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2007/05/18

“自我”という病

「社会派くんが行く!RETURNS」
http://www.fugra.tv/shakaiha/data/index.html
というサイトにおいて、唐沢俊一さんがバージニア工科大学銃乱射事件と長崎市長射殺事件について緊急寄稿としてお書きになっていた文章に、“近代自我という病”という言葉がありました。今は削除されてなくなってるので、記憶で書いているんですが。また、上のサイトで唐沢俊一さんの「分際をわきまえろ」というような発言があったと記憶しています。

唐沢俊一さんはけっして外部の人間としてそういう事を批判している方ではないようです。
他の唐沢さんの文章を拝見すると、唐沢さんご自身がそういうことに苦しめられた、その経験の結果としてそういう事をお書きになってると、私は理解しています。

私も最近、そういうようなことをよく考えます。

それは、ひとことで言えば、今時の人たちは“膨れ上がった自我”というのを持っていて、その自我と世界の軋轢に苦しめられている、と。もちろん、人は“自我”を持ってないと生きていけないのは理解しています。

ほんと、何度も何度も書いていますが。

「いま・ここ」に薄くスライスされた現代人。地縁血縁宗教など、歴史や地理の束縛から解き放たれた現代人。彼らは束縛から解き放たれ、自我はどんどん肥大していった。だけど、逆に、それらが与えていた「自我の安定」というのを失い、肥大した自我はその不安定さに苦しむ事になった。

その不安定さゆえに、現代人は新しい「自我の支え」を求めるようになったと。「特別な人間」である事を求めるようになったと。そのための努力が、技術や芸術や科学など、現代社会を“発展”させた大きな原動力かもしれない。

しかし、その、自我と世界の軋轢に苦しむ人も多く、それが現代人の心の病の根っ子になってるのかもしれない。いや、苦しみゆえに、その苦しみから逃れようとするから、社会の“発展”が加速されたのではないかしら。「幸せを求める」という方向性より、「苦しみから逃れる」という方向性の方が強いですから。

唐沢俊一さんは「分際をわきまえろ」とお書きになっていますが、そう言われてハイそうですかと簡単に肥大した自我をシュルシュルと萎ませる事なんてできっこない。唐沢俊一さんご自身がそんな事簡単にできっこないとお分かりになっておられるようですが。

そして、わたし自身、自分の肥大した自我に苦しんでいる人間のひとりだと思っています。

また、先日のヴァージニア工科大学銃乱射事件、あるいはコロンバイン高校銃乱射事件、さらにはそのルーツであろう津山事件(津山三十人殺し事件)も、その肥大しきった自我と世界の軋轢が生んだものと思います。つまり、「セカイを殺すか、自分を殺すか」ですね。

ほとんどの人は、世界と自分が決定的に対立していて、どんなに努力しても自我が満足できるセカイなんてどうしたって手に入らない、あるいはセカイにあわせて自我を萎ませるる事にも耐えられない、と絶望すれば、「セカイを殺すか、自分を殺すか」と思いつめた結論に行き着いてしまうこともままあって。

しかし、セカイを殺す事なんてできっこない。核ミサイルの発射ボタンでも持ってなければ。だから、身の回りの人間を数十人殺すぐらいしかできなくって。
津山事件の犯人、都井睦雄から、ヴァージニア工科大学銃乱射事件の犯人、チョ・スンヒまで、このテの銃乱射事件の犯人は、たいてい事件を起こした後、自身も自殺してしまいますが。もし自分が生きて捕まってしまったら、その、他人の命を奪ってもいいと考えるくらい肥大しきってしまった自我が、裁判において、さんざんその独善性をあげつらわれ、傷つけられる、それを恐れて、自殺してしまうのではないかと思います。

