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2007/05/30

ベトナム戦争グッズ

昨日、濃ゆい文章を書いちまいましたが。
私はベトナム戦争関係の本とか軍装品を集めるミリタリーオタクでした。ま、今でも資金的余裕があれば続けていたかもしれません。

もうベトナム戦争関係の本が出版される事もまれですし、ベトナム戦争関係の軍装品もだいぶ数が減ってきて、値も上がったし、入手困難になってます。また、基本的な装備品はだいたい揃っていますが。レプリカアイテムも含めれば、当時の歩兵の格好がだいたいできるくらいには揃ってます。銃器を除けばね。

ベトナム戦争は、やっぱり私の小さいころの原体験のひとつ、であります。
あのころ、テレビではふたつの戦争をやってました。ベトナム戦争というほんとうの戦争。
『コンバット』のテレビドラマの戦争。

『コンバット』ではアメリカ兵は絶対的な正義の味方で、敵のドイツ兵がいくらバンバン銃を撃ってきても、メインキャストには当たりません。逆に、メインキャストがちょっと銃を撃てば、ドイツ兵はバタバタと倒れていきました。
逆に、ベトナム戦争ではアメリカ兵は無辜なベトナム人たちをどんどん殺しまくっている悪玉でした。そして、アメリカ兵たちも、ベトコンにどんどん殺されていってました。

ただ、ふたつとも、「テレビの中の戦争」という事においては等価でした。

そして、日本のベトナム反戦運動。学生運動、反戦デモ、それもまたテレビの中で激しく、激しいけれど、テレビの中の事で。

そう言えば、テラヤマバスツアーで行った三沢の寺山修司記念館。イベントで集まった人たちの上を三沢基地所属の?米軍のF-16戦闘機が飛んでいったのだけど。それを見つけたある人が「あ、ファントムだ。」とつぶやいたのが印象に残ってます。F-4ファントムはあの時代を、寺山修司の時代を生きた人にとっては、空母エンタープライズと並んで憎むべき米帝の象徴でしたね。閑話休題。

ベトナム戦争でいちばんシンパシーを感じているのはアメリカ兵たちではあります。そりゃ、侵略の文字通り最前線の人たちですが。

戦場、それは、「殺される恐怖」とともに「殺す恐怖」にも耐えないといけない場です。サヨクの人たちは人は訓練されればやすやすと殺戮マシーンになれる、とよく言いますが。しかし、歩兵として、目の前の生きて動いている人間を手にした銃で殺すのは、かなりのストレスがかかる行為であるようです。
そして、そのストレスを軽減させるものが、国家、そして国の人々の容認と応援であります。

しかし、当時、ベトナム反戦運動が盛んで。世論は反戦に傾いていて。で、彼らはその精神的後ろ盾なしで殺し殺されという場に赴かなければならなくなったと。そういう場にはたいていの人は耐えられない、と。

ある者はドラッグに逃れ。またある者は逆にその状況を受け入れるため、逆に「殺人者」として自分を再規定してしまい、快楽殺人者の方向へ行ってしまったり。
ま、そこまで行かなくても、ほとんどの人間が厭戦気分で無気力に陥ってしまったようです。

彼らのありさま、その場にいなかった私は想像するしかないし、私の想像以上の状態だったと思いますが。でも、そういう場に投げ込まれてしまった彼らの気持ち、なんとなくシンパシーを感じています。

意味の分からない戦い、それは、私にとっては、今の社会もそうだと感じています。

そういう場において、人は、たいがいは無気力に陥るのでしょうが。

でも、中には、ホリエモンみたく、ある意味「殺戮者」となってしまった人間も出て。つまり、例えば、“経済”は人を幸せにする手段に過ぎなかったものが。戦争が、ある政治的目標を成し遂げるための“手段”に過ぎないものであるはずが、それを超えてしまい、殺戮そのものに悦びを見出すようになるがごとくになってしまい。つまり、意味の見出せない戦いゆえに、戦う事自体が自己目的化するように、マネーゲームを、いかに汚い手段を用いても、勝利する事のみに悦びを見出すようになってしまい。そんな感じかなぁ。

いや、私は、左翼の人たち、反戦運動をやっている人たちをけなすつもりはありません。それはお間違いなきよう。ベトナム反戦運動も正しかったと思っています。

しかし、アメリカ我執国は懲りないもので。せっかく東側が崩壊し、冷戦に勝利したのに、今度はイスラム世界を敵に回して。イラク戦争の泥沼に足を突っ込んで。

私は「人は戦争をする動物である」と認識しています。ただ、巻き込まれない事を祈るばかり。いや、国家とかの「大義に身を殉じる」ことに憧れる部分も私は持っているとは自覚しています。人間には何らかの自我の支えが必要で、そして、「大義」はその自我の支えとして
確かに大いに役に立つ装置であるとは理解しています。それはたぶん命と引き換えにしてもいいと思う瞬間もあるものかと。人の死は必然であり、それを乗り越えるための何らかの「大きな物語」がないと人は心安らげません。それを持ってない人は、健康きちがいになって、それこそ必死に自分の命を延ばそうとする事しかできません。でも、片方では、いつか自分は死ぬ存在である事、自我は消滅するものであるものだという認識にもさいなまれていて、だからきちがいになるのでしょうが。

ま、あたしは、そこらへんのカラクリに気がついていて、“醒めて”いるので、「国家という大義」に取り込まれることもないでしょうが。

いや、「人は戦争をする動物である」と思っていても、反戦運動に意味はないとは思いません。ルナールは「幸福とは幸福を求める事である」と言ったそうですが。「平和とは平和を求める事である」とも言えると思ってます。「反戦運動を拡げていけば、戦争はなくせる」と信じている人たちがいて、戦争をなくそうとがんばっているからこそ、このくらいの戦争ですんでいるのでは、と思っています。だから、反戦運動をなさっている方々を尊敬します。でも、わたしは、そういう感じで“醒めて”いるから、反戦運動に心から身を投じることもないでしょう。

いや、ややこしい奴だね、私ゃ。

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