史はお芝居、いや、このお芝居もまた、世界というお芝居の一部、であります。すべては虚構、すべては幻、唯幻論。

“お芝居”は、「青ひげ公の7番目の妻」を演じる女の子が、劇場にやってきたくだりから始まります。現実(という虚構)とお芝居(という虚構)が幾重にも、まるでパイ皮のように重ね合わせられ。
お芝居のスタイルは、寺山芝居の、フラグメントを重ね合わせていくっていうスタイルです。そういう意味でもパイ皮みたいな感じですな、さくさく…。ここらへん、ストーリードリブンな普通のお芝居に慣れてる人だと面くらい、難解だと思うところですが…。逆に言えば、ストーリーを把握する事によって“観客”として定位できる“安心感”を観客から奪う、という言い方もできるかもしれません。

私は寺山芝居をある種の“レビュー”として見ていますが、そうすることによって、安定していますが。あ、そうそう、劇映画に対する“実験”映画、という喩え方もできると思います。

いっとう好きなシーンはお人形のシーンでした。舞台に散らばる女優さんたち、ほんと、お人形さんみたいな感じで。んで、そこで小山内薫の名前が出てきますが。
実は、小山内薫の築地小劇場も「演劇の実験室」「民衆の見世物小屋」をモットーに掲げていました。演劇実験室◎天井棧敷と同じくね。いや、私は演劇史を語れるほどの知識はありません。萩原朔美さんの講演会で聞きかじった知識の受け売りですが。

寺山修司の『奴婢訓』は、「主人の不在」が大きなファクターになってますが、『青ひげ公の城』も、「(主役である)青ひげ公の不在」が大きなファクターになってます。中心部の空洞。ある人が皇居を空洞と書いていましたが。

青ひげ公の妻たち。妻、ですから、妻になるには前の妻がいなくなる、死ぬってのが前提ではあります。その妻たちがお互いに行き来する、一堂に会する、これも時間軸さえ縦横に行き来する虚構と現実の狭間ならではです。妻たちのウェディングドレスシーン、良かったです。

お芝居は2時間半くらい、ボリュームたっぷりでした。

つうか、人生もまた一幕のお芝居であれば…。かわいい女の子がやってきて、「これからあなたが死ぬまで、あなたの恋人を、そして妻を演じきってみせます。」とか言ってくれないかなぁ…( 木亥 火暴 )

いやはや…。

やっぱ二次元に行くべきかなぁ…。

あぁ本田透センセイ!

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