睦雄の子守唄2
私は同じ内容の日記をこのココログとmixiに書いているのですが。
mixiで前の記事、『睦雄の子守唄』を書いてから、mixiでメッセージのやり取りが少しあったので、ここで私が書いた事を転記します。いつもはmixiでメッセージのやり取りがあってもここに転記したりはしないのですが、ちょっといろいろ考えさせられたので。
“受け入れられる”とはなんですか?という問いに対して、私の答。
“受け入れられる”ということ。それは、自分を“存在”を認められる、“ここにいていい”というような意味合いであるのですが。恋愛で言えば、思いが通じる、その恋する気持ちを恋している相手に受け入れてもらえる、というような意味合いです。
ぶっちゃけて言えば、さみしく屹立している男根が女性の陰土に受け入れられ、暖かく包み込まれるような感触であります。
なんかマザコンっぽい感じがしますが。
例えば、オタクなんてクラスでも孤立しがちですが。
周囲からなんか浮いている感触、“受け入れられてない”感触を感じたり。
“受け入れられない”のは武器ではないか?という問いに対して、私の答。
自分の中にはひとつの欠落感があって。
それを埋められるのが“受け入れられること”なのではないかと思っていました。まぁ、女の子にね。
普通に女の子とたあいない恋愛して、所帯を持って。暖かい場所をこしらえて、そうすればその欠落感は消えるだろうと思っていました。
だから、女の子を好きになって。でも、振られてばかりで。
喪男はそういう欠落感に苦しんでいて、好きになる女性はその救世主のように見えるから、拒まれた時の逆上っぷりも凄いのではと思ったりします。私がそうでしたもの。
たぶん、今回の事件の犯人もそういう人物だったような気がします。
でも、喪男というのは、喪男が愛されない、受け入れられないというのは、ひょっとしたら喪男自身、心の底ではそういうのは拒んでいる、そういうの
に馴染めない、そして、そういうのでは心の欠落感は埋まらない人たちじゃないかと思うようになってきました。そして、女の子たちも、喪男のそういう心の底
を本能的に見抜いて、喪男を避けているのではと思うようになってきました。
『パリ・テキサス』の主人公、トラヴィスがそういう自覚のある人物だったのではないかと。だから、彼は、自分が壊した家庭をいっしょうけんめい修復しようとするのだけど、でも、彼自身は、自分の居場所はそこにないと自分では解っていて、ひとり姿を消し。
『タクシードライバー』ではそこまでは描かれないけれど。でも、英雄となった主人公、トラヴィスのタクシーに、彼が好きだった女性、彼をこっぴど
く振った女性、ベッツィーが乗り込んできた時、トラヴィスは彼女とよりを戻そうとはしてないような描かれ方をしています。「オレが英雄になったからよりを
戻そうとしてるんだな、コンチクショー」じゃなくて、彼女が、あるいは、“女”というものが彼にとっての“幸せのかたち”じゃないと気がついたのではと、
私は解釈しています。
欠落感の埋め合わせ。
例えば表現者なんかにとっては、“表現活動”がその埋め合わせになると思えてるような気がするんですが。だからこそ、憑かれたように表現活動にのめりこむ、と。
ただ、その欠落感というのは、何を持っても埋め合わせできず、それを抱え込んでしまった人は一生それを抱え込んだまま生きていかなきゃいけないのかなぁと最近思ってます。
以上はもちろんココログだけの記事であります。
あんまりどっちかだけっていう記事は載せないようにするのが基本方針ではありますが。
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