『電脳コイル1』(磯光雄:原作 宮村優子:著 徳間書店:刊)
読了。磯光雄さんのアニメ版『電脳コイル』を元に、宮村優子さんがノヴェライゼーションした小説です。著者の宮村優子さんは声優の宮村優子さんではなく、同姓同名の脚本家の方だそうです。
土曜日の夕方、NHK教育でやってるアニメ『電脳コイル』(http://www.tokuma.co.jp/coil/)、毎週楽しみにしています。(6月16日の土曜日午後3~5時、第1話から第5話まで一挙再放送だそうです。大おススメです。)
サイバーパンクと昭和レトロの融合という世界観、おおはまりしました。
まぁ、サイバーパンクは小説だとウィリアム・ギブスンの三部作、『ニューロマンサー』『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァードライブ』を読んだくらい。映画だと『ブレードランナー』にはまって、封切りも見てから、一時期は名画座にかかると必ず観に行って、それからディレクターズカット版のDVDを廉価版が出てから買ったぐらいですが。
昭和レトロというのは、まぁ、個人的な経験もあります。私の子供時代、駄菓子屋とか普通にあった最後の世代に属しているんでしょうが。舞台は20年後くらいだけど、あのころに似た子供たちの風景が展開されています。空き地とか、昔の駄菓子屋のようなメガシ屋(電脳メガネグッズのお店)とか。
前にも書いたけど、「電脳メガネ」というデバイスがすごいアイディアです。これをかけると現実世界に電脳世界が重ね合わせて表示されるという代物。電脳ペットとか、電脳オモチャ(ちょっと危ないロケット花火とか)とか、いろいろ遊べるグッズもあります。
仮想現実ものというと、現実とは切り離されて電脳世界に行く、というのはいくつかありましたが。『ニューロマンサー』三部作もそうですし、漫画『ルサンチマン』とかも。映画『マトリックス』になると、この現実世界そのものが仮想現実だったというところまで行きましたが。
でも、こういう形で「現実世界」と「電脳世界」が融合しているという世界観を持つ作品は、私の(けっして広くはないですが)見聞の範囲では無かったような気がします。
私は“現実”なるものは、常に“虚構”という衣をまとっていると思っています。それは岸田秀的に言えば社会の持つ“共同幻想”であり、また、個々人に残されている“私的幻想”であり。そういう見方をしている人間にとって、この、「電脳メガネ」というデバイスはとても魅力的です。
ま、ほんと、“ありそう”で無かった作品という気がします。
で、本書はその『電脳コイル』のノヴェライゼーション版であります。巻末に断り書きがありますが、本書はあくまで磯光雄のアニメ版を基にしたオリジナル版だとか。
正直言って、私、映画とかドラマとかのノヴェライゼーション版にはあまり手を出していません。小説の映画版とかも、観る時は、どこか警戒心を持って観てしまいます。「面白本、必ずしも面白映画とならず。」であります。映画と小説は別物、と思っています。ま、それでもなぜか本書には手を出しました。
本書は新書版ですが、開いてびっくり、天地スカスカの一段組み、行間もスカスカです。ジュブナイルだから、ルビを入れる都合上、行間は空けとかなきゃいけないんでしょうが。でも、天地スカスカで文庫本くらいの上下幅です。これで860円。いや、本が売れない今日この頃ですし、値付けは仕方ないと思うのですが。もちっとコンパクトに造ってくれたほうが持ち運びとかもいい感じかなぁと。
ちなみに本書、第1巻ではアニメのだいたい1~4話くらいまでの内容が収められています。アニメは全26話ですから、単純計算すれば小説版は全6~7巻になると思います。
本書は一人称複数視点で描かれています。アニメだとキャラクターを外部から描く三人称視点だから、小説ではキャラクターを内面から描く一人称視点というのはまっとうなアプローチだと思います。複数視点なんですが。メインはふたりのヒロイン、小此木優子(ヤサコ)、天沢勇子(イサコ)ですが、ヤサコの妹の京子とか、メガばあ(ヤサコの祖母で、メガシ屋を営むババァ)、とかの視点からでも描かれています。こういう形式だと、読者が混乱しそうですが、けっこうすんなり読み進められます。
ストーリー展開はアニメ版を忠実になぞってはいません。アレンジが加えられています。まぁ、これもアニメと小説とは違いますからって範囲です。
本書はあくまでアニメ版を“下敷き”にした「小説版」という位置づけだそうですが、いくつかの設定とかについて。
(以下鬼のようなネタバレゾーンにつき)
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