しかし、さすがに、そういう方向にいく人はまれで。「セカイを殺すか、自分を殺すか」という局面になったら、「自分を殺す」方向にいってしまう人がほとんどでしょう。

岸田秀は、「人間は本能の壊れた動物である」というテーゼを打ち出しました。そして、本能の壊れた人間は、てんでばらばらの「私的幻想」を抱え込んでしまったと。その、「私的幻想」から共有できるものを集めて、「共同幻想」というのをこしらえて、人間は社会を構築して生きていってると。しかし、「共同幻想」に取りこぼされた「私的幻想」は、各個人の中でくすぶっていて、それが社会の不安定さの要因になっている、と。

ここから私見ですが。昔、社会が貧しかったころ、「共同幻想」からの逸脱は、即、社会の崩壊を招く要因となったと思います。だから、共同幻想から取りこぼされた「私的幻想」は押さえつけられていて。つまり、自我が肥大できる余地はなかったと。その代償に、その、抑圧的な社会は自我の安定装置としても働いていた、と。そう思ってます。

しかし豊かになった現代、ある程度の「共同幻想」からの逸脱も許されるだけの余裕を社会が持ってきて。だから、現代人は自我が膨らんできて。その代わり、社会が与えてきた「自我の安定」も効きにくくなってきた、と。

そう解釈しています。

また、“芸術”というか、表現物というのは、その、社会を構成している「共同幻想」から取りこぼされた「私的幻想」の拠りどころになってる部分もあるんじゃないかと思います。だから、例えば、「“社会”という共同幻想」の中ではけっして許されない行為、例えば人殺しを描いた小説とかが売れたりするんじゃないかと。そしてまた、そういうものを生み出すゆえに、芸術家はアウトサイダー、アウトローとなっていくのではないかと。

芸術とか表現物は「社会という“共同幻想”から取りこぼされた“私的幻想”」の受け皿であり、そのことによって「自我の安定装置」たりえるのですが。またもう一方、そういう表現物に耽溺したあまり、その、けっして“現実”社会では許されない行為を“現実”社会に持ち込んでしまう人も現れてきます。

例えば、先日起きた、母親を殺して首と腕を切断した高校生とかがその例かと。
ドンキホーテが槍をたずさえて突っ込んでいったのが風車だったからお笑いになるのであって、それが畑仕事をしている農夫だったら「気違いの通り魔殺人」になりますわな。

「引き篭もり」とかも自我と現実の葛藤から生まれていると思います。自分が思っているように生きる事を現実は許してくれない、だから、現実から逃げる、と。

あるいは自己幻想に凝り固まってしまった人たち。“自己幻想”に凝り固まって、“現実”を認識する事ができなくなった人たち。
人は全てある程度は「自分が理解したいようにしか理解しない」ものでありますが。私もそうですが。しかし、ある程度は“現実”によって規正されてるもの。しかし、そういった人たちはその“規正”がほとんど効かなくなってしまっていると。自分に不利な言葉は、無意識レベルで自分に都合のいいように曲解されるか、シャットアウトしてしまう、と。

こういう人はネット上にも多くて、そういう人たちの言動を紹介したサイトとかもいろいろありますが。某所の某困った人はそういう手合いだと解釈しています。
いや、閑話休題。

そしてここでまた、先日読んだ磯部潮『人格障害かもしれない』(光文社新書)と『普通に生きられない人たち』(河出書房新社)を引きます。
磯部潮さんは、境界性人格障害の人たちが見せる、不思議な魅力。そして、片方では激しい、不安定な関係を見せながら、もう片方ではクリエイティブな才能を見せる、いわゆる「破滅型芸術家」というものについて書いていらっしゃいます。

つまり、「自我と世界の葛藤」から作品が生まれ、それは同じく「自我と世界の葛藤」に苦しむ人の心に深く届くものになる、感銘を与える、と。そう理解していますが。

以上は私が最近よく考えている事をちょっとまとめてみたものです。私がこういう事を書くのには、知識も思考能力も不足していると思います。それこそ「分際をわきまえない」ことだと思いますが。でも、理解したいと思っていることのひとつであります。

また書くことになるかと思います。

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